第九夜 僕の形をした彼
白く冷たい月光を振り下ろす、朧な月の夜。
バイトからの帰り路。僕は家へ帰らず、少し道を外れた公園に来ていた。
「おや? 今日も来たんですね、ユメヒトさん」
門柱を過ぎた僕に、冬の空気のように澄んだ声が掛けられる。
「随分ひどい言いようですね、倉敷さん」
自然と口角が上がる。多分僕は、苦く笑っているのだろう。
「すみません、私はこう言う性格なんです」
倉敷さんは表情一つ変えない。謝っているのか、馬鹿にしているのか、よくわからない人だ。
「それで、今日も仕事なんですか?」
「はい、依頼です」と倉敷さんに頷きつつ、左半分が空けられたベンチに座る。
懐から取り出した皮装丁の手帳を捲れば、半分を少し過ぎたページに文字が浮かび上がる。
《岡崎志穂、十七歳。四人家族の末っ子。都内の公立高校在籍》
一ヶ月前にマンションの九階から転落死したらしい少女に、僕は眉間を潜める。
「自殺、ですかね」
「ぽいですね」
僕の手元をじっと見つめていた倉敷さんが、首を傾げる。
倉敷さんは、縊首死体として発見された自殺者だ。
今回の依頼とは何か相通ずるものがあるのかと思ったが、そうでもないらしい。
淡麗な様子の倉敷さんに、感傷に浸る気配はなかった。
「受けないんですか? この依頼」
「え?」と頓狂な声が漏れる。
「いえ、珍しくユメヒトさんが怒ってるな……と」
問いつつ、自分の頬に触れる。
疲労で痩けた頬が、ゴツコツとした感触を返してきた。
怒ってはいない、と思う。
「怒ってませんよ」
「眉間に皺寄ってますが?」
言われて初めて、僕は眉間に指を這わせる。
確かに、皺が寄っていた。
「あ、ほんとだ」
倉敷さんを見ると、相変わらずの無表情が心なしか「ほら見ろ」と言っているように見えた。
少し癪だったけど、女性に手を上げる訳にもいかない。
と言うか、霊体の倉敷さんに物理的な嫌がらせは無意味だ。
僕は溜め息一つ、ペンを握る。
「怒ってませんし、受けますよ」
「そうですか」と倉敷さんは無表情に頷いた。
なんだろうか、この蛇のようににじり寄ってくる苛立ちは。歯痒さは。
「その手帳、何でも出来るんですか?」
「そんな訳なかろうが」と思いつつも、自分が死者と対話出来る事を思い出す。
死者と対話が出来る位なら、持っている道具が万能であると思われても仕方ない。
都市伝説の存在とは、そんなものだ。
「そう便利ではないですよ」
手帳にペンを滑らせながら、倉敷さんに説明する。
「まずユメヒト以外で使うと字が書けませんし、ユメヒトの仕事で使っても三つしか使い道はありません」
一つ目は、ユメヒトを求める死者の情報の読み取り。
二つ目は、死者との対話。
最後の三つ目は、生者の夢への接続だ。
「結構色んな事が出来るんですね」
「オフの日に使えない手帳なんて、ただのオブジェですよ」
「あ、でもペンは百均ですね」
「それは触れないでください」
ふふっ、と倉敷さんが笑ったような気がした。
それを確かめる間もなく、僕は手帳に浮かび上がった字面に目線を落とす。
「さっき書いてたのは、依頼人との会話でしたか」
「はい」
頷いたはいいものの、僕は顔が上げられなくなった。
倉敷さんが笑った、と言う気恥ずかしさもある。なぜか倉敷さんを直視で出来ない、と言うのもある。
だが今回ばかりは、そう甘酸っぱくもなかった。
「どうしたんですか?」
「ああ、いえ」
手帳を覗き込む倉敷さんの長髪が、微かに頬を撫でる。
くすぐったいような気持ちも、何故か香るほのかな石鹸の匂いも。どれも視界の端で、揺れ動くだけ。
僕の意識は、完全に手帳に支配されていた。
《この度はユメヒトをご利用いただき、誠に有難う御座います。水先案内人の三条千秋と申します。
本日の面会場所、時間などにご希望は御座いますか?》
死者との対話の、導入部分。テンプレートで固められたメッセージ。
本来なら、その下に死者からの言葉は返ってくる。
だが、今回だけは違った。
《 》
なにも、返ってこなかった。
厳密に言えば、死者の意思は返ってきた。だが、それは言葉ではない。
「空白、ですか」
僕は返すべき言葉を見失っていた。
今まで一度でもこんなことはなかった。
砥の粉色で染まった文面が、その一部分だけ元の白さを取り戻すなんて。
まるで死者からの言葉を拒絶するような現象に、僕は面食らった。
「すみません、今回の依頼、ちょっと厳しいかもしれません」
「やっぱり受けないんですか?」
「受けますよ。一応は接触しましたし、ここで退いたらこの時間が無駄になりますからね」
でも、どうするんです?
倉敷さんの長い髪が、傾げた首の傾斜に合わせてふわりと揺れた。
一瞬見惚れ、僕は瞬きを早める。もう一度、目を開ける。見える景色は、変わらなかった。
「家はそう遠くないようなので、少し会いに行って見ようと思います」
「歩き、で?」
「歩き、で。2kmくらい」
「うへえ」と倉敷さんの顔が歪んだ気がしたが、気にしないでおく。
僕はと言えば、過去にバスケをしていたことや、頻繁に姉さんの散歩に付き合わされることもあり、徒歩移動には慣れている。
疲れることに、変わりはないけれど。
「何分ぐらいかかりますか?」
「さあ。僕の足だと、大体25分くらいですかね」
「うへえ」
今度は口に出して不満を垂れる倉敷さんに「行きますよ」と声を掛けて立ち上がった。
薄暗く鬱屈とした公園を出ても、身を刺すような寒さが和らぐことはなかった。
太陽ばかりが薄雲を透かして降り注ぐ。見上げる空は、冬の寒さとはアンバランスに眩しい。
少しでも体を暖めようと、僕は足の回転を早めた。
僕の隣を、倉敷さんは音もなく着いてくる。
少しだけ、体力の概念を超越した霊体が羨ましいと思った。
「ユメヒトさん」
ふと、倉敷さんが僕を呼ぶ。
依頼やら死者との対話やらで僕の名前を知る機会があったはずだが、彼女が僕の名前を呼ぶことはない。
脈なしとはっきりわかる反応をされるほど、案外傷ついたりする。
「はい、なんでしょう?」
内心の落胆はおくびにも出さない。
「今回の依頼は例外ですが、まともに対話してくれる依頼人なら、別に直接会って話さなくてもいいんじゃないですか?」
「ああ、まあ、確かに」
頷きはしたものの、僕が現地に足を運ぶ理由はちゃんとある。
死者に夢を見せることだけがユメヒトの仕事と思われがちだが、実際にはカウンセリング紛いのこともする。
直接言葉を交わし、死者が抱えた未練を抉り出す。
そのためには、文面のやり取りではなく、直接会って話さなければならない。
死んではいても、自分の未練を誤魔化そうとする癖は生前と変わらないのだ。
そんな感じのことを説明すると、倉敷さんは「なるほど」とこっくり頷いた。
相変わらずの無表情だけれど、納得してもらえたのなら何よりだ。
「じゃあ、初対面の時の私はどうでした?」
「どう、とは?」
素直に倉敷さんの質問が飲み込めず、僕は聞き返す。
「自分を誤魔化すような癖、ありましたか?」
聞かれて僕は、初めて会った日の事を思い出す。
子供達が元気に遊び回る、昼間の公園。
白のダッフルコートとベージュのスキニーに身を包んだ、儚げな女性。
《ユメヒト》の広告を見たと言う彼女は、二日前に自殺した死者。
けれど彼女は自分の死に気付かない地縛霊で、正直、話は通じなかった。
だが、自分を誤魔化している様子はなかった、と思う。
「そうですね……。話が支離滅裂と言う訳でもないし、目の焦点がズレてる訳でもなかった。
かと言って、嘘や妄言を吐く時特有の目の動きもない。
よっぽどの演技派でもなければ、あの時の倉敷さんが自分を誤魔化している要素はなかったです」
知りうる限りの心理学知識を引きずり出して答える。
大学に学んだ訳でもなければ、特別な学科を設置している高校でもなかったから、知識は全て独学だ。
「そうですか」
もはやテンプレートと化した倉敷さんの返事に落胆しつつ、ようやく目的地まで半分に差し掛かるかの道程を歩いていく。
やや間を開けて、倉敷さんが思い出したように口を開いた。
「私、演技派かもしれませんねー」
限りなく棒に近いセリフの音読。
はっきりと冗談とわかっていても、普段と違う倉敷さんのテンションに僕は面食らう。
ひっそりと「演技派な訳ないじゃん」と思ったのは、決して悟られてはならないことだ。
「どうしたんです? 普段とテンションが違う気がしますが」
「こうでもしなきゃ、リラックス出来ないと思いまして。今回の依頼は、難しいようですし……」
なるほど、と僕は内心で頷いた。
どうやら僕は、倉敷さんに気を遣われてしまったらしい。
「それはそれは、お気遣いいただき有難う御座います」
「う、うるさいです……」
僕がおどけると、倉敷さんは金魚の一種のように頬を膨らませた。
ふと、満たされているような感覚に陥っている自分に気付く。
こうして彼女を近くに感じるのも、一度や二度の事ではないような気がする。
しかし、と僕は頭を振る。
彼女は、もう死んでいる。どれだけ近くに感じようと、どれだけ親しくなろうと、いずれはあの世へと帰っていく魂。
あまり肩入れしない方が、傷は少なくて済む。
(あれ……?)
思考を反芻して、違和感を抱く。
いつから僕は、倉敷さんとの別れを「傷付くほど辛いもの」にしていたのだろうか?
別れて傷付く程、倉敷さんを大事だと思っていたのだろうか?
考えれば考えるほど頭は混乱して、歩調は乱れる。
ふとした拍子に転がる沈黙までもが苦痛に思えるほど、動揺している自分を見詰める。
僕の形をした彼は、滑稽なほどに目を回していた。
倉敷さんは、それきり口を開かない。
僕の形をした彼は、口を開けない。
町行く人々の認識から阻害された僕らは、降り積もる沈黙に肩を濡らし歩く。
目的のマンション。岡崎志穂さんが死亡したマンションには、恐ろしいほど早く着いた。




