第二十二夜 それはいつかの旧き夢(前編)
――それはまるで、白昼夢のように
いつか見た夢を思い出す。
古い古い夢のように、「それを見た」と言う事さえ忘れてしまいそうな程、脆い夢を。
なぜその夢を、今になって思い出したのだろうか。
僕にはもう、「過去」は必要ないと言うのに。
『──!』
夢の中の僕は、いつも「誰か」に笑っている。
心底楽しい、と言う感情を、必死に誰かと共有しようとしていた。
共有する相手を、大事だと思っていた。
(今の僕とは、比べ物にならないな……)
僕が普段から話すのは、殆どが「死んだ人間」ばかり。
夢の中のように、生者に対して饒舌にはなれていない。
ともすれば僕は、元から死んでいたのではないだろうか、とも思う。
性根の腐敗が、僕の肝臓を蝕んだのかもしれない。
つまりこれは、因果応報だ。
少なくとも今、僕が他人に頼らずに生きていくためには、全部を自分のせいにするしかない。
「──ごめんなすって」
不意に吹いた風が、巌のような老いた声を僕の鼓膜に叩きつける。
耳元で響く声は、死者の声。
僅に走る痘痕は、死者の手の冷たさ。
振り返った先にいた老人は、もう死んでいる。
「今は業務時間外ですよ」
「誰が童の手なぞ借りるもんかよォ。餓鬼に手ェ貸すのァ、大人の仕事よ。それはそうと、お天道様が照らしなさる往来に、辛気臭ぇ面は晒しなさるもんじゃあないぜ」
さ、立ちない。
聞きなれない江戸前節と共に、手が延びてきた。
その小さいながらも武骨な手を取って、僕は立ち上がる。
「……?」
ふと、何かが。ノイズのような何かが、頭の中に影を差した。
辛うじて断片が残るような、褪せた色の記憶。
僕はこの手を、知っている。
(誰だ?)
僕に老年の知り合いはいない。
ましてや、こんなに古臭い口調なんて知りもしない。
けれど僕の頭は、何かを思い出そうと煩悶していた。
「よぉし、それでいい。男はいつだって背中ァしゃんと伸ばして、手前の前をグッと睨んでるもんだぜ」
「あ、はい」
聞いたことはないはずなのに、どこか聞いたことのある安心感。
それはそれとして、老人の言う「おとこ」は僕の知るそれとは全く別物の気がする。
「あの、貴方は一体?」
「俺ァ……そうさな、迅助ってんだ。ただの迅助よ、そこいらのジジイとでも思ってりゃいい。
お前さんとは生きた時代ェも違う、時代ェ二つ三つ前の旧弊よ」
老人は迅助と名乗った。その名前に、やっぱり聞き覚えはない。
ただただ鍵のように蓄えた眉を険しく潜め、細い眼光で僕を睨み据える。
「あの――」
「人様の通りなさる往来に突っ立てたんじゃ、邪魔で御座んしょう。かと言って端に腰を着けるも行儀が悪い。ま、着いて来なせェや」
僕の言葉を遮って、迅助さんは踵を返す。
その背は掠れ褪せた道中羽織に包まれて、しかし丸まることなく真っ直ぐと延びていた。
「ここいらで良かろうがい」
溜め息と共に連れてこられたのは、「いつもの」公園。
僕と倉敷さんが出会って、そして、何にもならなかった場所だ。
同時に、僕が行こうとしてた場所である。
(倉敷さんは……、いないな)
公園のぐるりを見渡す。
晴れた春前の空は抜けるように高くて、柔らかな青に抱かれた太陽が、駆け回る子供達を優しく照らしていた。
「どうしたい、若えの。ツレでもいんのかい?」
「いえ──」
もう随分と、倉敷さんに会っていない気がする。
最後に会ったのは僕がまだ由香を「姉さん」と呼んでいた時のこと。
篠突く雨の中。この公園、このベンチで、倉敷さんは僕を励ましてくれた。
その最後の姿が、今でも僕の眼底に焼き付いて消えない。
「誰も、いません」
けれど、倉敷さんはいない。
あの雨の日のお礼も、彼女に「夢」を見せることも、僕はまだ出来ていないのに。
「どうした、座りない」
迅助さんの勧めに、「はい」と返してベンチに座る。
僕を受け止めたベンチは古く随所が錆び、歪な呻きを上げて軋んでいる。
倉敷さんと初めて出会った日は、こんなには軋まなかったのに。
思えば、随分と長い時間が過ぎてしまっていた。
「あぁ、やれやれ。歳喰ったまんま死んじまうと、座るのも億劫で仕方ねェ」
愚痴混じりの声とは裏腹に、迅助さんは流れるように滑らかな動作で僕の右側に座った。
僕についた癖は──倉敷さんの座る右側を空ける癖は、治りそうもない。
「で、お前さんはまた何で暗い顔してやがんだい?」
しゃがれた声は、唐突に僕を現実へと引き戻す。
好好爺然とした声はしゃがれていて、けれど芯があり、笛の音のようによく通った。
「いえ別に。この顔は生まれつきです」
老人の声が、記憶の彼方で僕を揺すったとして。
その声が、「懐かしい誰か」のものだったとして。
素性も知れない人に、何もかもを教える気にはなれなかった。
「何惚けたこと抜かしゃあがる。お前さんの顔は、もっと男前だったぜ」
「なんで、そんな事知ってるんですか?」
僕の中を這い廻る既視感は、僕だけのものではなかった。
目の前の老人もまた、僕の事を知っているらしい。
「ンなこたァ手前で考えやがれ。
俺ァ一本独鈷の渡世人。手前が勝手に落としってったモン拾って詫び回る、旅から旅への根無し草よ」
無造作に振った迅助さんの袖口に、鈍い光が翻る。
それは、いつか時代劇で見たような、古い手甲に脚絆。
江戸時代の旅人が手足に巻いて諸国を旅した、旅人の道具だった。
「ま、風のように現れては消えていく、風来坊さね。
喋れねェ事があるってんなら、俺程までの適任もいなかろう」
口汚く捲し立てる老人の口調には、不思議な暖かみがあった。
僕に祖父も祖母もいないけれど、もし存在していたら、こんな優しげな感じだったのだろうか。
「どうしたんだい、話してみない」
だから、なのかもしれない。
僕は、全部を目の前の老人に吐露していた。
母さんが死んだこと、親父が出ていったこと。
血の繋がらない姉と、二人で支え合って生きてきたこと。
怪しい仕事に就いたこと、そこで一人の自殺者と出会ったこと。
最後の家族がいなくなって、一緒に歩いてくれる人が出来たこと。
僕が、母さんと同じ病を患っていること。
「だから僕はまた、大切な人に嘘を吐こうとしてるんです」
僕の面白くもない話を、迅助さんは静かに聞いてくれた。
時に頷き、また時には手を叩いて笑ってくれる。
たったそれだけで、僕の心はずっと軽くなった。
「有り難う御座いました。なんか、胸が軽くなりました」
「おうともよ。人間は言葉にしなきゃ生きていけねェ生き物だ。だから心って奴は嘘を吐きやがる」
だがな、と逆接を置いた迅助さんの片目が、僕を睨め付ける。
「手前を守るために嘘付く奴ぁ、ただのド腐れ外道よ。
結局は、誰一人だって守れやしねぇ。
だからお前は、女を守れる嘘を吐きゃあがれ。
よしんば手前が死んでも、惚れた女は泣かすんじゃねぇぞ」
そいつが、恥じない生き方さ。
「だがお前さんは、よぉく頑張ってる。偉いぞ」
何故だろうか?
同情なんかが欲しい訳じゃなかった。
偽善なんて、上っ面だけの労いの言葉なんて、要らない。
要らないはずなのに、ただ一言「お前は頑張ってる」と言ってもらえるだけで、こんなにも涙が溢れるのはなんでだろうか?
「オイオイ、泣く奴があるかい……」
苦く笑った迅助さんの声と共に、小さな手が僕の頭に乗せられる。
優しく慰憮するその手つきに、僕の目からは涙が流れ続けた。
「ごめんなさい、ごめんなさい……!」
わからない、わからない。
迅助さんの優しさも、自分の心の温もりさえも。
ただ理解できるのは、僕に掛けられた「優しさ」の正体。
少しでも優しさが籠っていれば、それは人の心を容易に動かせる。
そして「言葉」は、それを伝えるための、一番の器なんだ。
「──迅助さん」
今、僕が伝えるべき言葉を、伝えるべき人達に伝える。
僕が今すべき言葉を、もう違えたりはしない。嘘も、吐かない。
「僕、もう嘘は吐きません。自分にも、大切な人にも」
「おう、言いやがったな?」
「はい、言いましたよ」
齢に似合わない悪戯な笑顔が、僕の顔を覗き込む。
ああ、この顔だ。
僕はこの顔が、大好きだったんだ。
けれどその人は、僕と居てはいけなかった。
僕から離れなければいけなかった。
その関係性が、僕と――倉敷さんを思い出させた。
「倉敷さんにも――僕に大切な事を教えてくれた人にも、恩を返します。僕は、強欲ですか?」
悪戯な笑みに、僕も真っ向から笑い返した。
覚悟は決まっている。ただ、背を押す手が欲しかった。
否定でも、罵倒でもいい。それが笑顔なら、尚の事。
何でもいい、僕は「取っ掛かり」がほしかった。
「けっ、阿呆抜かせ」
懐から取り出した煙管に、迅助さんが火を点す。
紫煙は、さらさらとした春の空に消えていった。
「――お前さんは、男だぜ」
その言葉を最後に、僕は立ち上がる。
覚悟は決めた。背は押された。なら後は、歩くだけ。
「……いってきます」
「オウ、行ってこい──千秋」
背を向けて歩き出した僕に投げられた一言。それは確かに僕の名前を呼んでいた。
ぶっきらぼうで、けれど暖かい。
もう随分と長い間記憶の海に沈んでいた、一枚の錆びた銀貨のような、鈍い煌めき。
その鈍い煌めきをソッと胸に仕舞って、僕は胸を張る。
迅助さんが吐き出した紫煙が、生き物のように僕を取り巻いて、晩冬の陽に溶けていった。
書きたいものを書いていきます。




