第十五夜 桜の微笑(後編)
若松さんは、夢の中に現れなかった。
辛うじてリンクした感情も、痛みが支配するばかり。
「会いたい」気持ちは痛いほどあって、それでも何も出来なかった自分に、会う資格なんて無い。
若松さんは、多分そう思っている。
『だから翔は、私のお葬式にも来なかったんじゃないかな』
と河岸さんは悲しく笑った。
医師の家系にあって、自分では何も出来なかった。
学生の身分では、凡そ当たり前のこと。
それでも若松さんは、無力な自分がどうしても許せないらしい。
(けど、けど……)
生者の都合なんて、どうでもいいじゃないか。
生きてる限り、「次」は有り続ける。
生きてさえいれば、何度だってやり直せるんだ。
けれど、一度死んでしまった河岸さんは、もう二度とやり直すことも出来ないんだ。
去り際、河岸さんはまだ笑っていた。
どこまでも強い女性だ。難病を最期まで戦い抜いただけのことはある。
だが、それだけ強い彼女が泣き叫んでいたのも、また事実。
僕が言うのも何だが、男として女の人を泣かせるのは無しだろう。
「姉さん、ちょっと出掛けてくる」
「ホイホーイ。晩飯までには帰ってくるんだよ~。今晩はあねちゃんが作るからね~」
「また僕に走馬灯見せる気……?」
姉さんの作る料理は、劇薬と大差ない。
今度アレと同じものを混ぜたら、ビッグバンが起こるだろう。
アレのお陰で死線をさ迷ったことは、未だ記憶に新しい。
「いってきます」と「晩飯は僕がやるから」だけ言い残して、僕は家を出た。
外は牡丹の雪がチラついていて、時折頬を撫でる風は肌を切り裂くほど冷たい。
昨晩、河岸さんが消える直前のこと。
僕は河岸さんから若松さんの電話番号を聞き、「明日も来てください。絶対、若松さんと会わせます」と誓った。
河岸さんは何か言いたげな顔を形容したが、やがて困ったような笑みを浮かべて頷いた。
その若松さんと、今日面会する。
夢の中じゃない。現実で、だ。
「やると決めたら即日実行」がユメヒトを続けられるコツだ。
昼食のタイミングを伺い、電話を繋げたのが今日の昼時。
『河岸桜の従兄弟ですが、本日お話を伺えませんでしょうか?』
電話越しにそう言うと、若松さんから『わかりました』と返ってくる。
そこから巻きで時間と場所を決め、家を飛び出して今に至る。
面会の場所は、勿論あの垂れ桜の下だ。
「そんなに上手く行きますかね」
先に着いて若松さんを待つ僕の耳に、聞き慣れた声が飛び込んでくる。
感情が欠けたように抑揚が無く、けれど透き通ったような綺麗な声。
「……着いて来なくてもよかったんですよ、倉敷さん」
倉敷千草。一ヶ月近く前、ユメヒトを訪れた死者だ。
自分の死に気付いているのか、はたまた気付いていないのか。今一つ曖昧な女の人だ。
「ひどい言いようですね、せっかく来てあげたのに」
わずかに頬を膨らませつつ、倉敷さんは僕の横に腰を下ろした。
枯草色に染まった草木は、彼女が触れても音を立てない。
地べたの草までもが、倉敷さんの死を静かに語っていた。
「あれ、僕そんなこと言いましたっけ」
「だってユメヒトさん、昨日は何も出来てなかったじゃないですか」
鋭い指摘。「ぐっ」と詰まった言葉は、後に繋がる言葉を完全に逸している。
確かに僕は、何も出来なかった。
無力だ、と実感した。
「い、いや、だからこそですよ」
「だからこそ、なんですか?」
倉敷さんは基本、無感情。
感情の籠らない言葉を重ねられると、自然と尋問口調に聞こえるから不思議だ。
「だからこそ、その……今日で何とかするんですよ」
「そうですか」
それ以上、倉敷さんが何かを言うことはなかった。
ただ僕の隣に腰掛けたまま、そっと目を閉じる。
枯野を撫でる風。木枯らしと戯れる、倉敷さんの黒髪。
風を楽しむように、心持ち空を向く横顔。
放って置けば、今にでも散ってしまいそうな程脆く、儚げな横顔。
その横顔に、どうしようもなく目を奪われてしまう。
どうしようもなく、胸を締め付けられてしまう。
死んでいて欲しくない、と思った。
こんなにも綺麗な人が、なんで死んでしまったのだろう。
なんで、誰も助けはしなかったのだろう。
少なくとも、もう少し――
「もう少し、違う出会いだったらな……」
一際強い木枯らしが、僕の声を浚っていく。
そうして僕は、ようやく気付いた。
(ああ、やっぱり僕は、倉敷さんの事が――)
鈍い色の空に、透明な鼻唄が昇っていく。
年を明けた空は、ゆっくりと春の匂いを滲ませつつあった。
◇◆◇
若松さんは、予定時間ぴったりに現れた。
なるほど確かに、几帳面な拘りを持つタイプだ。
イヤホンのかけ方がどうのと言う話は、あながち嘘でもないらしい。
「初めまして。えっと、桜の従兄弟の……」
「はい、四条実栗です。初めまして、若松さん」
偽名を名乗って立ち上がり、礼を一つ。倉敷さんも僕に習う。
だが、やっぱり若松さんに倉敷さんが見えている様子はない。
「……お話はよく聞いてました。さくねぇが自慢げに教えてくれてましたよ」
勿論、僕は河岸さんの従兄弟ではない。
「さくねぇ」と言うあだ名は、話に現実味を持たせるためだ。
何故かは分からないが、背中から冷たい空気が漂ってくる。
「そう、ですか。でも僕は、そんな大層なもんじゃないっすよ……」
僕の隣に腰を下ろしながら、若松さんは暗い笑みを投げ掛ける。
目が笑っていない。
やっぱり若松さんは、まだ自分が許せないらしい。
恋人を救えなかった無力さが。のうのうと生きている、無力な自分が。
「桜が苦しんでるのに、僕は何も出来ませんでした。それどころか、葬式にも出ませんでした。
揃いで買った白いイヤホンも、今はどこにあるのか……」
だから葬式には出なかった、と言う訳か。
確かに、自分を憎むには十分な理由だ。
しかし、それで恋人の葬式に出ないと言うことは、また違うことだろう。
(理屈じゃないのは分かる。けど――)
僕の中には、若松さんに同情する気持ちがあって。
けれど彼に対するもどかしい気持ちも、確かにあった。
「夢……」
「え?」と若松さんは首を傾げる。
その仕草はどことなく河岸さんと似ていて、僕はふと以前読んだ記事を思い出した。
――男は皆「元カノの成分」で出来ている
そう言われれば、若松さんは確かに「河岸さんの成分」で出来ているのだろう。
若松さんは、未だに河岸さんの面影を追い続けている。
それこそ、仕草まで無意識に似せてしまうほどに。
(だからこそ、もう、終わらせないと)
これから言うことは、嘘に塗れた法螺だ。
けれど、それでこの二人を救えるなら、何だっていい。
そう思い、僕は口を開いた。
「……夢を、見たんですよ。さくねぇが、ここの垂れ桜の下で座っている夢を。
何してんのって聞いたら、さくねぇ悲しそうに「翔を待ってるの」って。白いイヤホン、クルクル弄って」
若松さんは押し黙る。
「白いイヤホン」と言う単語に、ピクリと動いた目尻を、必死に抑えて。
まるでそれが、最適解であると言うかのように。或いは、何かから逃げるかのように。
「ずっと、「会いたいな~」って言ってましたよ。でも時々「翔は会いたがってないのかな」って、悲しそうに笑ってました」
「それは、夢の中の話でしょ……」
苦しげに、瞠目して溢す若松さん。
だが僕の「嘘」は、その程度じゃ終わらない。
誰にも後悔して欲しくないから。
後悔しないのが、夢枕だと信じたいから。
だから僕は、どんな手だって使うんだ。
「ええ、夢の話ですよ。ですが、そんな夢が何日も続けば、何かに縋りたくもなります」
「だから、僕に話を聞こうと思ったんですか?」
「はい」と僕は頷いた。
「若松さんも、この河川敷の夢を見たんじゃないですか?」
「……見ましたよ。ですが、桜は僕に振り向いてくれませんでした。
多分、葬式にも出なかった僕となんて、会いたくないんでしょう」
さっきから、若松さんはずっと目を閉じている。
しかしその目や口許は確かに拍動していて、口から生まれてくる言葉は、悲痛に震えていた。
きっと、今にも零れてきそうな涙を、必死に堪えているんだと思う。
「違いますよ」
僕がそっと言葉を掛けると、若松さんは「違いませんよ」と悲痛な声を漏らした。
そっと手を置いた肩は震えていて、けれど暖かい。
若松さんが泣いているのは、決して自分の為なんかじゃないのだろう。
若松さんは、確かに河岸さんの為に泣いている。
そんな、暖かい肩をしていた。
「怖いんですよ」
「……え?」
「さくねぇも、怖いんです。若松さんにさくねぇの顔が見えないのと同じで、さくねぇにも若松さんの顔は見えない。
だから、若松さんが「会いたい」と思っているのかも分からなくて、怖いんです」
拙い言葉を紡ぐ中で、僕は河岸さんの独白を思い出していた。
『怖いよ……』
あの時、河岸さんは確かにそう言った。
直接聞こえた訳じゃないのに、あの日あの時の言葉は、確かに僕の頭に響いていて。
今もこうして、僕の胸を締め付ける。
「だから、言って上げてください。一言だけでいい、「会いたい」って」
「……っ」
若松さんの手が、縋るように右ポケットを探る。
僅かに袖口から覗く、白いイヤホン。
やっぱり、若松さんは隠してたんだ。
「無くして、なかったんですね」
「当たり前じゃないですか」と若松さんは絞り出す。
握りしめたイヤホンを、若松さんは拝むように額に押し当てた。
「これが、この揃いの白いイヤホンだけが、まだ桜と繋がってる気がするんです……っ」
鼻を啜り、若松さんは白いイヤホンを見詰める。
堪えた涙が、また若松さんの眼を覆う。
「恋人なのに、僕、あんまり桜を笑わせられなかった……ッ」
潤んだ瞳が涙に揺れる度、若松さんは何度も眼を閉じる。
そうして涙を堪えて、言葉に溜め込んだ感情を乗せて吐き出す。
その言葉はどこまでも悲痛で、鈍く重い空に響き渡った。
「僕は、僕は恋人失格です……ッ! 桜を、幸せに出来なかったッ!」
道行く人は我関せずと通り過ぎ、冷たい川の流れは、責めるように激しくせせらぎを奏でる。
「そんなことありませんよ。若松さんは、最期まで恋人に寄り添ったじゃないですか」
僕は若松さんの正面に回り込んだ。
肩に両手を置き、そっと語りかける。
河岸さんは、多分こう言うだろうから。
「そして今も、こうして想っているじゃないですか。
こうして――まだ、好きでいるじゃないですか」
若松さんの眉間が、深い深いシワを刻んだ。
深く悲痛なそのシワは、きっと河岸さんへの想いの印。
こんなにも想い合う恋人たちを、僕は素直に羨ましいと思った。
「……好き、なんですよね?」
問い掛ける。若松さんは涙の代わりに嗚咽を漏らして、言った。
「好きだよ……」
「河岸さんのこと、まだ好きなんですよね?」
「好きだ! どうしようもなく好きだよ!」
「会いたいですか?」と僕は訊ねる。
「会いたいさ! 桜に……桜に会いたいさっ!!」
胸を抉るような慟哭を、風の音が優しく包み込んだ。
その風に、春咲きの桜が薫る。
桜が薫るにはまだ早い。
反射的に振り返った先では、倉敷さんが驚いたように口許を覆っていた。
「倉敷さん? どう――」
「どうしました?」と聞き掛けた矢先、風が僕らを取り巻いた。
『まったく、ホントに君は泣き虫なんだから……』
鼻にかかったような、少し甘いな声。
その声は、誰よりも若松さんが笑わせたい人。
その声は、誰よりも恋人に会いたいと願った人――
『お待たせ、泣き虫クン』
河岸桜さんが、そこにいた。
「河岸さん、なんで……!?」
『そりゃあ、「お別れ」を言いに来たんですよ。泣き虫な、でも私の一番大事な、恋人に』
半透明の河岸さんが、僕にニッコリと笑いかける。
その姿は向こう側の景色を透かし、薄く霞めて見せる。
ただでさえ死者は、生者には見えない。
僕でさえ半透明にしか見えないのなら、余計若松さんには見えないだろう。
『いいんだよ。これ以上泣かれても、遺して逝けないしね~』
僕の落胆を見透かしたように、河岸さんは淑やかに笑う。
河岸さんは、成仏を決めたらしい。
「桜……? 桜、そこにいるのか?」
若松さんが、慌てて辺りを見回す。
その様子を若松さんの背後で見て、河岸さんは悪戯っぽく笑った。
『今さら姿は見せないよ。これ以上泣かれたら、また「生きたい」って思っちゃうからね』
「そんな……」と若松さんは瞳を潤ませる。
だが直後、ゆっくりと頭を振り、固い笑顔を作った。
「……そっか、ごめんな、泣き虫で」
『今に始まった事じゃないんだし、別にいいんだよー』
河岸さんが子供をあやすような声で、若松さんを後ろから優しく抱き締める。
『私の為に泣いてくれて、ありがとう。
忘れないでいてくれて、ありがとう。
好きのままでいてくれて、ありがとう。
私も、ずっと、大好きだよ……』
今までの感謝を、伝えられなかった言葉を、河岸さんは囁く。
若松さんも「僕もだよ」と笑った。
「僕と出会ってくれて、ありがとう。
精一杯生きてくれて、ありがとう。
会いに来てくれて、ありがとう。
ずっと、大好きだよ……」
姿はなくて、体は触れ合えなくて。
それでも言葉は繋がって、歔欷を含んだ笑い声は響き合う。
しめやかな、だけどどこか晴れやかに。恋人達は啜り泣き、笑う。
「恋人って、良いですね」
いつの間にか僕の隣に並んだ倉敷さんが、そっと囁く。
その声は、心なしか鼻声だ。
「……そうですね」
僕は、笑って答えた。
河岸さん達と同じように、声は少し鼻にかかったけど。僕は確かに、笑うことが出来た。
「……ねえ、桜」
不意に、若松さんの声が転がった。
『んー?』と返す河岸さんの声は、少し落ち着いている。
「もう、大丈夫だよ」
河岸さんは、静かに笑って囁いた。
涙混じりの声は、まだ途切れ途切れだけど、その言葉は強かな力を持っていた。
『……そっか』
少し悲しげに、けれど笑って、河岸さんも頷く。
河岸さんの姿が、徐々に消えていく。
『じゃあ、もういくね』
「うん。――サヨナラは言わないよ」
『そうだね。――君と、また会う日まで』
二人は息を揃えて、見詰め合う。
姿は見えていないはずなのに、言葉が二人を惹き合わせる。
「『またね』」
去り際。若松さんの右頬に、河岸さんの唇がチョンと触れた。
それは、触れるか触れないかの、小さなキス。
小さくて、でも暖かくて、少し切ない、別れのキス。
「……また、ね」
河岸さんが天へ返った後。
遺された若松さんの右頬を、一条の涙が伝った。
ゆっくりと、ゆっくりと。
これからも続いていく人生を、ゆっくり歩いていくように。
『お盆になったら、また会えるよ――』
見上げた冬の鈍空から、そんな声が聞こえたような気がした。




