第十九夜 帰ろう
時計の針は深夜の一時を指し、雲間から覗く月光はネオンと混ざり舞い踊る。
都会の町も少し通りを外れれば、人の通りは圧倒的に少ない。
僕と姉さんは、そんな夜道を歩いている。
あの後――山戸さんに会って、倉敷さんの「独り言」を聞いた後。
溺れるように走って、僕はもう一度、姉さんの前に立った。
息は弾んで、喉は枯れていた。
一キロ近い道程を全力疾走してきた僕は、何度も噎せ返りながら、「ごめん」の一言を言おうとした。
そんな僕を見て、姉さんは「行こう」と言って薄らと笑った。
それから二人で外食した。
普段から節約の為に外食はしない僕らにとって、久しぶりのファミレス。
ハンバーグ、ライス、サラダ、ドリンクバーの夕食は豪華で、だけどあまり味を感じなかった。
いつも通りの、下らない会話。
けれど、とりとめもない日常のはずの会話は、何故か少し喉に引っ掛かるような違和感があった。
「あねちゃんのお通りだぞ~! 道を空けい、このおバカ愚民共~!」
「既に道は空いております、殿。あと、女の子がそんな言葉使っちゃいけません」
ベロベロの姉さんと肩を並べながら、僕は冷静に突っ込む。
断っておくが、僕も姉さんも酒は飲んでいない。
二人とも、酒の類いが苦手だからだ。
「あねちゃんは~三条実美だぞよ~! こないだ明治維新に参加したお~」
「なんでまだ生きてんだよ……」
常人が酒に酔ったらこんな感じになるんだろうな、と考えて僕は肩を落とした。
そう、姉さんは酒を飲んでいない。
素面のテンションでこれなのだ。
「……こんな暮らしが、もう十五年以上か~」
ふと思い立ったように、姉さんは僕の耳元で呟いた。
僕と姉さんの出会いは、僕が三歳の時だったと記憶している。
法律上、養子縁組の条件は「六歳未満」だからだ。
どれだけ遅くても、養女である姉さんは五歳には家に来たことになる。
正直、出会いの記憶は曖昧だ。
遡れる記憶全てを手繰り寄せても、僕が姉さんと出会った日の記憶はない。
何にせよ、思い出せないぐらい昔の話。
僕らは、それほど長い付き合いをしてきたと言うことだ。
「そうだね。今まで、ありがとう」
ボソリと、姉さんの耳元で呟く。
頬を赤く染める姉さんから目を逸らし、僕は歩き続ける。
『あの朝日に向かって走るぞー!』
店を出た後、唐突に真っ暗な空に向かって歩き出した姉さんは、やっぱりいつも通りだった。
そんな姉さんを、どこか他人のように思えてしまっていたのは、どこかでまだ僕が「姉弟の形」を意識してしまっていたからなんだろう。
「待って弟よ」
不意に、姉さんが俺を呼び止める。
「――アキくん」
「……なに」
来た、と思った。
あの部屋で起こった事を。今まで目を逸らしていた、姉さんの気持ちを。知らなければならない。
僕は覚悟を決めた。
「付いてきて」
真剣な話をする時の、あの泣きそうな声とは違う。
年相応に初々しい声は、少し震えていた。
「どこいくの?」
「いいから」
家の方向とはまた別の、暗い夜道を歩いていく。
既に夜は更け行き、降霜の町は日付変更線を跨いでいた。
「……私がいつから君の事、「弟クン」って呼ぶようになったか。アキくん覚えてる?」
夜を泳ぐように前を歩く姉さんが、僕に振り返る。
視線を姉さんに向けて、僕は少なからず驚く。
感情豊かな姉さんの顔に、変化があった。
それも、今まで見せたことのないような顔が。
「姉さん、やっぱり怒ってる?」
姉さんは、誰がどう見ても分かるほどに頬を上気させて怒っていた。
「怒ってないよ。で、覚えてるの?」
「……覚えてるよ」
「怒ってない」とは言い張るものの、姉さんの顔は険しい。
これで怒っていないと言うのなら、地獄の閻魔様は常に破顔大笑していることだろう。
「母さんが死んで、親父が出ていった直後からだ」
姉さんが僕との血縁関係を確認するように「弟クン」と呼び始めたのは、中学一年も終わりの頃。
丁度僕ら姉弟が、二人暮らしを始めた時期と重なる。
「そうだよ、なんでかはわかる?」
「わからないよ」
「そう」
「うん……」
気まずい沈黙が、僕らの間に横たわる。
夜の顔を見せる静寂の都会も、僅かに瞬く霜夜の星も。
全て僕を責めるように感じてしまうのは、僕が罪悪感を感じているからなのだろう。
家族だと言うのに、こう言う時、どうやって会話をすればいいのだろうか。
僕は、分からなくなっていた。
「……行こう」
せめて答えを聞くなり、謝るなりすればよかった。
何故か浮かんできた「進め」と促す言葉は、口にして初めて、後悔の念を手土産に返ってきた。
「うん」
怒りも、おどけも、普段の笑いも。
全ての感情が消えた顔で、姉さんは頷いた。
とことこと、空谷となった町を歩いていく。
足が進む先には、駅が見える。
僕が進めと言ったにも関わらず、家とは反対の方角だ。
(多分、駅に向かうんだろうな)
そんな所に当たりをつけて、僕は姉さんから半歩遅れて付いていく。
道中、会話はない。
「……ヒントを上げちゃおう。制限時間は、あの駅までだよ」
姉さんは、振り返らずにそう言った。
肩口にばらりとかかるセミロングの髪が、月光にキラキラと透いて輝く。
「『民法第734条但し書き』、は知ってるかな?」
「知らない」
「じゃあ、私とアキくんの血が繋がってない、ってことは?」
「それは知ってる」
姉さんが実母の虐待で施設に保護され、家に連れてこられたのは知ってる。
そんなことは、僕が小学校に入る年に知ったことだ。
勿論、姉さんは最初から知ってる。
「じゃあ、次――私がこれまで好きになった人の人数、は?」
「知らないよ、そんなこと」
いくら家族でも、恋愛関係までは詮索しない。
それでも「一人」いることを僕が知っているのは、姉さんがさっき自分から「好きな人がいる」と言ってきたからだ。
それ以上のことは知らない。
知るつもりもないし、出来れば知りたくもなかった。
「……一人だけだよ」
本当に知りたくなかった事実が、姉さんの口から転がされた。
僕の心境を無視するように発された姉さんの言葉は、蚊の羽音程度にも関わらず、僕の鼓膜を憂鬱なまでに震わせる。
話のネタ等でよくある「姉に恋人が出来て、弟が彼氏に嫉妬」なんて言う気持ちにはならない。
実際に姉がいればわかるだろう。
だが、それとは別に知りたくないのもまた事実だった。
『私が今まで好きになった人は一人だけ』
姉さんはそう言ったきり、何も言わずただ黙々と歩いた。
普段あまり喋るタイプではない僕も、もちろん黙って歩く。
日常であるはずの沈黙は、何故か今日ばかりは息苦しく、僕は連行される罪人の気分を味わった。
「駅、着いた」
暗闇と夜の静けさが、霜のように降りる駅はもう終電も過ぎた頃。
沈黙に抑圧された僕の口を突いて出た言葉は、自分でもびっくりするほど無感情だった。
「電車、もうないよ」
「うん、そうだね」と姉さんは頷いた。
そのとき見えた横顔は、暗くてよく見えなかったけど、ほんの少しだけ赤らんで見えた。
「答え合わせ、しよっか」
僕に向き直った姉さんの顔は、月明かりに照らされて、やっぱり赤らんでいる。
そう言えば、姉さんが僕を真正面から見据えたのは、今日は初めてかもしれない。
そんなことを思いつつ、僕は呆けたように姉さんからの言葉を待つ。
「アキくん、さっきの質問は、わかったかな?
私が君の事、「弟クン」って呼ぶようになった、理由」
ここに来て、僕はようやくわかった。
姉さんは、怒っていない。
普段マイナスの感情を見せない姉さんが、珍しく見せたその感情は、怒りではなかった。
だからと言って、僕にその表情の正体は分からない。
僕の人生経験は乏しいのだ。
人の表情を読む力があったら、僕は親父なんて殴らなかっただろう。
姉さんの質問にも、張り付けた表情にも。
僕は何も答えることはできなかった。
僕は、卑怯者だった。
そして、臆病者だった。
自分で「姉さんの気持ちを知る」だなんて決めておきながら、いざ時が来るとなれば舌が回らない。
誰かから答えを与えられるのを待つだけだ。
「じゃあ、ヒントを絡めて説明していくね」
真剣で、どこか剣呑な雰囲気の姉さんは、懇切丁寧に話を進めていく。
「一つ目、民法第734条但し書き。これは『養子なら養親の実子と結婚していいよ』ってこと」
「……」
姉さんの説明はあまりにもざっくりし過ぎているけど、押さえるべき所は押さえている。
法律関連の専門家が聞けば、首を傾げるのかもしれないけれど。
「二つ目、私が今まで好きになった、ただ一人の男の人……」
姉さんは口ごもる。頬は赤く、熟れた果物のように色付く。
姉さんが何を言おうとしているのか。
人の感情に疎い僕は分からなくて、そして分かろうともしなかった。
「――君だよ。三条、千秋クン」
だから僕には、姉さんの言葉が刃物みたいに思えた。
刃物を突き付けられたように、僕の背はざわつく。胸が、詰まる。
「私が君を弟クンと呼ぶようになったのはね、お義母さんが死んじゃって、お義父さんが出てったからだよ」
その時にはもう、私はアキくんのことが好きだったんだ。
「このままじゃ、私は君との関係を壊してしまう。家族じゃ、なくなっちゃうからって」
相変わらず、胸が詰まっていた。
突然引き戻された現実に、僕は声もなく立ち竦む。
言葉は詰まらず、端から生まれてもこなかった。
「でも、やっぱりダメだったんだよ」
そう言って姉さんは、優しく寂しげに笑った。
現実から目を逸らしていたのは、僕だけじゃなかったのだ。
僕も、姉さんも。同じように「家族の形」に縛られていた。
僕らは、共犯者だった。
「ごめんね。私、もうアキくんのこと「弟」として見れないよ」
涙が一筋、姉さんの頬を撫でたように見えて、僕の呼吸は一瞬止まった。
瞬きと共に消えてしまったそれは、錯覚だったのだろうか。
何れにせよ、もう二度と見たくないものだった。
『お姉さん、出て行っちゃうかも知れませんよ?』
倉敷さんの言葉を、思い出す。
このままこの不毛な関係を続けていけば、いつかはこの関係は破綻する。
そしてその「いつか」は、そう遠い未来の話じゃない。
来週か、早ければ今晩にも、姉さんは出ていくかもしれないのだ。
『ユメヒトさん、よーく考えてみてください。
あなたが今後、血の繋がらないお義姉さんと、どんな関係になりたくないのか。
あなたは今、何をしたいのかを』
倉敷さんの言葉を、もう一度思い出す。
何になりたくなくて、何をしたいのか。
もう、分かっている。もう、迷わない。
「姉さん」
もう姉さんの涙は見たくない。
僕が口を開いた理由は、それだけで十分だった。
「ん……?」
いつものように過剰な反応はせず、姉さんはゆったりと僕に微笑みかける。
物心ついた子の、拙い言葉に耳を傾ける母親のようだった。
「僕は今まで、姉さんに姉弟でいることを押し付けてきた。
姉さんと、家族以外の関係になるのが、怖かったんだ。姉さんは、僕の最後の家族だったから」
「…………」
姉さんは、何も言わない。
ただ「わかってるよ」とばかりに、優しく微笑んでくれた。
「だから姉さんが僕との距離を縮めようとした時、嬉しくなったんだ。
でも、やっぱり怖かった。だから僕は、姉さんから逃げたんだ」
本当に、ごめん。
これが全部僕の卑怯な自己満足だとは分かっている。
過去を清算しようとと思わないし、出来るとも思わない。
だから僕は、ただただ謝った。
「違うでしょ?」
鈴を鳴らしたような姉さんの柔らかな声が、僕に問い掛ける。
「私はね、謝ってほしいんじゃないよ。それは、アキくんだって知ってるでしょ?」
「そこから先は、わかるよね?」と姉さんが僕に微笑みかける。
そうだね、と僕も笑った。
「……姉弟関係は、もう終わりにしよう」
たっぷり間を置いて、僕は姉さんに微笑みかける。
姉さんは、何も言わない。
少しだけ目を潤ませて、ただ僕に微笑みかける。
その口角が少しだけ震えているのを、僕は見逃さなかった。
「姉さんが僕を弟として見れないように、僕ももう、姉さんを姉として見れない」
「だから」と一拍置いて、僕は姉さんに手を差し出した。
今の今まで動かさなかった手に、雨上がりの霜夜の冷たさが滲みる。
「帰ろう。僕たちが、家族になる家に」
姉さんが保ち続けてきた微笑が、遂に崩れた。
見開かれた瞳が返す光は石を投じた水面のように揺れ、無理な微笑を湛えていた口角の震えは、止まっていた。
「うん、うん……っ!」
涙に掠れた声を掻き消すように、姉さんは何度も頷く。
「帰ろっか!」
僕が差し出した手を、姉さんはギュッと握り締めた。
かじかんだ手の先に、じんわりと熱が籠っていく。
その暖かみと柔らかさに、僕は素直に驚いた。
人の手を握ると言うだけの行為で、こんなにも幸福になれるとは。
「アキくん」
「なに?」
「……ん~んっ、なんでもないヨ!」
僕の手を取り歩き出した姉さんが、「ニッシシ」と笑う。
その嬉しいような、恥ずかしいような照れ笑いを見て、僕は相好を崩した。
ああ、良かった。
もう、姉さんの涙を見なくて済む。
淡い月明かりと、街灯が照らす夜道を歩く。
隣を見れば姉さんと目があって、目線を下げれば、繋いだ手が楽しげに揺れている。
もう、何も怖くはなかった。




