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第一夜 ありがとう

「『ありがとう』って、言えなかったかもしれないんだ」


 噴水の縁に腰を下ろすなり、その男の人は僕に苦笑して見せた。

 名残月に照らされた楓の葉が、ハラハラと舞い落ちる季節は、秋の夜長も暮れの頃。僕とその男の人は、緑化公園の一角。噴水の広場で顔を合わせていた。


「お袋にね、『ありがとう』って、言ったんだ。でも、お袋は涙ボロボロでさ、俺の言葉が聞こえたのか、分からないんだ」


 「だから、もう一度会って伝えたい」と男の人は、僕の顔を真っ直ぐに見つめた。

 疲れ果てた顔の、影の薄い干物みたいな印象。僕は彼の顔を見据えて、一冊の手帳を開いた。鞣し革で装丁された手帳。その三分の一ほど捲った項に、依頼主である男の人の情報が浮かび上がる。


 望田涼、二十八歳独身。

 都内の流通メーカーに勤務。二週間前、バイクの交通事故で右手と右足を欠損。声帯を損傷。


「えーと、それでね?」


 僕が聞いていないとでも思ったのだろう。男の人は、僕の顔を覗き込むようにこちらを窺ってきた。けれど断言しておこう。僕はしっかり話を聞いている。だってこれは、『仕事』なのだから。


「お母様のお名前は望田陽子さん、五十三歳。県立高校の学生食堂で働いている。お父様の恭平さんは二十年前に他界。二人とも出身地は東京、と。ここまでに間違いは御座いませんか?」


 手帳に書かれた内容を一気に読み上げる。後半に進むにつれて、望田さんはその疲れ果てた顔を蒼白に染めていった。彼は、まだ何も言っていない。


「そ、そう、その通りだ。え、なんで……?」


 何度も目をしばたたかせ、望田さんは狼狽の色を見せる。こんな驚いた顔も、幽霊を見るような瞳も、もう慣れてしまった。

 人間だった彼等に、一区切り付けて帰るべき場所へと帰す仕事。そのために『夢枕』へ導き、現世最期の時を最愛の人との逢瀬で飾り付ける。それが僕の仕事だ。


「『夢枕』の希望は、今夜二時から、お母様の望田陽子さんですね。お母様が夢から覚めないうちは会話ができます。ですが、実際の時間が三時間進めば、夢の中では一時間進みます。ですから、人にも因りますが二時間半がタイムリミットと考えてください。言うまでもありませんが、生者を脅したり傷付けたりと言った行為は厳禁です。禁止事項に触れた場合は、すぐに夢枕を中止させます」


 今からご覧に入れることは、今生一切合切の名残を断ち切る奇跡。けれどその分の誓約は、お世辞にも軽いとは言えない。だからこそ、僕が口を酸っぱくして忠告する必要があるのだ。


「それと言い忘れてましたが、生者が「会いたい」と思っていなければ、夢枕には立てません。注意してください」


 そして、何よりも大切なこと。この奇跡は、生者と死者の思いが通じ合っていなければ起こらない。生と死。対極に位置する二つを繋ぐものは、「会いたい」と言う純粋無垢な気持ちなのだ。


「会って、くれっかな……」


 望田さんは、暗い瞳を瞼の下に隠した。


「俺、君くらいの頃は本当にどうしようもない奴でさ。つまんないことで、すぐお袋に反発してたんだ。ひどいことも随分言ってきたし、何度か警察のお世話にもなった。高校卒業したらすぐ地元飛び出して、勝手に就職して……。それでこんなことになった。笑える話だよ。今までの迷惑を謝ろうと思えた時には、もう俺に口なんて無かったんだから」


 苦笑を浮かべる望田さんの横顔は、今にも泣き出しそうな空の色と似ている。いくら高説を垂れても、結局人は他人の気持ちなんて分からない。例えそれが、血を分けた親でもだ。

 こんな仕事で、生と死を繋ぐ僕も、そんなことは分からない。僕は、母さんに会いたいと思っているのだろうか? 逆に母さんは、僕に会いたいと思っているのだろうか? 望田さんと自分自身を重ね合わせて、僕はいたたまれない気持ちになった。


「大丈夫ですよ。どんなに迷惑をかけても、お母さんはあなたとずっと向き合ってくれたのでしょう? そんな親なら、どんな姿になっても「会いたい」と思うはずです」

「そう、なのかな……」

「きっと、そうですよ」


 そうでなければ、僕は一体どうなると言うんだ。早くに両親を失った僕の枕元には、未だ誰一人として立ってくれない。「会いたくない」と思われ、疎まれているなんて、考えたくもないじゃないか。


「だって、望田さんの「ありがとう」って言葉が聞こえなかったかもしれない程、お母さんは涙を流していたんですよね? 人のために──心も通じない一人の人間のために泣いてくれる人が、「会いたくない」なんて思うとは、僕は思えません」


 これは全部、僕の拙い願望かもしれない。例えそれが願望でも、夢は覚めるものだと分かっていても。目の前で諦める人を、黙って見ているなんて出来る訳ないじゃないか。


「そう、だね。申し訳ない。いい歳こいたおっさんが、ナヨナヨしたとこ見せちまった」


 立ち上がった望田さんがようやく見せた笑顔は、相変わらず苦い。けれどその背はしゃんと伸びて、前を向いて歩き出す一筋の「芯」を持っていた。

 人はそれを、「勇気」や「覚悟」と言った言葉でお茶を濁すのだろう。僕にその空白の言葉を補うだけの語彙力はない。けれど本当に大切なのは、なにも言葉だけじゃないと思う。

 その一番大事なものを、望田さんの背は持っていた。


「ありがとう。君は若いのに、随分と親身になってくれるね。これから苦労するぜ?」


 初めて茶化すように笑った声に、僕は心持ち表情を緩めて笑いかけた。


「せいぜい苦労しますよ。それが、〈ユメヒト〉ですから」




 ◇◆◇




 夜。窓の外では木枯らしが軒先の落ち葉を舞わせ、雲間に覗いた月が、微かに室内を照らしていた。枕元の時計は、一時五十九分を指している。望田さん親子が、今生の別れを告げる時間だ。四畳半の粗末な寝床には、二人の親子が顔を合わせていた。


『お袋、久しぶり』


 涼太さんが、ニッコリと笑いかけた。その先には、『信じられない』と言った顔で口許を覆う母、陽子さんがいる。例え夢とわかっていても、死んでしまった息子との再開は、神様の存在を信ぜざるを得ないほどの幸福なのだろう。その経験のない僕には、ただ想像することしか出来ない。


『ごめんな。俺、バカで。お袋より先に死んじゃったよ』


 またぞろ苦笑を浮かべる涼太さん。その眦にうっすらと浮かんだ涙を、僕は見逃さない。


『ほ、ほんとバカな息子だよ……ッ。親より早く死んで、とんでもない親不孝ものだよ、お前は』


 目の前が見えなくなる程の涙を拭った陽子さんの声は震えていて、けれどその顔には、気丈な笑みが張り付いている。「母」と言う生き物は、きっとこの世で最も強いのだろう。今にも泣き出しそうな顔を、それでも彼女は決して歪めなかった。


『ハハハ……。ほんとごめんな、独りぼっちにさせて』

『何言ってんのよ。私が産まれてから、どれだけ一人だったと思ってんのよ。い、今さら、今さら……ッ!』


 声が震えて、掠れて。陽子さんの頬を、大きな涙が伝った。曇天が、抱えきれなくなった雨を溢すように。陽子さんは、もう涙を堪えることは出来なかった。


『やっぱり、ダメねぇッ。笑って「行ってらっしゃい」って、送り出そうと思ってたのに……!』

『お袋』

『やっぱり一人は、寂しいわよ……ッ』


 喉から絞り出された言葉は、胸を抉るほどに切なくて、苦しくて。どこまでも残酷な痛みを、歔欷の中に溢し出す。


『お袋、よく聞いてな』


 浮かべていた口許を消した涼太さんが、泣き崩れた陽子さんの肩に手を置いた。その顔は暖かく、柔らかい。

 その時、夢の世界が暗く暗転を始めた。そろそろ時間だ。高齢者の短い睡眠時間では、夢も長くはもたない。


『なんか、こう真面目腐ったのは俺のガラじゃないって言うか……。むず痒いなぁ』


 徐々に、徐々に暗くなっていく夢。その夢の中で、涼太さんの体が薄く、淡く消えていく。光暈に巻かれて消えていく彼の体だけが、薄暗い中で宵闇のホタルのように唄っていた。


『お袋、泣いてたから聞こえなかったっしょ? 俺が、最期に何つったか。俺の、最期の言葉はね──』


 あんまりにも悲しすぎる別れ。それでも涼太さんは、登った太陽の様に明るい笑顔で、笑いかけた。


『ありがとう』


 ありがとうの一言に全てを籠めて、涼太さんは消えていった。空を彩る星が、明け方に消えていくように。悲しみが、ゆっくりと癒えていくように。涼太さんは音もなく、ただ静かに消えていった。


「最期の言葉くらい、聞こえてたわよ。バカ息子……」


 夢枕の名残に、悲しげな陽子さんの声が溶けていく。

 宵闇に舞う最後の淡光が空へと飛んで、新しい朝がやってきた。

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