第二十夜 冬の終わり
何でこうなったかはわかりませんが、今回は結構際どいです。
直接的な描写は口付け止まりですが、苦手な方はブラウザバックを。
誰かが言う――愛は川のようだ、と。
誰かが言う――愛は鋭い刃なのだ、と。
傷付き、飢えるような愛を綴った歌があった。
永遠に満たされない苦しみを、綴った歌があった。
長くその歌を忘れていたが、その歌は確かに僕の胸に忘れ得ぬ不思議なしこりを残している。
今になって調べてみれば、薔薇の名を関した曲名に冠したそれは、結婚式などでよく流される名曲なのだそうだ。
けれど僕には、その歌がどこか悲しげに聞こえてならなかった。
いつかの昔、まだ恋も知らない僕に「悲恋」を教えてくれた歌。
その歌をまた聞きたくなって、僕は小さな音楽プレーヤーに挿したイヤホンを取る。
片耳に装着したイヤホンからは、悲恋のメロディーな流れてきた。
(ちょっと古いけど、いいな……)
しっとりとした音色に乗った歌声が、鼓膜を優しく揺らす。
僕にこんなにも上品で贅沢な趣味があったのかと問われれば、違う。
僕は、おさらいをしたかったのだ。
僕と姉さんは家族になった。
けれど正直、今までと何が変わったかと問われれば、特に何も変わっていない。
精々、お互いを名前で呼ぶようになったと言う事ぐらいだ。
「アーキくんっ!」
「ゆ、由香……」
曖昧さで言えば、僕らの関係も倉敷さんの存在と大差ない。
僕らを描く「線」は、空と海との境界線のように曖昧で、薄くて。
でも確かに、この世界を形成する一つのパーツとして存在している。
薄くてもいい、曖昧でもいい。
ただの男女として、ここに存在していられるのなら。
《ユメヒト》として人々の目から弾かれ続けたりはしない、ただの「三条千秋」と、家族と言う鎖には縛られない、ただの「三条由香」。
ただの男女としていられるのなら、それでいい。
それは、今までの長い長い道のりに比べれば、ほんの小さな一歩なのかもしれない。
けれどそれは、紛れもない前進なのだ。
いつまでも燻っていた僕達の感情が、ようやく手にした「明日」なのだ。
「愛って、色んなものになるんだな」
誰かに曰く、愛は川であり、また誰かに曰く、愛とは刃物や飢えであるらしい。
或いは――薔薇。
暖かな春の陽が、降り積もった深雪を解かす日を待つ種。
やがて訪れた春の陽に、薔薇と言う名の花を咲かせる小さな希望。
「うん、やっぱ分からない、愛」
僕には難しすぎるし、そもそも学んで覚えるものでもないだろう。
何となくわかる、そんな感じで十分だ。
「由香ちゃんも自分が分からないぞー!」
「うん、それは僕も分からない」
そしてそれは、多分一生。
「……家族になっても、このやり取りは変わらないね」
不意に、由香が声のトーンを落とす。
チラと盗み見た顔は、思いがけず若い、恥じらいを含めた笑みだった。
そうだね、と僕も笑う。自然と、笑えていた。
「でも、僕らはそれでいいと思うよ」
いじらしげな笑みが、視界の端で揺れる。
前回までは、それだけでは不安だった。
家族になると言葉を交わしただけの、何も変わらない日常が。
変わらない、僕達の距離感が。
でも、簡単なことだった。
ただ一度、「好きだ」と呼んでしまえば、後はもう激流のように言葉が流れてきた。
流れ着いた先の以前と変わらない日常も、その距離感も。
全てが満ち足りた、素晴らしい日常だった。
――僕は、これが欲しかったんだ
本当に欲しいものは、往々にして眼を凝らせば直ぐに見つかるほど近い。
だが、その眼はいつも近視のようにボヤけて、焦点が合わない。
大事なのは、周りの誰かを頼ってでも探すこと。小さな事にも、耳を澄ますことだったんだ。
「由香」
「ん? 何かな?」
ニマニマと静かに笑う由香を真正面に捉えて、居佇まいを正す。
釣られて彼女も、律儀に座を改めた。
「結婚、いつにする?」
「律儀だなぁ、アキくんは」
ここ数日の告白の連続で、彼女には告白耐性が付いてしまったのかもしれない。
彼女は驚く様子もなく、ただ擽ったそうに微笑んで
「いいよ、ただ側に居られるだけで」
と僕の頬に唇を重ねた。
「~~んん!?」
慣れていなかったのは、僕の方だった。
ただ由香の唇が触れた頬から、全身に熱が走る。
髪が全て逆立つような感覚と、開いたまま固まった眼。
羞恥とも感動とも取れる熱にほだされた体は、凍てついた様に動かない。
けれど思考だけは、いつもの数倍の早さで回転を続ける。
(え? キス? え、いや、初め、てじゃなかっ――初めてだな!?)
思えば由香は、一度として僕にキスしたことはなかった。
どれだけベタベタと引っ付いてきても、キスだけはしない。
思えばそれも、千秋と千秋を区別する為の物だったのだろう。
「そんなに驚かなくても~。アッハハ……」
相変わらず擽ったそうに笑いながら、由香は頬に手を添える。
白磁の手に隠された頬は、確りと火照っていた。
「しっかし、まさか『計画』を実行する前にアキくんから来るとはね~」
「え、計画?」
ようやく覚め始めた頭が、由香の言葉端に付いた不穏な単語を拾う。
「うん、竹本さんがね――」
由香の口から、計画の全貌が明かされる。
それは、完全なる犯罪。
語るに易く、考えるも易い。さりとて、決して実行に移せない、禁断の手法。
それは――
「夜這いだヨッ」
語尾に星のマークが付き添うなほど茶目っ気溢れる由香の顔が、心底僕の神経を逆撫でる。
「いやー、アッハハ。アキくんと家族になったって伝えたら、竹本さんが『じゃあヤっちゃえ!』って言うから……」
つまりは、『僕があまりにも頼りないから、既成事実を作って遊ぼう!』と言うものらしい。
夜でもないのに夜這いとは、何か根本的にズレている気もしないではない。
「ゴメンねっ」
「もう、怒る気力も湧かない……」
作戦立案は竹本さん、犯行示唆も竹本さん。
バイトの早上がりも竹本さん、と言う完全プロデュースだ。
竹本さんには、是非タンスの角に足の小指を潰されてほしい。
「それにしても……」
既成事実を作ろうとは驚いた。
それに乗った由香にも驚きだが、それほど本気だったと言うことにも驚く。
何せ彼女は、普段なら絶対にそう言った軽薄な行為はしないのだから。
「僕って、そんな頼りない?」
「うん」
「嗚呼……っ」
普段の意趣返しの心算か、頷く由香の表情声音は、彼女をあしらう際の僕に酷似している。
頼りないとは自覚していたが、今世紀最大の意趣返しだ。
「なんてね、冗談だよ~」
アッハハ~、と由香は、朗かに笑う。
そのいつも通りの顔に安らぎを覚えつつも、沸々と沸き上がる僅かな怒気、劣等感。
普段ならば一線を越えるような行為は取らない姉さんが、今回ばかりは自ら一線を越えようとした。
それはつまり、僕が頼りないからに他ならない訳で……
「……由香」
「お、怒ったかな?」
「そう、かもしれないね」
微かに由香が、身をよじる。
本来ならば無視できるほど僅かな怒気と、純粋な興味。不甲斐ない自分への、劣等感。
その存在が、僕の中で「男になれ」と声を荒げる。
「いや~、弟クンがそんなに怒るとは思わなか――あ」
僕の中に存在する、不確かな僕。
その存在の声をはっきりと聞いた瞬間、僕の目の前には、由香の顔があった。
その端整な顔は、美しい瞳は、驚嘆に見開かれている。
僕は――彼女を押し倒していた。
「あ、アキくん……?」
呼吸が、荒い。だが不思議と、苦しくはない。
熱に浮かされた時のように、ただ心地好くすらある浮遊感に包まれていた。
「また、弟クンって言った」
「あぁ、いや、アッハハ……。その、まだちょっと、慣れなくて……ゴメンね」
「そう、由香の中では、僕は――いや、俺はまだ「弟」か?」
意地の悪い質問だとは分かっている。
分かっているが、口が止まらない。
今の僕はまるで、悪意ある心が残したほんの僅かな善意に、その行為を見せ付けているような物だった。
善意が悲痛に「止めろ」と叫んでも、悪意は「やれ」と嗤う。
体は、悪意の嘲笑に身を委ねる。
「ちっ、違うよ? クセ、癖で……」
「いや、俺が頼りないのは間違いないよ。だから――」
――二度と弟と呼べないようにしてやる
嗤っていた、嘲笑っていた。けれど、笑うことはできなかった。
由香も僕も、初めてだった。押し倒すのも、押し倒されるのも。
「由香……」
「……」
けれど由香だけは、笑っていた。
優しく笑って、僕に囁きかける。
「んっ……、いいよ」
微笑みながら由香はシャツのボタンを外し、床に流れた黒髪を片耳に掛ける。
瞳は濡れていた。押さえていた手で触れた肩は、小刻みに震えている。
それでも口許に湛えた微笑は崩さない。
愛らしい、と思った。同時に、「離れるのが怖い」とも。
だから、無言で抱き締めた。
「アキ……」
熱っぽい吐息が、鼓膜を揺らす。
華奢な腕が、背中をまさぐる。
少し力を込めれば折れてしまいそうな程、細い体だった。
(こんな小さい体で……)
どれだけの苦労を、と考えかけて、思考を噛み殺す。
止めよう。今は、ダメだ。
今までの苦労に報いる気持ちは忘れてはいけない。
けれど、今は。男女として抱き合う今は、感傷に浸る時じゃない。
けどそれとは別に、どうしても今伝えたい感謝の気持ちもあって、僕の頭はどんどん固まっていく。
「アキ、大丈夫?」
耳許に掛かる声で、ようやく我に帰った。
そうだ、難しく考えなくてもいい。ただ、思ったことをすれば。
「……大丈夫だよ」
笑って答えて、抱擁から体を離す。
僕の背中から、名残惜しげに由香の手が伝い落ちていく。
所在なさげに宙に漂うその手を取る。
「へぁっ!?」
そっと口付ける。
次に、額。頬、瞼、掌、腕、首筋。
そして最後に――唇を、重ねた。
「――――」
たった一瞬の、長い長いキス。
体の内が燃え上がるように暑くなって、視界一杯に想った女性がいる。
幸せだった。
唇を重ね合わせた瞬間も、ぎこちなく互いを重ね続ける瞬間も。
どれも幸せで、僕を『ユメヒト』から『ただの千秋』へと戻してくれた。
「チ、アキ……」
切なげに僕を呼ぶ由香の眦には、薄く涙が乗っている。
上気した頬はだらしなく弛み、トロリと惚けた眦が、僕を見上げていた。
「もう、いいよね」
コクりと、由香は頷く。両の手を広げる。
その日僕達は、長い時間をかけて、男と女になった。
◇◆◇
微睡む内に、世界は緋に焼けていた。
心地好い疲労感と、触れ合う肌の温もり。少し汗を匂わせる、長い黒髪。
眼を開ければ一杯に想い人がいて、手を伸ばせばどこへでも触れられる。
「まだ、するの……?」
「しないよ、疲れたから」
「うん、わたしもだよ~……」
起き抜け。気の抜けた声で、由香が僕の耳元で囁く。
遠くでは、灯油ストーブがカンカンと鳴いていた。
「そろそろ、ご飯にする?」
「んぅ~、もーちょっとぉ……」
だらしない笑みを浮かべた由香が、僕の胸にその顔を埋める。
「あったか~い……」
「え、寒くないの?」
汗ばんだ腰を抱き締めながら、軽く笑う。
如何にストーブが点いているとは言え、季節は真冬。加えて、薄毛布一枚を除けば産まれたままの姿だ。
「風邪引くよ」
「いいよ、アキくんが看病してくれるんでしょ」
「しないよ? たぶん、僕も風邪引いてるし」
「うへへ~、お揃い~」
グリグリと由香の頭が僕の胸を押す。
どうしようもなく愛おしいと言う気持ちと、「バカップルじゃん」と言う懸念が脳裏に過る。
「これ、俗に言うバカップルじゃない?」
「ええ、今更なの?」
胸を押す頭を止めて、由香がキョトンとした顔を向ける。
真意を見定めようとする目だ。別にネタじゃないんだけれど。
「日本の首都の町中で愛を叫ぶ人は、紛うことなきバカだよ」
「勿論、それに応えた私もね」と由香は笑った。
釣られて僕も、何度目かもしれない笑みを浮かべる。
(飢え、か)
薔薇の名を持つ歌の一節を思い出す。
なるほど確かに、愛とは飢えなのかもしれない。
終わらない欲に心を焦がし、ほんの少しの行き違いで、互いの心は傷を負う。
それでも僕は、由香と歩いていく。長い夜も、遠い道も。
(なんてね……)
青臭い青臭い。やっぱり僕には、「愛」なんてものはわからない。
わからなくて、いい。
上体を起こして、窓外を見やる。
ビルの谷間を、緋の光が埋もれていく。薄れ消え行く緋に乗った紺青色の夜空には、宵の星が煌めいていた。
肩にしなだれかかる由香の頭に、自分の頭を重ねる。
――少しでも、由香に残せるものを作れますように
僕は初めて、純粋な気持ちで願いを捧げた。
冬はもう、終わろうとしていた。
手の上なら尊敬、額の上なら友情。
頬の上なら満足感、唇の上なら愛情。
閉じた目の上なら憧憬、掌の上なら懇願。
腕と首なら欲望を、と言うのがキスの種類だそうです。
(これ、今回は絶対怒られそうな気がする……)




