第十八夜 崩れていく、僕の臆病
雨が降ってきた。
今にも降り出しそうだと自分で言った癖に、咄嗟に傘を握らなかった自分を恨む。
冬の冷たい雨は、身を穿つように厳しい。
それでも僕は雨降るなかを、斑に染まったベンチに腰を下ろす。
きぃと小さく、しかし耳障りな音を立てるベンチに、僕は脱力した。
行水のつもりか、はたまた償いのつもりか。
僕はベンチの背もたれに後頭部を預け、降り仰いだ顔一杯に雨を注ぐ。
ばたばたと顔面に叩き付ける雨は、ともすれば本当に皮膚に穴を穿つほど厳しく、痛みをもたらした。
自分を痛めることで、姉さんに負わせてしまったであろう心の傷の、償いになろうとする自分がいた。
「ほんっと、最悪だ……」
唇を雨粒に叩かれながら、掠れた喉を震わせる。
僕へ宛てた、僕からの怨嗟の声。
それは僕が長く現実から逃げていた、目を逸らしていた証だ。
もっと具体的に言えば、「姉さんから」目を逸らしていた。
僕と姉さんは血が繋がっていない。
それは僕たちが家族になった日から、わかっていたはずの事だ。
だから、かもしれない。
僕が今まで、姉さんから目を逸らしてきたのは。
血が繋がっていない事が「普通」だと自分に暗示して、僕と姉さんの関係を一般的な姉弟の関係にしようとした。
血の繋がった姉弟であらば、保つはずであろう距離感を作っていた。
要するに、僕は自分から姉さんとの間に壁を造っていたのだ。
僕と姉さんは、世間一般には「義姉弟」だ。
それを僕が、無理矢理「姉弟」と言う形にした。
何も無理に姉弟になろうとしなくてもよかったんじゃないか、と今になって思う。
実姉弟には実姉弟なりの距離や関係性があるように、僕たち義姉弟には義姉弟なりのそれがあっても良かったんじゃないか、と。
けれど、気付いた時にはもう遅かった。
僕は、僕の偏見と現実逃避で塗り固めた漆喰の城を崩されるのを恐れて、姉さんから逃げ出してしまった。
姉さんが振り絞ってくれた勇気を、「誘惑」と勘違いしてしまった。
僕に近付いて来てくれた姉さんを、傷付けてしまった。
僕は、臆病な卑怯者だった。
「――傘もささずに、何やってるんですか?」
突然、耳許で声がした。空を仰ぐ視野の範囲には、誰もいない。
死者の声だ。
少し離れていても目視できる距離なら、声は耳許ではっきりと聞こえるのだ。
この公園で僕に声をかけてくる死者は、一人しかいない。
この感情が抜け落ちたような冷たい声も、透き通るように透明で、淀みのない声も。
僕は一人しか知らない。
「倉敷さん、ですか」
空を仰いだままの僕の声は、疑問符が抜け落ちていた。
「倉敷です」と言いながら、倉敷さんの気配が近づいてくる。
「……今日は《ユメヒト》、休みですよ」
言外の言葉に「帰れ」と明確な拒絶を含める。
一人になりたかった。もう少し、一人で考えたかった。
そうしないといけないような、そんな気がした。
「言ったじゃないですか。私、人と喋るの好きなんですよ」
相変わらず耳許で響くような声はそのまま、倉敷さんの気配が僕の隣に辿り着く。
「座っても?」と倉敷さんが訊ねてくる。
僕は何も答えなかった。
「右半分、開けてるじゃないですか」
責めるように言われて、僕は始めて空から視線を動かした。
錆とコケが付着したおんぼろベンチは、その右半分が空席になっている。
左半分を空ける倉敷さんに対して、僕も右半分を空けるのが習慣になってしまったようだ。
「座りますね」と僕の目を伺いながら、倉敷さんは空いていた右側に座った。
「一人で広いベンチを占領しようとは思いませんよ」
みっともない言い訳だ、と思った。
本当は、倉敷さんが来るのを待っていたのに。
本当は、倉敷さんと会いたかったのに。
ささくれだった幼稚な心が、本心を覆い隠していた。
「はいはい」と倉敷さんは受け流す。
「運よく空いていた席に、座らせていただきます」
どこか皮肉げに、しかし若干嬉しそうな声を、僕は再び空を見上げて聞いた。
相変わらず、痛い雨だ。
「雨に濡れない死者って便利だな」と羨む気持ちに、何かが引っ掛かった。
その違和感の正体は、すぐにわかった。
無視して見過ごそうにも、その違和感はあまりに大きすぎる。
雨に打たれて、少しだけ頭が冷えたのかもしれない。
「倉敷さん……」
「なんでしょう」と倉敷さん。
そうしているのがさも自然のように、僕に淡麗な顔を向ける。
倉敷さんの体は、一滴の雨にも濡れていなかった。
「なんで、雨の中を普通に歩いて来たんですか?」
死者は生者が作り出すものを使うことは出来ない。
よっぽど強い力を持つ魂でないと、触れることすら出来ないのだ。
彼らは生者と同じ感情を持ち、そして生者と同じような生活を送ろうとする。
だから生前の記憶を持つ死者は、悪天候の日には外に出たがらない。
傘を持てないことを、本能が知っているからだ。
「傘、さしてませんよね?」
「はい」と倉敷さんは即答した。
「雨の日に傘をさすのは常識って、知らないんですか?」
確認するように聞く。
冷えたはずの頭がこんからがるのを、必死で堪える。
「常識なんて、場所や時代で変わりますよ?」
「いや、そういう哲学的な問題じゃなくて――」
傾げた倉敷さんの細く白い首が、僕の機先を制する。
「場所や時代で変わるような流転的なものが、死後の世界で変わらない、なんて保証はあるんですか?」
真っ直ぐな目が、僕を見つめていた。
恐ろしいほどに真っ直ぐで、淀みのない目。
僕はその目が怖くて、咄嗟に「知りませんよ。僕、死んだことないですから」と目を逸らした。
「ただ、死んでみるのもありかな、と思っただけです」
そのとき、僕の耳に掛かる髪が、ふっと甘い風に浚われた。
「――私みたいに、ですか?」
その声は、いつもより近くで聞こえたような気がした。
いつもよりはっきりと、けれど、囁くように。
答に窮する。
一瞬息が詰まったような、喉に支える感覚。
遅れてやってくる、鳩尾を圧迫されたような閉塞感。
「え、倉敷さん? それ、死んでるって……」
分かりきったこと。
何とかして、分かってもらおうとしていたこと。
全部を確かめるように、僕は倉敷さんに問い掛ける。
目線はもう、倉敷さんから離れなくなっていた。
「何言ってるんですか?」と倉敷さんは首を傾げる。
「私のこと「もう死んでる」って言い続けたの、ユメヒトさんじゃないですか」
それはそうだろう、と思った。
だって倉敷さんは、今まで一度でも自分の死について触れるような言葉を口にしなかったじゃないか。
「私は今まで、自分が死んでない、なんて言ったつもりはありませんよ」
「…………」
「私はもう、死んでいます」
僕がどれだけ、倉敷さんの死に気を揉んだことか。
倉敷さんの曇天に似つかわしくない晴れ晴れとした供述は、僕の今までを全て打ち壊していった。
「ハハ、ハハハハ……!」
たがが外れるかと思った。でも、外れなかった。
すんでの所で留まった訳でもなければ、自らを律する自制心が働いたわけでもない。
お得意の現実逃避でも、なかった。
「何やってんだろ、僕は……」
「ユメヒトさん?」
警戒心を露にした倉敷さんの目が僕を覗き込む。
倉敷さんの顔と、降ってくる雨の一粒一粒が見える曇天の空。
それを僕は、狂ったように笑いながら、眺めていた。
「……いやー、ハハ、大丈夫ですよ」
一頻り笑った所で、僕はずるすると腰を滑らせた。
雨が染み込んだ木製のベンチは、僕を拒むように固い。
後頭部を落とすように背もたれに預けると、一瞬だけ視界がグニャリと歪んだ。
「この上なく、僕は大丈夫ですよ」
空を見上げたまま、声を発する。
掠れもせず、震えもせず。僕の発した声は、しっかりと雨音の中を進んだ。
肺一杯に雨の匂いを溜め込んで、吐き出す。
無意識に出たそれは、僕の心からの嘆息だった。
「ああ、よかった……」
今まで張り詰めていたいた糸が、プツリと切れたような気がした。
けれど僕は、嬉しかった。「よかった」と、心から喜べた。
「よかった? 私が死んでて、ですか?」
「最低ですね」と倉敷さんは言う。
相も変わらず、突拍子もないことを真顔で言う人だ。
僕は顔を起こして、倉敷さんに視線をやった。
「違いますよ。ただ、倉敷さんがちゃんと自分が死んでるってわかっててくれて、嬉いんです」
それはつまり、倉敷さんが生に縛られた地縛霊ではなかったと言うことだったのだから。
彼女は、自分の意思でこの世に留まっているのだから。
ならば、倉敷さんを天に送ることが出来るのは、僕が見せる《夢》だけと言うことなのだから。
「変わった喜び方をする人ですね」
そう言って、倉敷さんは控えめに笑った。
普段の鉄面皮からは想像できないほど、倉敷さんの表情筋は豊かだった。
「きっと生前、彼女はよく笑う人だったんだろう」と思って、直後その考えを抹消した。
だって倉敷さん、筆談ノート使わないと人と喋れなかったんだから。
「でも、ユメヒトさん」
「なんですか?」
「私には、放っておけば首を吊りそうに見えますよ、今のユメヒトさん」
どうやら、僕の惨めな自己嫌悪からは自殺志願者の陰鬱さが滲んでいたらしい。
「それは……、悩みごとがあったからです」
僕が姉さんに抱いてしまった感情は、悩み事と言うのもおこがましいものだ。
勝手な自己嫌悪と、適当な自己憐憫に浸る。
要するに僕は、誰かに慰めてもらいたかっただけ。
少しでも明るい気分になりたかっただけなのだろう。
「でも、もう大丈夫です」
「本当ですか?」
胡散臭そうに顔をしかめる倉敷さんに、僕は苦笑を返す。「本当ですよ」と。
そんな僕を見て倉敷さんは、「コホン」と小さく咳払いをする。
「じゃあ、これは私の独り言です」
「え?」と呆ける僕を置いて、倉敷さんはまた一つ「コホン」と愛らしく咳払う。
「確かに、今回のお義姉さんの行動はユメヒトさんの気持ちを考えていなかったものだと思います」
僕の頭に、幾つもの疑問符が浮かんだ。
なんで倉敷さんが、僕と姉さんの間にあった出来事を知っているのだろうか?
「ですが、それはあなたが今までお姉さんの気持ちから目を逸らしていたからです。
謂わば、「意趣返し」と言うやつです。ただ、本当に悪意があった訳ではないでしょう。
お姉さんは、ちゃんとユメヒトさんを想っていて、だからこそ一線を越えることを恐れた」
何故倉敷さんがこんなに詳しいのかは分からないけれど、全く倉敷さんの言う通りだった。
これは、互いに互いの気持ちから目を逸らした結果の出来事だったのだ。
ちゃんと話し合ってさえいれば、こんなことにはならなかっただろう。
「やっぱり姉さんの行動は、全部意味があったってことなんですかね?」
僕が呟くように言うと、倉敷さんは「人の行動に全部意味があると思ったら大間違いですよ」と言った。
拍子抜けである。と同時に、倉敷さんがそう言う人だったことを思い出す。
「ただお姉さんは、今の関係を良くないものだと思っているかもしれません。
血の繋がりからも目を逸らし、一つ屋根の下で暮らす『法定血族』と言う関係を。
だからこそお姉さんは、行動を起こしたのかもしれません」
「今後の関係を、考えるために」と、倉敷さんは言った。
一方の僕は、飛び出しそうな程の焦燥感に駆られていた。
体が震えるのは、きっと寒さのせいではないだろう。
「ユメヒトさん、よーく考えてみてください。
あなたが今後、血の繋がらないお姉さんと、どんな関係になりたくないのか。
あなたは今、何をしたいのかを」
お姉さん、出て行っちゃうかも知れませんよ?
その囁くような言葉を、耳許ではっきりと聞いたとき。
僕はもう、公園の出口に差し掛かっていた。
「すみません、やるべきことが出来たので、今日はこれで失礼します」
「そうですか。じゃあ私も、もう帰ります。体はないですけど、雨に濡れる感覚は覚えてますし」
早口に言う。形振りなんて構っていられなかった。
ただ一つ、疑問に思ったことを聞いておく。
「なんで、僕ん家の事情を知ってたんですか?」
控えめに振り替えって聞くと、倉敷さんはやっぱり曇天に似つかわしくない透き通った声で
「だって私、幽霊ですから」
と笑った。
その笑顔は、遠くて見えないはずだった。
けれど、はっきりと。耳許で聞こえる死者の声のように、はっきりと。
確かに僕の目に、倉敷さんの控え目な笑顔が浮かんだ。
その笑顔を大事にしまい込んで、僕は公園から走り去った。
途中で派出所に帰る山戸さんと遭遇した。
「僕、姉さんに話してきます」と言うと、彼は嬉しそうにバシバシと僕の背を叩いた。
「頑張りぃや」
『いってらっしゃい』
山戸さんの関西弁と、倉敷さんの澄んだ声が重なったような気がする。
不思議に響く二人の声に押され、僕は走った。
雨はもう、上がろうとしていた。
本作品は法定血族の在り方について論ずるものでなければ、批判するものでもありません。
テキトーにゆるゆるとご覧ください_(:3」∠)_




