第十六夜 冷たい鼓動
その日は珍しく、ユメヒトもバイトも無かった。
つまり僕は、久々に休日を謳歌できる訳だ。
死者との対話は、ひどく体力を消耗する。
ユメヒトの依頼がない日も倉敷さんと話し続けた僕には、少なくない疲労が溜まっているのだ。
この休日は、さしずめ僕へのご褒美。
「存分に楽しもう」と特に興奮した訳でもなく、いつも通りの冷めた声で呟く。
一瞬の静寂。
貴重な余暇の幕開けはしかし、バンと開け放たれた扉によって幕を下ろした。
「あねちゃんも混ぜろー!」
「あーあ、ご褒美終わった」
我が家の魔王、姉さんだ。
僕に「辛かったら仕事を止めていい」と言う割りに、僕の休日を必ず邪魔してくる。
「今から二度寝だよ」
「あねちゃんも混ぜろー!」
「ヤダ」
面倒臭いと言う感情を全面に押し出して、僕は姉さんに背を向けた。
壁際に設置されたベッドは、寝返りを打てば視界を白い壁が埋め尽くす。
所々シミが目立つ壁は、いかにもボロアパートと言う風情を漂わせている。
「それで、何の用?」
後ろにまだ姉さんがいるのは、息遣いと気配で分かった。
普段なら何かしら行動で示す姉さんだが、今日ばかりは何もしてこない。
僕は内心で浮かべた疑問を、振り返らずに姉さんに投げ掛けた。
「うん? ああ、いやー、ハハハ……」
僕は姉さんの声を聞いて、僕は振り向きたくなる衝動と格闘する羽目になった。
汚れた壁しか見えないが、はっきりわかる。
姉さんが苦笑している。
最近になって真面目な話をする機会が増えたが、それでも姉さんの苦笑なんて、僕は聞いたことがなかった。
「なに? 姉さんがそんな声出すなんて初めてだけど」
「そりゃあ、あねちゃんも人の子さー! 弱ったりもするさ?」
姉さんが人の子らしくしてる所なんて、風呂場以外じゃ知らない。
「で、苦笑の理由は? お皿でも割った?」
「子供じゃないよっ!」
「子供じゃん」
少なくとも、言動は子供にしか聞こえない。
子供に支えてもらってる僕も、子供と言えば子供だけど。
「違うんだよっ! お皿はもう昨日割ったんだ!」
「割ってるじゃん」
「あっ」
どうやら隠すつもりだったらしい姉さんは、自分で自供って自分で頭をコツンと叩いた。
ウチの姉さんは、コメディアン顔負けである。
「むしろお皿の方が本題じゃなかろうか」と言う疑問を飲み込んで、僕は嘆息した。
「まあ、皿はいいよ。また買えばいいし」
「それで、何の用なのさ?」と振り向いた先で、姉さんは何とも形容し難い顔で突っ立っていた。
「う、うん、その……ね?」
もじもじと体を蠢かす姉さんの目は潤み、あどけなさが残る面持ちは心持ち上気している。
その顔に覚えた違和感が「化粧」だと悟った時、僕は困惑した。
姉さんが化粧をするなんて珍しい。
元々顔立ちは綺麗な方だから、姉さんは普段化粧をしない。
弄りすぎて眉がなくなる事もなく、いつも自然体。
そんな姉さんの化粧は、僕の胸を僅かにざわめかせた。
「どっか出掛けんの?」
「そっ、そうそう!」
「そっか、晩御飯どうする? 今日の当番僕だけど」
「へ? ああ、いらないよ?」
何故か姉さんが、当たり前のように首を傾げる。
「ん? ああ、そう……」
何が当たり前なのかは分からないけれど、一先ず一食分の食費が浮いたことは感謝するべきだろう。
自分一人で食べるのに、わざわざご飯を用意するのは面倒だ。
一食ぐらい抜いても、死にはしない。
「じゃあ日付変わる前には戻ってきてね」
「え?」
「うん?」
何故だろうか、さっきから全く話が噛み合わない。
いや、噛み合ってはいるのだろうけれど、どこかで認識に齟齬がある。
僕は確認するように、姉さんの顔を見つめた。
「誰と行くの? 職場の人?」
「え? 弟クンと、だけど……?」
どうやら、初めから僕を誘うつもりだったらしい。
ようやく合点がいった。
言葉を重ねる度に返ってくる疑問符も、どこか噛み合わない会話も。
どれもこれも、僕を外出に誘うためのものだったらしい。
「なんでまた僕と……」
正直、「面倒くさい」と思った。
僕も姉さんも日々多忙だ。
数少ない休みを手に入れたのなら、わざわざ外出して疲労を蓄積させる必要もないだろう。
「彼氏とかいないの?」
「いないよ?」
「好きな人は?」
「……いるよ」
「いるのかよ」と言う言葉をグッと飲み込んだ。
姉さんも年頃の女性だ。色恋沙汰の一つや二つはするだろう。
「そっか」とだけ言って、僕は姉さんから視線を逸らした。
目を向けた先では、僕と姉さんのツーショット写真が誇りを被っている。
その中で姉さんは、いじらしい笑みを浮かべて、隣に立つ僕に抱き付いていた。
姉さんが想い人への想いを叶えたら、抱き付くのは僕ではないのだろう。
それは恋人となった男女には極当たり前のことだ。
分かってはいるのだが、自分の姉の恋愛を知るとは思わなかった僕は、予想外に衝撃を受けた。
「ちなみに、どんな人なの?」
毒を食らわば皿まで、と言う言葉がある。
姉さんの恋愛事情が「毒」だとすれば、姉さんの想い人の特徴は「皿」だ。
「変な男だったら承知しないぞ」と言う気概を込めて、僕は姉さんを見詰める。
「それは、その~、だねぇ……」
歯切れ悪くもじもじと手を擦り合わせる姉さんを、僕は見詰める。
しおらしく、年頃らしい仕草の姉さんも、なかなか見物だと思った。
同時に、少しだけ「かわいい」とも思って、僕は心の中で「ガッデム」と呟いた。
「言っとくけど、半端な男だったら承知しないよ?」
内心の気狂いを掻き消すように、僕は姉さんに念を押す。姉さんを幸せにするのは、本来親の務めだろう。
だが母さんは死に、親父は出ていった。
姉さんを幸せにする両親は、もういない。
「姉さんが幸せになるまで、僕は姉さんの保護者みたいなもんだからね」
「あねちゃんが子供なのかい!?」
「皿割る人はね」
母さんはともかく、親父が出ていったのは、殴った僕のせいだ。
少なからず僕を痛め付ける罪悪感を打ち消すには、姉さんを幸せにする他にはない。
「それで、どんな人なの?」
「んーとね~? 身長はそんなに高くなくて、ちょっと言葉使いが年相応じゃないかな~」
言いながら、姉さんの目がチラチラと僕を捉える。
まるで「どうだお前には敵うまい」と言われているようで、僕は少し気分が悪くなった。
「そ、わかった」
素っ気なくのろけ話に終止符を打つ。
元からその想い人さんと張り合うつもりはない。
だって僕達は、ただの姉弟なのだから。
「でも、そんなに好きな人がいるなら、その人と行って来ればいいじゃん」
「おバカだね~、弟クンは」
やれやれ、と姉さんが頭を振ると、肩口に掛かる長髪が柔らかに揺れた。
「どういう意味?」
「あねちゃんは、弟クンを、愛してるッ!」
「あ、うん、僕も愛してるよ。いいよね、家族愛」
一言一言確かめるように句切る姉さんに、僕も頷く。
「愛してる」と言う言葉は浮わついて恥ずかしいけど、間違いはない。
ただし、家族として、だ。
「も、もう一回言ってくれるかな。お姉さん、ちょ~っと聞こえなかった……かな?」
「え、だから、『愛してるよ』って」
「あ、アリガト、ゴザマス……」
突然外国人のように片言になった姉さんから視線を外す。
足元に配された大きな窓からは鈍い空が覗き、今にも泣き出しそうな空の嗚咽が、風となって窓を叩く。
一雨来そうな、陰鬱な空模様だった。
「どっちみち、こんな日に外に出たくないよ。雨降りそうだし」
「うぇ~、行こーじぇ~」
遂に姉さんが、僕のベッドへよじ登ってきた。
スキンシップが激しい姉さんだが、意外にもベッドへの侵入は初めてだ。
僕が起きてる間に限ればの話だが。
「行きたいっつー癖に、なんで布団に入ってこようとするのさ」
「あねちゃんも混ぜろぉー」
「だから、二度寝だってば」
勝手に毛布を捲られる。
暖まっていた布団の中の空気が、冷えた室内に吸い込まれ、代わりに新たな冷気が攻め行ってくる。
「うぅっは……」
冬場とは言え、電気代的に暖房を節約する僕の部屋は、常に極寒だ。
開け放たれた布団に入ってくる冷気は、さながらアメリカ大陸の原住民虐殺のように、凄まじい早さで布団の中の暖気を駆逐していった。
「寒い、早く、閉めて」
あまりの寒さに言語を司るウェルニッケ野を蝕まれた僕は、原人のような片言で布団を被せることを指図する。
その際、姉さんに憎悪を込めた目を送ることは忘れない。決して。
「んもー、しょーがないな~」
ニヤニヤといやらしい笑みを浮かべた姉さんが、僕と同じ布団に入ってくる。
冬眠中の熊よろしく動けない僕は、姉さんと僕を包み込もうと迫ってくる毛布を呆然と見詰めていた。
気付いた時、僕は正面から抱き着かれていた。
首だけは自由に巡る。
けれど左腕は姉さんの体に敷かれ、右腕は姉さんが回す左腕に軽く締め付けられている。
いつも通り、いつも以上に。
姉さんの少し荒い吐息、早い鼓動、肌の温もり、脳を焼く甘い香りが、僕を包み込む。
正面を向いた相貌に填まる両眼は潤み、頬は熱に浮かされたように朱を挿している。
蠱惑的な双丘が、触れそうな距離にある。時々、触れる。
――何がしたいんだよ
非難の声を浴びせようとして、口を動かしたのに、声は出なかった。
学生時代のマラソン大会の後のように、喉が掠れて声が出ない。
「……ね、もう一回、言ってよ」
起き抜けのように鼻にかかる、少しハスキーな声。耳にそよぐ、吐息。
姉さんの声をどこか冷静に「色っぽい」と思える僕がいて、それでもどこか一方では、慌てふためく僕もいる。
今日の姉さんは、おかしい。
おかしいのが姉さんのデフォルメだとしても、今日の姉さんは飛び抜けて変だ。
いきなり「外出しよう」と具体的な目的も告げずに僕を誘うし、ベッドに入ってきて僕を抱いたりする。
会話の節々に岩礁として点在していた違和感は、姉さんの大胆な行動に全て繋がっていたらしかった。
「っ……」
堪えきれなくなって、姉さんから視線を逸らした。
壁、天井、窓、外。どれも、何も、全く頭に入ってこない。
鼓動は収まりがつかない程早く高鳴って、頭はどんどん白くなっていった。
この鼓動は、姉さんにも聞こえているのだろう。
姉さんの鼓動が僕に聞こえるのと同じように、僕の鼓動も姉さんに聞こえて。
やがて並べた二つのメトロノームのようにシンクロして、響き合う。
心は焦っているのに、シンクロした鼓動は、不思議と落ち着いていた。
「私の好きな人、知りたい?」
ほんの一時落ち着いた鼓動が、また跳ね上がった。
「聞きたくない」と僕の心臓は警鐘を打ち鳴らす。
その警鐘の正体は、たぶん「恐れ」と言う奴なのだろう。臆病な僕にぴったりの言葉だ。
だが臆病なりに、使命感はある。
僕は姉さんを力一杯押し退けて起き上がり、ベッドを降りた。
「……どこ行くの?」
嗜めるようで、どこか寂しげな声が、僕の鼓膜を震わせた。
「聞くべきではない」と叫ぶ理性に、枯れた僕の喉は震える。
「よ、用事だよ」
やっと絞り出た言葉は、上擦って不格好。
加えてその言葉は、最低の誤魔化し文句だった。
「……」
姉さんからは沈黙が帰ってきた。
体を啄む冬の寒さも、胃の腑を圧す沈黙も。
全てが僕を責めるように感じて、僕は部屋を飛び出した。
安物のコートだけを掴み、財布すら持たず玄関を目指す。
「……ごめんね」
去り際を幻聴のように歪めて飾った姉さんの声は、思いがけず初々しかった。




