第十一夜 どうか覚えていて(中編)
岡崎さんの想い人は、羽島和樹さん。同じ学校に通う、十七才の青年。
幼馴染みとして、十七年間を共に過ごした仲と記録されている。
付き合っていた訳ではないようだから、岡崎さんの死に直接関係してはいないのかもしれない。
と言うことは、岡崎さんの未練は伝えられなかった「想い」なのだろうか。
想い。
誰にでもある、ありふれた、けれど死んでも折れない、大切なもの。
岡崎さんの想いは、何なのだろうか?
(いや、よそう)
頭を振る。
何も分かっていない状況での邪推は、余計な先入観を持ってしまう可能性がある。
身がもたない。
「お人好しですね」
倉敷さんの声が、不意に僕の鼓膜を打ち鳴らした。
マンションを下って合流し、初めて交わす会話がこれかと思うと、少し悲しい。
「お人好し、ですか」
倉敷さんの意図することが解せず、僕はおうむ返しに言葉を投げる。
「はい」と頷いた倉敷さんは、僕の手から手帳を取り上げた。
「お人好しです」
ペラペラと、ページを捲る音が響く。
抑揚のない倉敷さんの吐息と共鳴するそれは、冬の白い空に閉じ込められ、いつまでも僕の鼓膜を揺らし続ける。
時おり漏れる静かな吐息と項を捲る音は、何故だか図書館を思い出させた。
「こうして今までのユメヒトさんの仕事ぶりを拝見していると、よくわかります」
素人目に見ても、殆どが厄介事だって判りますから。
「なにより」と置いて、倉敷さんは僕に手帳をそっと握らせる。
「貴方はこんな私を、見捨てず側に置いてくれます」
氷のように冷たい訳でも、太陽のように暖かい訳でもない掌。
体はないはずなのに姿は確かにそこにあって、触れ合う白磁の手は、確かに柔らかい。
僕は病気なのかもしれない。
倉敷さんと触れる度、体の奥が疼くような熱を伝えてくる。頬は多分、紅い。
「……一度受けた依頼は、断れないだけですよ」
「そう言う契約でもあるんですか?」
「別に、そんな訳じゃないですよ」
「やっぱり、お人好しです」と倉敷さんは微笑んだ。
その小さな、花のような笑顔に、また僕の胸は「病気」になる。
初めて倉敷さんが笑った日から、彼女は度々微笑を見せてくれるようになった。
それが何となく嬉しくて、でもしてやられた感は否めなくて。やっぱり僕は顔をしかめた。
「……行きますよ」
「誤魔化しましたね?」と言いながら着いてくる倉敷さんは、早くも淡白な面持ちへと戻っていた。
表情筋の筋持久力に乏しいらしい。真顔で指摘されると、少し傷付く僕がいる。
「今回は、生きてる人と直接接触するんですか?」
「はい。手帳で住所も知れたので、そのつもりです」
「生きてる人への接触って、許されるのですか?」
倉敷さんの言葉で、言い忘れていた「掟」を思い出す。
破ることの許されない、ユメヒトの掟だ。
「最近はルールを破りそうな人がいないから、忘れてました。が、倉敷さんには先に「ルール」を教えておきましょう」
決して、倉敷さんがルールを破りそうだからとか、そう言う意味じゃない。
正式な依頼がまだとは言え、倉敷さんは《ユメヒト》を訪れたお客様。
そのお客様が不明な点を見つけたと言うのなら、勤め人の僕としては、答える他あるまい。
「ユメヒトに授けられた掟は、三つあります」
【一、制限時間は二時間~二時間半】
これは、人間が見る夢の時間を七時間とした場合だ。
現実での時間が三時間経てば、夢の中では一時間進む。
そのため、大抵の人は二時間。ただし、例外あり。
【二、生者への不干渉】
生者の人生を直接変えてしまうような『行動』は禁じられている。
この世界に留まる死者は、あくまで「生」から外れた存在。
この世から解離した存在は、この世の住民に干渉すべきではないと言う掟だ。
【三、人を恨まず、世を恨まず、生を恨むこと勿れ】
成り行きで生を謳歌する生者も恨まず、この世の一切を恨まず。
ましてや、自らの人生を恨まないこと。
例え道半ばで死んでしまったとして、未練があったとして。
その人生は、決して辛いことばかりではなかったはずだから。
どんなに小さくても、心の底から喜べた瞬間が、必ずあったはずだから。
人を、世を、人生を。憎まず、必ず成仏すること。
「――以上が、ユメヒトに課せられた掟です。依頼人の方々に守っていただくと言うよりは、僕が『守らせる』という形になります」
この掟を破ると、罰せられるのは僕になる。
具体的なアウトラインは知らないし、どんな罰を与えられるかも不明だ。
「そうですか」
自分から聞いてきたにも関わらず、倉敷さんの反応はしょっぱい。
その手の性的嗜好がある人なら、心臓を射抜かれていてもおかしくはない。
問題は、僕にマゾの気が一切ないと言うことだ。
「ええ、まあ……。えと、質問とかあります?」
無論傷は付く。だが、仕事中に傷付いてはいられない。
ここ数年で培った愛想笑いで、僕は心の痛みにそっと蓋をした。
「はい」
と、倉敷さんの細い腕が萎れた冬空に伸びた。
その白百合のような白い腕に、一瞬、見惚れる。
他の全て。視界に映るはずの町並みさえ、僕の視界には弾かれて映らない。
「ユメヒトさん?」
「んあっ? はい?」
弾かれたように顔を上げる。あんまりにも急だったから、僕の首は疼痛に犯されるようになった。
この煩わしい疼痛は、仕事中に色ボケた僕への戒めだと思っておくことにした。
「今聞いた通りだと、これからユメヒトさんがしようとしていることは「掟破り」と言うことになりませんか?」
小学生のように手を挙げたまま訊ねる倉敷さんは、歩きながら僕の顔を覗き込む。
僕がこれからすることが「掟破り」に該当するかもしれないって事は、他ならぬ僕が一番よく分かっている。
生者への接触は、その後の生者の人生を狂わせるかもしれないのだ。
「確かに、掟破りかもしれないです。掟には、「誰が」接触禁止であるかは書いていませんから」
僕が《ユメヒト》になった日。授けられた懐中時計と、一冊の手帳。
その手帳に記された「掟」には、誰が生者に接触してはいけないとの明記はなかった。
それに、とも思う。
「ルール守って誰も救われないんじゃ、意味ないじゃないですか」
ルールは破るためにある、だなんて反抗期みたいなことは言わない。
やっぱり守るものだと思うし、今までだってそうやって守ってきた。
だけど、やっぱり、破るべきルールも、時としては必要なのだと思う。
ひよっこの僕に世間がどうのと言う資格はないけれど、世の中言われたことばかりを守ることだけが大切なんじゃない、と思う。
彼の文豪、夏目漱石曰く――古き道徳を破壊するは、新しき道徳を建立する時にのみ許されるものなり。
フランス革命然り、明治維新然り。
何処かで古い殻を破るべき時は来るのだ、と。そう思う。
「やっぱり、青臭いお子ちゃまですね」
倉敷さんは笑う。
その氷みたいな表情を、ほんの少しだけ緩めて、野に咲く小さな花のように、小さく。
横顔で笑う倉敷さんは、触れれば溶けてしまいそうな気がした。
◇◆◇
「それで、記者の方が僕に何のようでしょうか?」
羽島和樹さんは、記者を騙る僕を睨め付けた。
会話も開始一分で騙りが見抜かれたとは思えないから、元来から目付きの鋭い人なのだろう。
銀縁眼鏡の優等生面は岡崎さんと似ても似つかないけど、この針山のように鋭い性格は、似ている物があるのかもしれない。
「ええ、少し岡崎志穂さんの事でお伺いしたい事がありまして」
数度の逡巡を経て、僕の肩書きは記者になった。
《ユメヒト》の仕事で、生者と接することが無かった訳ではないけど、やっぱり嘘を吐くのは慣れない。
「生憎ですが、アイツとは子供の時から近所付き合いがあったってだけです。
詳細を知りたいのなら、もっと他に当たる奴らがいるでしょう」
羽島と刻まれた表札を掲げた門柱に寄りかかり、羽島さんは一息に吐き捨てる。
勉強中だったのか、神経質に銀縁眼鏡を持ち上げた右手は、一部が鉛の黒で薄く染まっていた。
「なるほど、確かにそうですね」
「もういいですよね。じゃあ、僕は受験勉強があるので」
「いえ、まだです」
言い終わるよりも早く、踵を返した羽島さんを呼び止める。
記者になるつもりなんて更々無いが、今だけは成りきってやろうと思う自分がいた。
「聞こえませんでした? 受験勉強があるんですけど。聞くならもっと程の低い奴らにとも、言ったはずです」
記者であれ何であれ、人は執拗にすがられると苛立つ。
羽島さんの反応も、テンプレートな苛つきを滲ませていた。
「確かに最近では、羽島さんより親しい人がいたでしょう」
羽島さんの住所を手帳が教えてくれた時、一緒になって知ってしまった「記録」がある。
それは、羽島さんが吐き続けた、たった一つの嘘。
「本当は、貴方も何だかんだで近くにいたんですよね?」
「……なんのことだよ」
閉ざされた門扉を背に、羽島さんは俯く。
ちらりと見えた表情には、何処か幼さが浮かんでいた。
「喧嘩ばっかりしてたってことですよ。不良少女の岡崎さんと、優等生の貴方は」
羽島さんは、自身を岡崎さんから遠ざけた位地に置いていた。
それこそが、彼の嘘だった。
「羽島和樹さんは――」
鞣し皮装丁の手帳を取り出して、名前を呼ぶ。
僕は生きている人間を助けるつもりはない。
《ユメヒト》は、基本的には死者のために在るものだ。
僕は追い討ちを掛けるため、手帳を捲る。
「羽島和樹さんは、幼馴染みである岡崎志穂さんとその仲間を疎ましく思っていた」
半分を過ぎたところで止まった貢に浮かんだ文字を、読み上げる。
手にして一年が経った手帳は、過去の仕事のデータが残っているのに、何故か仕事中はいつも同じページが開く。
そこには、二人の男女の情報が記されていた。
「小学校の頃から良く喧嘩をする仲だったお二人は、中学二年の頃を境に擦れ違いが頻発し、いつしか公然と「死ね」と罵り合う仲になった」
手帳に人格はないだろうから、嘘は記載されない。
と言うことは、これが二人の真実だ。
だが字面を追っても、声に出しても音読しても、結果は同じ。『より仲良くなっている』としか思えなかった。
「……記者は、そんな事まで調べるのか?」
羽島さんから返ってきた言葉には、以外にも敵愾心の類は含まれていなかった。
代わりに声は、少し震えていた。
僕は答えない。
「高校に入学しても、真面目なあなたと不真面目な岡崎さんは、顔を会わせば喧嘩ばかり。
けれど彼女の周りにいる友人や、恋人は変わっても、あなただけは常に彼女といがみ合っていた」
それだけ、気付けばいつも近くにいた。
「警察、呼ぶぞ……」
声の震えは、さっきにも増して激しくなっていた。
声帯が痙攣しているかのような声は、一聞して虚勢だとわかる。
「いいんですか?」
仕事を見学させて頂いてる身ですから、と口を閉ざしてきた倉敷さんが、ようやく口を開いた。
「何がです?」
「警察です。呼ばれると不味いんじゃ……」
倉敷さんの心配はもっともだった。
ここで警察を呼ばれれば、生きている僕は法に裁かれる。
あっという間に前科付き。社会的な信用も失う。
だが、しかし。
「大丈夫ですよ。今こうして倉敷さんと話している間は、僕は《ユメヒト》です。生者からは見えません」
倉敷さんと生者を対照的に並べたのは、「倉敷さんが死者である」と言うことを確認するためだ。
彼女がそれを曖昧に切り捨てようと、僕は彼女が死者であると再認識できる。
そうでもしないと、僕は要らない感情まで抱くかもしれなかったから。
「疎ましいのに、気付けば近くにいた。僕に他人様の気持ちは分かりませんが、それはきっと「恋心」と酷く似ていた」
あなたが疎ましく思っていたのは、岡崎さんじゃない。何も出来ない、自分自身です。
普段は使わない口調や語気が、すらすらと口を突いて出てくる。
ちらと盗み見た隣では、倉敷さんが涼しげな顔でこちらを見ていた。
倉敷さんの口調が、少し伝染ったのかもしれない。
僕はバレないように口許を弛めて、もう一度、羽島さんに目を向ける。
今度は、《ユメヒト》として。
「人間、言葉にして初めて自覚できる気持ちもあれば、理解したが故に目を背けたくなる気持ちだってあります」
でもね、と置いて、僕は語り続ける。
羽島さんが年下だからとか、少しイラついたからだとかは関係なく、ただの忠告として語る。
僕は死者の立場に立つことが多い《ユメヒト》だが、それ以前に一人の生者だ。
出来ることならば、誰も僕のようにはなってほしくなかった。
僕のように、母さんの死を「形だけ」で捉える現実逃避は、後々自分を酷く痛め付ける。
「でも、誰かが死ぬことだって同じなんです。
誰か大切な人が死んだ時、見栄を張って感情に蓋をするよりは、『辛い、悲しい、淋しい、痛い』って気持ちと向き合った方がいいんです」
僕には、それが出来なかった。
行き場のない怒りを、父親にぶつけて、現実の痛みや寂寥から逃げた。
だから僕の心は、いつも冷たく煮え繰り返っている。
母さんがいないと言うことを、忘れようとしている。
忘れることが、一番悲しくて、切ない。
「蓋をした感情は、悲しみばかりが大きくなっていきます。
でも決して爆発は出来ず、出来るのは現実逃避だけ。忘れようとするんです」
羽島さんは、蒼い顔で俯いている。
倉敷さんは、何かを考えるように目を細めている。
僕は、煮え繰り返るような腸に、どんな冬の寒さよりも冷たい風を感じている。
「忘れられないさ」
「え?」
「忘れられない。アイツの事は、絶対に」
羽島さんがようやく発した、その小さな一言に、僕は耳を傾ける。
「保育園の時から、ずっと近くで見てきた。忘れられるわけ、ないだろ……」
呟くような声だった。
まるで、自分の中で湧いた感情を確かめるように。まるで、試験前に英単語を音読するように。
「迷ってますか?」
「……何を」
「あなたが今こうして揺れているのは、何か想うところがあるからでしょう」
「僕が、迷ってる……」
そうでなければ、いきなり現れた初対面の男の言葉に耳なんて貸さないだろう。
それどころか、早々に警察を呼んでいたはずだ。
「そう、かもしれない」
確信があった。
僕に愛だ恋だのの経験はないけれど、ずっと目を逸らして来たけれど、今の羽島さんは、きっと素直になれる。
理屈じゃない。好き嫌いは抜きで、今こうして揺れている羽島さんは、必死に自分と向き合おうとしている。
だから僕は、一人の生者として、羽島さんに語り掛けた。
「逢いたい、ですか?」




