2-2
カルとリナは月明かりをたよりに馬を進め、夜半を過ぎてようやくビンガム地方のグリーンホールにたどり着いた。
グリーンホールは、切り立つ峡谷の底を家屋や畑がちまちまと埋めている町だった。ナタリア姫の母方であるバローズ家が地主としてこのささやかな土地をしきっている。
まわりを山に囲まれているためか、ガイヴァントの被害は受けていないようだった。同時に、地形が要害になっているということが気のゆるみをまねいているようでもあった。バローズ家の石塀も大小の石があらくつまれただけで、防御壁としての機能は低い。屋敷の正門だけはやぐらが盛り上がっているが、そこだけ取ってつけたようなちぐはぐさがある。
取り次ぎを待つ間、カルはリナの注意をやぐらに向けさせた。
「火縄の匂いがしてるな」
「そうね」
リナも気づいていたようだ。
「意外と物々しいんだな」
「子爵の夜襲を警戒しているんでしょうね」
「それにしても火縄か……」
学園都市の学園衛兵団では、小銃といえば火打ち石式が主流である。火縄式でも時代遅れというほどでもないが、組織的な戦闘とは無縁の土地柄であるということはそこからもうかがいしれる。
ほどなく、家令と称す初老の男性があらわれ、ていねいな物腰で二人を門の中へとむかえ入れる。
カルは広々とした敷地内をぶしつけに見回した。いったん正門をくぐってしまうと、もはや母屋までさえぎるものはない。戦闘を意識してつくられた構造ではなく、単なる地主の屋敷である。子爵からの圧力をうけている中で、こういう場所に寄って立つということ自体が戦い慣れしていないことをあらわしていた。
他にも気になることがあった。正門をくぐった時よりも、中に入ってからの方が一段と緊張が増したのだ。
カルたちが警戒されているというわけでもなさそうだ。むしろ二人とは無関係に、空中で敵意がとびかって火花を散らしているような気配である。
カルはリナの注意を引いて耳打ちした。
「ここの連中、妙じゃないか?」
「妙って?」
「まるで二派に分かれていがみ合っているみたいだ」
「そう? 腕章でもつけてたかしら」
それだと非常にわかりやすいが、そんなことをしていたら来客があるたびに理由を訊かれるだろう。しまいには家令も自分から先に説明するようになるかもしれない。
『当家では赤組と白組に分かれておりまして、より多くの玉を網に入れた方が……』
そんな当家は嫌だ。
「視線と表情が、な。警戒の方向もやぐらにいる連中は外にむかっていたが、塀の中だとなぜか内部にむかっている」
「めざといわね」
どうやらリナには先刻承知のことであるようだ。
だったら先に言っとけよ、などと余計なことは言わず、リナの説明を待つ。
「それがここにおける殿下のお立場なのよ。王女といっても歓迎されているわけじゃない、むしろグリーンホールの主であるバローズ老はかかわりを避けようとしている」
「わざわいの種ということか? しかし、孫娘だろ」
「よくも悪くも田舎の大将なのよ。この土地から踏み出していく気概もない。そうなると殿下とその郎党は疫病神みたいなものでしょうね」
このご時世だ、勢力を持たない王女など手元においておくものではない。近隣諸侯にとって「王女の保護」はこの土地に攻め込む絶好の口実になるからだ。かといって、野心ある者に奪われれば王権をかさにどういう無理難題をふっかけられるかわかったものではない。単なる田舎の地主にしてみれば、頭から毛布をかぶって『どこぞなりと遠くに連れて行ってくれ』というのが本音だろう。
主人がそんな具合であれば、気を回した使用人が王女にたいして非常の手段にでるということもありうる。実際、屋敷は険悪な空気につつまれているのだ、すでにそれと近い出来事はあったのかもしれない。リナは言明しなかったが、実家でさえ王女にとって安全な場所とは言えないようだ。
「ただでさえ味方が少ないのに仲間割れか。まあ、どっちにしろ戦力としてはあてにならないだろうがな」
「どっちが?」
「どっちも」
蔵からひっぱり出してきたような火縄銃に、類縁と使用人をかき集めたような素人集団では、地元の水争いならともかく、訓練された子爵の兵に対抗できるものではない。まず一方的な虐殺になる。
士気の差ではない。戦意なら自分の土地を守ろうとする彼らも負けてはいないだろう。純粋に戦闘技術の差なのだ。とっさの時、訓練されていない人間のとる行動というのはパターンがいくつかに限られる。人は自分の身を守ろうとして、決まって同じ行動をとってしまい、やすやすと殺されるのだ。殺すことに熟達した者にとって武装した素人を倒すのは雑草を刈り取るようなものである。やる気だけではくつがえせないものがこの世には確かに存在しているのだ。
カルとリナが案内されたのは別館であったが、母屋よりも立派なつくりだった。どうやら殿下一党のためにわざわざ建てられたものらしい。ただ、事情を知ってしまうと、建物の頑丈さがそのまま隔離という印象につながってしまうのはどうも否めない。
家令が案内してくれたのは別館の厩舎までだった。家令は礼を尽くしつつも逃げるようにしてその場から姿を消し、今度は別館から侍従長なる見た目は大差ない老人がやって来る。二人は顔をあわせる機会を一瞬たりとも持とうとはしなかった。職務分担というにはよそよそしすぎる。
通された先の部屋は、学園でのカルの個室がまるまる十個は入ろうかというほど広々としたものだった。
すぐにお荷物をお持ちいたします、と侍従長が一礼して部屋をはなれる。束の間、カルとリナは部屋に二人きりとなった。
特にそうしている理由もないのだが、ドアのそばで突っ立ったまま、部屋の中をぐるりと見渡す。あらためて眺めてみると、時が経つほどに最初の印象よりもだいぶん見劣りすることに気づかされる。
部屋のつくりや調度品にはまるでうといカルであるが、大貴族の娘たちと親交があるため『本物』を目にする機会にはめぐまれている。今、比較の対象としてカルが頭にえがいているのは学園でのリナの部屋であった。
学園では生徒を身分で区別しないという建前だが、王国でも屈指の大貴族であるダマ大公の孫娘ともなれば、寮の部屋も特別あつらえということになる。もちろん、そのための費用は実家から支払われる。身分では区別しないが、金銭では区別する。
建前には必ず裏の意味があるものだ、抜け道といってもいいだろう。むしろリナなどは自分を武人と規定しているのでこれでも生活は質素な方だ。ティアやマルチナは学園の敷地内に立派な邸宅をかまえている。もちろん、自分一人のためではなく、同族の生徒たちやその郎党もそこで生活している。
客室というのは館の主人にとって見栄のはりどころだが、この部屋はいかにも急ごしらえといった感じで調度品なども品がない。それを覆いかくそうとして塗りだけは派手派手しくしているが、それがまた厚化粧のように欠点を強調してしまっている。
急ごしらえといえば、まさしく王女の現在の立場がそうだろう。父王からも世間からも捨てられ、世の中が乱れるとメッキだけほどこされて担ぎ出される。王女個人の境遇などカルとは無縁の話ではあるが、それを思うと何か胸をしめつけられるような気がしてくる。普段、自分がこの十分の一の空間で生活していることは都合よく忘れている。
しかし、気づくべき問題は部屋の装飾などではなく他にあった。
衝立のむこうには天蓋つきの立派なベッドがある。
衝立は二つ。当然、ベッドも二つである。その意味を理解してカルは固まった。
リナはとっくに固まっていた。はっと我に返ると、急に早口でまくしたてる。
「いや、いやいや、違う、これは違う。私たちのことをそんな風に勘違いしたわけじゃない。だって、ほら、あれ、そうあれ、向こうも気をつかってるのよ、ね、きっと。ほら、部屋を別々にしたら襲撃の意図があるんじゃないかって疑われるかもしれないでしょ、だからそれを怖れたのよ。つまり害意がないことを証明するためね」
「なるほど、うまいこと言うな」
「うまいこと言ったわけじゃない! 事実よ、事実。だいたい、そういう関係だと思ってるんだったらひとつのベッドに枕ふたつのはず……」
そこでリナは口を急に閉じた。話がとんでもない方向にずれたのを自分でも気がついたのだろう。普段なら言いたいことを言いきり、墓穴を掘ってカルまでその中にひきずりこむのだが、ここが王女の居館であることをかろうじて忘れていなかったらしい。
リナは高ぶっていた感情をどうにかしずめる。
「……別に、大声で言うことじゃないわよね」
「そうだな」
「よそのうちだし。夜中でもあるし」
「ああ」
リナは唇をゆがめた。理由は、先ほどからやけに短いカルの合いの手にあった。
「なんだか、さっきからあっさりしてる」
この状況を過剰に喜ばれても困るが、素っ気なくされてもそれはそれでリナには不満であるらしい。自分の女の部分がないがしろにされているようにも思えて、なんだかしゃくにさわるのだろう。いつもであれば自分の女性的な魅力などリナ本人が一番どうでもいい扱いをしているわけだが、状況次第ではそれをひっぱりだしてくることもあるらしい。
カルはドアの方を指さす。
「とりあえず、もうひと部屋用意してもらうように言ってこようか?」
次の手続きとしては間違っていないので、リナもうなずくしかない。
が、すぐに呼び止める。
「あ、あのさ……。別に、一緒の部屋がイヤというわけじゃないから」
カルは曖昧にうなずいて部屋を後にする。
閉まるドアの狭間から、まだ何か言いたげなリナの顔が見えていた。
食事も入浴もことわり、部屋に人の出入りがなくなったところでリナはベッドへうつぶせに倒れ込んだ。
旅装をといただけで着替えもしていない。このまま眠りにしずみこんで何もかも忘れたいところだが、先ほどの恥ずかしさがよみがえってきてせっかくの眠気をかき乱してしまう。
カルが思っているほどリナの性格は直線的でもない。大まかにはそうかもしれないが、細かな部分を拡大してみると年頃の娘らしく複雑な模様をえがいているのだ。自分のしでかしたことを思い出しては枕に顔をうずめてじたばたすることだってある。
リナは首だけを動かして床に目を向ける。部屋に届けられた荷物にカルのものはない。すぐ隣にあるベッドは空である。
──まったくみっともない。ベッドがふたつ並んでいたくらいで、なぜあんなにもうろたえてしまったのか。先方が勘違いしたというだけで済む話なのに、それをわざわざ襲撃だの、害意のない証拠だのと、する必要のない説明をしてこれではまるで自分が過剰反応しているみたいじゃないか──。
しかも、最後の言い訳が余計だった。
いくらカルを追い出すみたいで気がとがめたとはいえ、「一緒の部屋がイヤというわけじゃない」なんてもっとましな言い方があるだろ。
あれでは……あれではまるで男を誘っているみたいじゃないか。
「ああ~~~、もぉ!」
リナは枕を抱きしめて膝から下をばたつかせる。
それにしても腹が立つのはカルの態度である。リナが慌てふためいているのはわかっていたくせに、カルはまったく何も感じていないような顔でただ短く「ああ」とか「そうだな」と相づちをうつばかり。そのせいでリナは余計にみじめな思いをさせられたのだ。男なら気の利いたセリフのひとつも口にするか、それが無理でも一緒に慌てるくらいはするべきなのである。自分だけ早々と状況からはなれたところに身を置くなど、うら若き女性にたいしてこれほど失礼な話があるだろうか。
それとも、カルにとって自分は女性としての対象に入っていないのか。
リナは考えるのを中断してベッドから身を起こした。姿見の前に行き、全身を映してみる。S字に身をくねらせ、しななんぞをつくってみる。そのままのポーズで頬をふくらませる。
「ほら見なさい、悪くないじゃないの」
しかし、物事というのは基本的に比較である。
カルの目をとおしてリナを見た場合、比べる対象は世間一般の平均ではなく、ティアやマルチナということになる。
リナは知っている。女の子の体になんか興味ありませんみたいな顔をしているが、マルチナが出てきた時にはたいてい胸を見るのだ。腕に抱きつかれたら満足した猫のように目を細める。
ティアの場合は腰つきにそって視線をかるく上下させる。
世の男たちは、肉づきを好むならマルチナ、すらりとした方がいいならティアに惹かれることだろう。間に挟まれたリナはそれだけでもう不利であった。
「……何をしてるのよ」
姿見の前でポーズをとっている自分が急に馬鹿らしくなってくる。
リナはベッドに腰かけ、肺の底から溜息をしぼりだす。
別に恋じゃない。
カルにたいする感情については、リナの中ではそのような解釈になっている。
これは、そう、執着なのだ。使い慣れた道具はあまり他人には貸したくないものだ。しかも、カルという道具はできがいい。どんな遠くに投げても、必ず敵をしとめて戻ってくる。手放したくないと思うのは当然の感情だろう。
自分がカルの地位向上にこだわるのも、だいたいそんなところだ。道具の使い勝手をよくするために、もっと自分のそばに引き寄せておきたいだけである。
それに、あれだ、何の肩書きもないようでは祖父に会わせることもできない。カルの功績を学園に認めさせ、せめてソリストの称号を……いや、違う。そういうことじゃない。
リナはあおむけになる。口で息をしながら、自分の中に没入していくために目を閉じる。
恋ではない──ないにしろ、どうしてこんなにもあいつのことが気になるのだろう。
確かに、ともに戦った時間は誰よりも長い。だからといって特別な関係というものでもない。せいぜい背中をあずけあう程度のものだ。
肝心な時にはあいつが何とかしてくれる。それは認める。しかし、いつもは文句ばかりでろくに人のいうことを聞きもしない。
功績もどんどん押しつけてくる。それによって学園におけるリナの地位は以前にも増して重くなったが、カルにたいしての負い目はどんどん積み重なっていく。しかし、カル本人はそんなこと気にもとめずに身軽なままふらふらしている。
最近、ひとあたりがきつくなってきただろうかと気にしているのもカルのせいだ。あいつはちょっと強い言葉をたたきつけたくらいでは腹を立てないから、つい言いすぎてしまう。それが他の人にたいしても出ていないか心配になる。
なんだ、あいつのことが気になるというのは、つまるところあいつに不満があるということではないか。
リナはようやく自分が納得できる結論に到った。
それだけそろえば恋人に比肩しうるのではないかという疑問は、リナの中にはまだ生まれていない。
カルはベッドに寝転がって天井を見つめている。
リナとは別に用意してもらった客室だ。さすがに先ほどの部屋よりも格段にせまいが、それでも学園でのカルの部屋にくらべると五つ分くらいはある。
もはやカルの部屋は広さをあらわす最小単位だ。やりきれない気にもなるが、人が住んでいる部屋でもっとせまい場所を思いつかないのだからしかたない。この屋敷のメイドが寝起きする部屋でも1.5単位くらいはありそうだ。
それはまあいい。
カルは天井を凝視している。にらんでいるといってもいい。リナが恥ずかしさのあまりカルに八つ当たりしたのと同じく、カルもまた別の形でリナに腹を立てていた。
リナに他意がないことはカルもわかっている。二人が恋人のように見られた可能性をやっきになって否定したことも、その挙げ句に「一緒の部屋がイヤというわけじゃないから」と誘うようなことを言ったのも、状況に慌てただけで別にカルをもてあそぶという意図はなかったのだろう。
そこはカルも誤解していない。
認識に食い違いがあるとすれば、それはリナの性的な魅力についてであった。
カルはあえて思った。性的と。
女性的とか、女性の美とか、そういうもって回った言い方はこの場合にはふさわしくない。はっきり言えば、男の股間をいきり立たせるという意味である。
自分が男の性欲をかきたててやまない存在なのだという自覚がリナには欠けている。そこがまた彼女の厄介なところなのだ。
周りの男たちに余計な誤解をさせないためにも、リナにはそろそろ女性としての落ちつきを身に着けてもらいたい。もちろん、リナに限っては巷の女性一般のように自分の身を守るためではなく、勘違いしてこんがりと焼かれるあわれな犠牲者をださないためだ。
なぜか忘れられがちなのだが、カルにも性欲はある。男なら誰もがうらやむような女性がいつもすぐそばにいるのだ、何も感じていないはずがない。だからこそ、通された部屋にベッドがふたつあるのを目にして、カルは反射的に心を無にしたのだ。自制心だけではまにあわない、感情を希薄にすることによってカルもようやく平静をたもつことができたのである。
これで結構な努力をしている。なにせ、カルにとってリナはすぐそこにある生身である。遠くから恋い焦がれるだけの男たちと違い、手を伸ばせば簡単にとどいてしまう。そうする誘惑にかられたことは今夜にかぎったことではない。
だが、結局は思いとどまる。今夜も思いとどまった。
『一緒の部屋がイヤというわけじゃないから』
この状況で無防備にもそんなことを口走ったりしたら、突然押し倒されても不思議じゃないんだぞ──と、薄めに薄めた心の片隅で毒づく。
しかし、その一方で妄想もふくらんでしまう。
もしも、本当にそうしたらあいつはどんな顔をするだろうか。
驚きのあまり大きく目を見開いて、それから。
その後は。
もし、一瞬でも時が止まったら。
あいつのことを見下ろしながら、言葉にしてみようか。
俺のすべてを見てみるか。
お前の弱いところを見てしまおうか。
「カル!! 起きてる!?」
「ギャース!?」
妄想の本人がノックもなしに部屋へ入ってきた。カルは素っ裸を見られた乙女みたいに自分で自分を抱きしめる。
「なにその悲鳴」
リナは変なポーズのカルを冷ややかに見つめている。
「いきなりなんだ、ノックくらいしろよ。俺の心臓に見えないダメージを蓄積するつもりか。いつかどこかで完全犯罪か」
「軍務にある時にはノックしなくていいのよ。常識でしょ」
「どこの常識だそれ」
「ダマ家の」
「知るか!」
「そんなことより!!」
カルの叫びはより大きいリナのもので上書きされた。
思わず黙ってしまったところへ、リナがさらにまくしたてる。
「これから殿下に謁を賜るわよ!」
「なぬ、なんでまたこんな夜中に……」
「殿下たってのお望みなんですって。とにかくぼやぼやしている暇はないわ」
「そう言われても俺は何をどうすればいいんだ……?」
夜が明けてからのことだと思って油断していた。カルは謁見についてまだ何も聞かされていない。そもそも自分がその場に出席するのかも知らないのだ。
リナもようやくそのことに気づいたらしく、思案顔になる。
「あー、まずはお風呂かな。汗くさいし、肌も砂ぼこりでざらついてるし」
リナは胸元をつまんでぱたぱたと風を送り込む。カルはベッドに腰かけたまま頸骨の限界まで首を伸ばす。
「とにかくぼやぼやしている暇はないわ!」
「それはもう聞いた」
「ないのよ!」
「そうだな」
リナもよく頭が回っていないらしい。
「とにかく先に風呂! 大急ぎでね! ほら、ぐずぐずしないで!」
カルを追い立てるように手を叩いてから、リナも急ぎ足で部屋を出ていく。
慌てているようでそこはさすがにリナである、指示は明確だった。
リナからの指示に誤解の余地などなかったはずである。だからこの状況は俺の落ち度ではないはずだ。
そんなことを思いながら、カルは湯気のむこうにある白い背中を見つめていた。
リナであった。
浴室は客用であるため広くはない。たちこめた湯気をとおしても肌のなめらかさまで見えてしまう。
あまりのことにカルは立ちすくんでしまった。そのせいで音もなく後退する機会を失った。
人の気配にきづき、白い体がびくりとする。さすがに百戦の勇だけあって不意をつかれても物音ひとつたてない。相手がカルだとわかり、リナはようやく声をうわずらせる。
「きゃ……なになになに??」
「いや、すまん、先に入ってるとは思わなくて……」
カルはすぐさま回れ右をする。リナから言われたことを何度思い返しても『先に風呂へ行け』という解釈にしかならないはずなのだが、こういう場合に男は言い訳をするものではない。
「すまん、すぐに出る」
謝罪をかさねて浴室から出ていこうとするカルの足をその場につなぎとめたのは、意外にもリナの声であった。
「待って」
カルはその場で静止した。声音からして復讐されるわけではなさそうだが、それだけに何をされるかわからない。固唾をのんでしまう。
やがて消え入るような声が聞こえてくる。
「み、見た……?」
何をどこまでとたずね返す愚をカルはおかさなかった。全力で首を左右にふる。こういう場合、実際にどうなのかは問題ではないのである。
どうやら穏便に解放される、と思ってほっとしたのも束の間、リナからの反応もとだえてしまう。待つ身は長い。もしかして、素っ裸で立たされているこれも罰の一環なのだろうかと思い始めた頃、考え込むようなうなり声が聞こえてくる。
「う~ん……」
罰の選択になやんでいるのだろうか。やはり復讐されるのだろうか。
「礼服は一人で着られる?」
「礼服? ああ、そんなものがあるらしいというのは噂に聞いたことはあるな……そもそも礼服ってなんだ、そんなの持ってきてないぞ」
「そういや作法もまだだし……う~……」
聞いちゃいない。
リナのひとりごとから察するに、謁見におけるカルの立場はその他大勢ということでもないようだ。魔法学園の副使ということなら当然ではあるが、カルの実体といえば何の身分もないただの生徒であり、重く扱われることにはどうも違和感をおぼえてしまう。しかし、それも浴室で裸のまま立たされていることにくらべれば大したことではないのかもしれない。
次に聞こえてきたリナの声音はいつもと変わりのないものだった。
「いい? 今、私たちは公務として来ているの。魔法学園の代表なわけ」
「うむ」
「ここでみっともない振る舞いをすればそれは学園の恥になるの」
「それは大変だな」
「何を他人事みたいに言ってるの、私だけじゃなくてあんたもよ」
「そうだった」
何の話だ? という疑問をカルがさしはさむ隙も与えず、リナは続けた。
「殿下に失礼のないよう、一刻も早く仕度をととのえなくちゃいけない。素早く、ちゃっちゃっと、ただし手落ちのないように」
「慌てず急いでということだな」
「だから、男とか女とかはいったん脇に置いておかないといけない」
「うむ……」
「こんな世の中なのよ。みんな大変なの。平和な時と同じ扱いを求めるのはぜいたくというものよ。だいたい、裸なんて別にめずらしくもない。布きれで覆われてるだけで、いつだってそこら中に転がっているような代物なんだから。今さらうろたえることなんてないのよ」
まるで自分自身に言い聞かせているようでもあった。
もしかすると、これはこれで許すための口実をならべているのかもしれない。
そうカルが思ったところで急に話の主旨が逆さまになる。
「でも、女は大切にされないといけない。だって命をつないでいく存在なんだもの。それは人が生きる上でもっとも基本的なことでもあるのよ」
「うむ?」
「それは忘れちゃいけないことなのよ……」
結局、どっちなんだろうか。
カルが相変わらず立ちつくしていると、リナは怒ったように、もしくはそういうふりをして言ってくる。
「何してるの、早くしなさいよ」
どうやらここに存在してよいというお許しが出たらしい。
言い訳は長かったとはいえ、裸を見られる恥ずかしさすら私事と切って捨てるあたりは見上げたものだ。一方、偉くも気高くもないカルの方には私心もふんだんにある。ともすればそれに流されそうな自分を感じながら、とりあえず入口の近くに陣取る。
リナは浴室の一番奥にしゃがんだまま黙っている。むろん、そちらを見てよいわけではない。そこを勘違いすると大変なことになるのだが、このせまい空間にリナの裸体が存在していると思うだけでカルは全身の毛穴で呼吸しそうになる。
何をしに浴室へきたのか忘れるところだった。
カルは石鹸を手にする。石鹸のなんたるかはカルも知っているが、日常においてそれを使用するようになったのは魔法学園に来てからだ。学園においては衛生的な見地からその習慣を生徒に義務づけているのだ。
やけに静かだった。
謁見にむけた作法の講義がはじまるものと思っていたのだが、リナはなおか弱げな沈黙の中にある。しかし、カルの方から声をかけるのもためらわれる。身にまとうものひとつないこの状況では、咳きひとつでも相手を驚かせてしまいそうで気が引けるのだ。
リナから何か言われても反射的にふりかえったりしないよう、気をはっていたせいだろうか。ぬれた石鹸がカルの手から逃げていく。慌てて拾おうとしたのがさらによくなかった。石鹸は余計に床をすべってしまい、こともあろうかリナのいる方向にとんでいってしまう。
リナは気づかなかったようだ。カルが石鹸の隠密性をうらやましく思ったのは一瞬だけのことである、のんきなことを考えていられる状況ではない。だが、実際のところカルに選択肢などなかった。まさか自分で拾いに行くわけにもいかず、かといって石鹸を使わずお湯をかぶるだけではすぐにもリナにばれてしまう。取ってくださいとお願いするしかない。
下心を疑われそうだが、それは覚悟するしかなかった。
「すまん……石鹸がそっちに飛んだ。いや、見たわけじゃないんだけどだいたいそっちに」
息をのむような気配は瞬間だけのことだった。すぐにあからさまな溜息が聞こえてくる。
「また馬鹿なことして」
小細工を疑われることはなかったが、馬鹿な奴だとは思われた。『また』と強調されてしまったあたり、リナの中では元からそういう認識なのかもしれない。
しばらくごそごそと身動きする気配がつづいた。
「ないわよ」
「え、確かにそっちに……いや、見てたわけじゃないんだけどだいたいの感覚で」
カルは疑いをまねかないよう、意図して視線を真正面に固定する。
なおもそこらを探す物音が背後でつづく。しかし、見つからないらしい。リナが気づかなかったことからしても、とんでいったのは本当に違う方向なのかもしれない。
「悪い、もういい。俺の勘違いだ。ちゃんと見てたわけじゃないから。なぜなら俺はずっと前をむいていたから、なぜなら俺は正面だけを見ていて他には目もくれず……」
「私のを使う……?」
え? と思わず聞き返しそうになる。
この展開は予想していなかった。空からケーキだ。試されている可能性も考えず、カルはいそがしくうなずく。それでは伝わらないと気づいて声に出す。
「たすかる」
「そっちにすべらせるから」
輪郭がぼやける視界のぎりぎり端っこを、石鹸が来るであろうあたりの床に向ける。
はたして、来た。
なぜ正確に届いたのかは謎だが、そこには触れないことにする。
手に取る。
なぜか鼻にもっていって香りをかぐ。
馬鹿なことをしている。今からそれどころではない、全身に塗りたくるというのに。
別に、女性が使用したものにことさら執着をもつような性癖はカルにはない。が、何も感じないわけではない。本人公認という公明正大さもあって気兼ねも薄まっている。もちろん、リナはそういう用途で渡したわけではないのだが。
石鹸の表面をなでまわす。わいてきた泡をまず顔に塗る。体が熱くなってくるのは湯気のせいばかりではない。日常、やりなれた動作のはずが、生まれて初めて石鹸にさわった幼児のように手つきがぎくしゃくしてしまう。女性の多い環境で育ったカルではあるが、それでも同年代の異性というのは特別なものであるらしい。そもそもカルの周りにいた女性といえば大人ばかりで、あとは妹のアイリスくらいではあったが。
カルが全身泡まみれになった頃、今までよりも近い背後で水音がした。どうやらリナが湯船に入ったようである。だとしたらこの先はカルのすることもリナの視界におさまっていると考えた方がいい。泡に包まれたまま満悦している姿はリナの目には異様なものとしてうつるだろう。
名残惜しくはあったが、湯をかぶって泡を洗い流す。
そうなると急に手持ちぶさたになる。そもそも、これ以上浴室にとどまっている理由はどこにもない。このままじっとしていたら、その姿は泡まみれでなくともやはり異様だろう。
浴室から出よう。
あきらめて腰をあげかけた時、カルは湯船の中から声をかけられた。
「……何してるのよ」
未練がましく浴室にとどまっていたことを咎められる、ということをカルは反射的に思ったが、事実は違っていた。
「順番に入ってる暇なんてないんだから、早くして」
都合のよすぎる展開にカルは戦慄さえおぼえた。
だが、それに臆面もなくのる。そういう子供っぽい図々しさがカルにはある。おいしそうなものをもらったらとりあえず口の中に入れてみて、相手をよろこばせる。それで痛い目をみることもあるが、総じてみればいい目をみることの方が多い、というのは人生における一面の真実だろう。
なるべくリナの方は見ないようにして、カルは湯船の中に身をしずめた。状況が状況だけに、水位が上がるという当たり前の現象にも気後れを感じてしまう。
浴室と同じく、湯船もそう広いものではない。カルは足を可能なかぎり折りたたみ、リナに空間の余裕をゆずった。
この土地での水の質がそうなのか、湯は肌にからみつくようになめらかだった。不意に、湯をとおしてリナと間接的に肌をあわせているような錯覚にとらわれる。また温度が人肌なものだから余計に気分が高まってしまう。
「こっち見ないでよ」
カルの微妙な首の角度に不安でもおぼえたのか、リナが注文をつけてくる。だが、言葉の字面ほどにはその口調に刺々しさはない。
この状況で今さら見るの見られるのなどと気にするのは正直どうかとは思うのだが、カルはおとなしくうなずいてみせた。若気のいたりは今もむらむらと突き上げてくるのだが、王女の謁見という重大事を前にして寸暇も惜しいというのもまた事実であり、欲望に身をまかせてこれ以上のことに踏みだすのはさすがに自重するべきだろう。
そんな固めたばかりの決意が、押しつけられた尻によってたやすく揺るがされる。
尻と尻である。リナの方はお尻とよぶべきかもしれない。
やわらかい。
カルはなるべく身を縮めていたつもりだったが、湯のぬくもりに緊張がほぐれて知らず知らずに幅をとってしまったのか、それともリナの方が身動きしたのか、ともかく互いの尻が当たっている。
「……カルは迷惑に思ってるかもしれないけど、これはめったにない機会なのよ」
リナは騒ぎ立てるどころか、尻の接触については何も言わなかった。
見るのはだめで尻はいいのか……。
女ばかりの環境で育ったカルにも女のことはいまだによくわからない。
「だから協力しろとは言わないけど、せめて愛想よくして。向こうも学園での足がかりはひとつでも多くほしいはず。カルはこういう派閥めいたことは嫌いなんだろうけど……」
お尻に気をとられていたら、いつの間にやらまじめな話である。カルもこたえないわけにはいかない。
「……まあ、リナの好きにやればいいさ。そういや打ち合わせは? 謁見の作法とか言っていたが」
「私の後ろにいて私のやるようにしていればいいのよ」
「そうなのか」
理屈のあわないことになっているが、カルはあえて指摘はしなかった。
世の中、そういうものである。
浴室を出ると館の気配は一変していた。遠くの廊下で人の行き交う物音がしきりとしている。慌ただしいのはカルたちだけではない、屋敷もいっぺんに目を覚ましたようだ。
夜明けを待たずに謁見とは、ナタリア姫もそれだけ魔法学園による保護をあてにしているということなのだろう。
「正装だか盛装だか礼装なんだろ? 俺は何の準備もしてないんだが」
「心配いらないわ、カルの分も用意してあるから」
手品のようにきらびやかな服が出てくる。数日のことなのになぜこんなにも荷駄が必要なのかと不思議に思っていたが、そのいくつかは衣装袋であり、さらにそのうちのひとつはカルのためのものだったのだ。
「ずいぶんと手回しがいいんだな……」
「ちゃんと考えてあるの。殿下の御前では失礼のないようにね」
はいはいと聞き流していたら裸の背中にぴしゃりと平手打ちをくらった。それからはリナに言われるがままされるがままである。カルはなめらかな光沢のあるシャツに袖を通した。
「やたらとすべすべするなこれ」
「絹だから当たり前でしょ」
「うひゃひゃ、くすぐったい」
「我慢しなさい。ほら、こっち向いて」
だらしなくゆるめていた襟元のボタンを一番上までとめられてしまう。
「首の周りがうっとうしいんだが」
「少しの間だけよ」
リナに襟を正される。やけに念入りだ。またくしゃくしゃにゆるめたら、今度はボタンどころか首まで絞められかねない。
「はい、出来上がり。鳥も羽根次第というところね」
「ぴったりだ」
「サイズくらいわかるわよ、いつも一緒に戦ってるんだから」
「そんなものか」
かく言うカルも、リナの体つきを克明に思い起こすことができた。
なるほど、確かにそうだ。
それはついさっき一緒に風呂に入ったせいかもしれない。
社交辞令を分厚く装備したところで、カルとリナは控えの間──という名の単なる小部屋に通された。田舎町で王宮の格式を保つのもひと苦労といったところか。
そこでしばらく待たされる。
特使といっても二人の身分は本質的には学生なので、正装も軽い。しかし、王女ともなればそうはいかないのだろう。もしくは待たせる時間というのも権威づけになっているのか。
カルは何の気なしにリナの姿を視界におさめていて、怪訝そうな顔をされる。
「なに……?」
「お揃いだな、と思って」
リナの頬にほんのりと朱色が差す。
「なに当たり前のこと言ってるのよ……」
ののしっているようで、言葉に勢いがない。
「はは、なにか照れるな。よそ行きの格好だと」
リナは顔をそむけたまま「そうね」とだけつぶやいた。
何となく時間をもてあましていたところへ、ドアがノックされる。入ってきたのは落ちついた物腰のメイドだった。ただ、他のメイドとは服装が違っている。
カルたちよりもいくらか年上のようだ。見た目で勝手に判断するとすればの話だが。
彼女から二人に向けられた笑みには、儀礼的なものを越えてより親しみがこめられていた。
「ご機嫌はいかがですか?」
「うむ、苦しゅうない」
鷹揚にこたえたカルの脇腹にリナの拳がめり込む。
「夜分に押しかけたにもかかわらず手厚いもてなし、痛み入ります。その上、このように殿下へのお目通りが叶うなど恐悦の到りです」
リナとメイドは視線を交わし、微笑みあう。まるで噴きだすのをこらえるみたいに。そこには気安さの成分がちりばめられていた。どうやら二人はこれが初対面ではなさそうだ。
カルはていねいな言葉づかいをやめることにした。最初から使っていたかは微妙だが。
「このメイドさん、知り合い?」
「失礼なこと言わないの、メイドじゃなくて殿下の侍女殿よ」
その二つがどう違うのか、市井で芋をころがすように育ったカルには見当もつかない。
「どうぞお構いなさらず。ナイトウォーダー様ですね、わたくしはクロエ・ハリスと申します。どうぞお見知りおきを」
愛嬌よりも知性の勝ったまなざしがカルに向けられている。
微笑みも見つめるのもやけに長い。
観察されているような気がしてきた頃、クロエはリナに視線を戻した。
「このお方が、お噂の?」
その途端、リナがあわあわと踊りだす。
「ちょ、ちょっと、あれはあの場だけの……もお、冗談がお上手なんだから、うふふふ」
全然ごまかせていない。
「噂って、俺のいないところで何を話してるんだよ」
「噂? 何の話?」
「うふふのふ」
わざとらしい笑い方をカルが真似すると、リナはあっさりと負けを認めた。
「ああ、もお! 別に変なことは言ってないから!」
「だから何を」
「隠すようなことは言ってない」
「答えになってないぞ」
「女の他愛ないおしゃべりですわ。そんなもので殿方のお耳を汚すなんてとても」
敗色濃厚なリナに、クロエが助け船を出す。
うまいこと言いおる……。
カルもこれ以上の追求はひかえるしかない。
「そうそう、他愛ないおしゃべり」
リナは後からのっかったくせに得意そうな顔をしている。
「他のことでしたら何でもお尋ねください」
何でも答えるとは言っていないあたり、そつがないというか、何というか。
さすがは王女の側近といったところか。侍女だったか。
しかし、訊くだけなら損はないだろう。出発当日にほぼ情報なしで引っぱり出されたせいで、カルにとって知らないことだらけなのだから。
「それじゃ、まぁ、お言葉に甘えて。子爵の最近の動きとかは?」
「ちょっとカル、こんな時に!」
顔もわからない相手と戦うのはカルにとってもやりづらい。せめて敵の性根くらいは知っておきたい。
礼儀を知らない戦闘バカ呼ばわりを始めたリナのことを、クロエが抑える。前者はともかく、後者についてはカルも反論したいところだったが、それもクロエの介入でついでに封じられてしまう。
「やる気を出していただけるのは、こちらとしてもありがたいことですから」
そう前置きをして、クロエはカルの方に向きなおった。
ごくさりげなく、表情から笑みが消えている。
「つい先日のことです。子爵様からは殿下を妻に迎えたいとの申し出がありました」
あまりにも予想外の返答に、カルとリナは思わず顔を見合わせた。
「つ、妻??」
リナはそう言ったきり絶句している。カルも出てくる言葉がない。
「こちらも迂闊でした。あちらの態度が最初から王家を意に介さないものでしたので、まさかこのようなことを言いだすとは思いもしませんでした」
「急に態度を変えてきたあたり、すでにこちらの動きを知られている可能性もあるな」
こういう絡め手まで使ってくるとはなるほどやり手だ。侮っていると痛い目を見るかもしれない。
「それで、返事の方は?」
またそういうことを……と冷たい視線がリナから突き刺さってくるが、リナも興味はあるらしく今回は黙っている。
「まだお歳が行きませぬゆえと返事を先延ばしに致しました」
「その子爵とやらはいったいいくつなんだ??」
リナが口を挟む。
「幼いのは殿下の方よ」
「なるほど、そうか」
「つい先日、十歳になられました」
金糸のようにつやのある髪を腰まで伸ばした美少女、というカルの美しい妄想は音を立てて崩れていった。
しかし、十歳か……。
仰々しく護衛を仕立てていくよりも、カバンに詰めて持って返った方が安全で手っ取り早いかもしれない。とても口には出せないが。
クロエは、カルとリナの両方にあらためて向きなおった。
ことさら真面目な顔つきに、カルもリナも内心で背筋を伸ばす。
「殿下はご母堂様がお亡くなりになられてから宮廷より遠ざけられ、半ば世間から忘れられておりました。実家におかれましてもおよそ察しがおつきだとお見受けします」
侍女のわりに、我が主についてずいぶんと率直なことを言う。
そんな印象をカルがいだいたところで、クロエは二人に向けて深々と頭を垂れた。
「それがにわかに注目を集めることになってしまいました。元より幽閉も同然の御身、お仕えするわたくしどもも親類や使用人の寄せ集めでは満足にお守りして差し上げることもままならず……」
頭を垂れたままなので表情はわからない。
だが、かすかに肩が震えている。
「お二人におすがりするしかないのです。どうか殿下をお助けください」
急に頭を下げられてどうすればいいのか困っているところへ、カルたちが入ってきたのとは別の扉が開いた。どうやらそちらが謁見の間であるようだった。
案内とおぼしき男が入室をうながしてくる。
クロエの話は中断を余儀なくされた。
彼女が見守る中、カルとリナは謁見の間へと向かった。
謁見の間、といっても居間と応接室と食堂をひと続きにしたような急ごしらえのものだった。
身分も肩書きもよくわからない人々が左右に立ち並ぶ。その間をリナにつづいて進みながら、カルは先ほどの侍女のことを思い返していた。
『お二人におすがりするしか』……か。
魔法学園、とは言わなかった。
感情を抑えきれないように見せておいて、自分たち──おもにリナとのよしみを強めておきたい、ということなのだろう。仮にその行動が計算だったとしても、切実さに変わりはあるまい。
こういう展開には弱いんだよな……我ながら。
カルは一歩下がった位置からリナの横顔をちらりとうかがった。謁見にのぞむだけあって、リナはよそ行きの凛々しい顔をしている。しかし、彼女もまたカル以上に感情家なのだ。心を動かされたことだろう。
謁見の間の一番奥、数段高くなったところに置かれた椅子には、ナタリア姫の姿はまだなかった。
ファンファーレこそ鳴らなかったものの、衛兵が殿下のおなりを声も高らかに知らしめる。
リナは恐縮するように頭を垂れた。王族と認めて迎える以上、魔法学園からの正使とはいえ臣下の礼を取るのは当然のことだった。
そんなことを他人事のように考えていたカルも、慌てて同じ姿勢をとる。リナから聞かされた謁見の作法は、つまるところ『勝手に動くな』『勝手にしゃべるな』ということである。
壇上で衣擦れの音が移動する。さらに数人が動いているようだった。
うなずきあうような気配が取り交わされると、頭上から聞こえてきたのは老人の声だった。王女が爺とすり替わったわけではない。近侍だ。魔法学園からの使者に言上の許しが与えられる。
リナが正使としての口上を述べている間、カルは顔を伏せたまま視線を横に向けた。
中庭に面した格子窓に壇上の様子が映っている。
王女の座には、子供子供した子供が座っていた。
金髪という点だけはカルの想像のとおりだが、まだ遊びざかりの幼子らしく、襟足は肩にかかる前に短く切りそろえられている。
その髪が揺れている。うつらうつらと船をこいでいるのだ。きっと寝ているところを無理に起こされたのだろう。王女といっても大人たちの都合に振り回されているだけで、身体的には普通の子供と変わらない。
かわいそうなことをしたな。
そんなことを思いながら、ばれないうちにまた視線を床に落とす。
社交辞令の往復はえんえんと続いた。
それがようやく終わったと気づいたのは、王女の口からカル自身の話題が出たからだった。
魔法学園からの副使は、世に名高い魔法学園においても希有な力を持つ者、と聞かされているらしい。リナがカルについてどう吹聴していたのか、その一端がうかがいしれた。
「珍しい天綬を授かっておるそうだの。魔法を消す魔法だとか」
ナタリア姫の問いは明らかにカルへ向けられたものだったが、すぐに答えてはならない。王女の言葉はまず近侍がうかがい、正使であるリナに伝えられる。それからリナが副使であるカルに伝える。それでもまだ答えてはならない。まずは恐縮してみせ、さらに正使もしくは近侍からせっつかれて初めて声を出すことが許されるのだ。
しかし、カルが話す相手はあくまでリナであり、リナが近侍に言上、そしてようやく王女の耳に届く。
「仰せのとおりにございます」
そうやって、正味『イエス』というだけの意味が仰々しく運ばれる。
互いに肉声のとどく距離だったが、例え間近にいようともこの手順は繰り返されるのだ。回りくどいにもほどがあるが、権威というのはこうやって維持されるものなのだろう。
ナタリア姫は寝ぼけまなこを急に輝かせ、椅子から前のめりになる。
「そなたの力だとメッサリナ嬢の炎を消しきれるのかの?」
子供はどちらが強いかという話が好きである。しかし、この場ではあまりにきわどい話題だった。しかも、子供の純真さゆえに遠慮がない。大人の建前という鉄格子を、非力な蝶がいとも簡単にすり抜けるようなものだ。
リナは顔を伏せたまま沈黙を守っている。だが、内心では対抗心をみなぎらせているのは明らかだった。間違いない。肩のあたりから湯気がたちのぼるのがカルには見えるようだった。カルの返答次第では、子爵の手勢にかこまれるよりも絶体絶命のピンチになりかねない。
実のところ、全力を出しあえばどうなるかという疑問は以前にもリナの口から発せられたことがあるのだ。だが、それを実際に試してみたことはない。
だいたい、受けきれなかった場合にこっちはどうなるのかと。
それについてはリナが「大丈夫、寸前で止めるから」とあからさまに怪しい答えしか用意してこない以上、カルには応じるつもりはない。
それはいい。今は王女からのご下問の件だ。
……しかたない。ここは俺が折れるか。
試しもせずに負けをみとめるのはカルにも抵抗があるが、リナのことだから「それなら試してみましょう」とか言いだしてこの屋敷を丸焼きにしかねない。リナに後々でかい顔をされるのはしゃくだが、ここはカルが大人になるしかなかった。
最大限に謙遜したカルの言葉が王女の元に運ばれる。
リナはカルの方を振り向きもせず、ふっ、と短く鼻で笑った。
俺が大人にならねば……。
しかし、そんなやり取りをまとめて吹っ飛ばすようなことが直後に待ちかまえていようとは、誰も予想すらしていなかったのだ。当の本人たちでさえも。
「そうであるか、謙虚な態度はむしろあっぱれである。しかし、世にも稀な天綬であることに違いはあるまい。その輝きもまた衆に抜きんでているとか。確か、『鈍色の白銀』といったか……」
天綬の血脈には、一族の象徴という側面もある。
その命名は学園当局で行われるが、美名はもっぱら王侯貴族やギルドの重鎮のために捧げられ、庶民の中からあらわれた新たな天綬にはあえて醜悪な形容がつけられるというのが慣例であり否定できない事実であった。
『鈍色』とは、つまりは『錆びた』とか『曇った』という意味である。
それがカルの天綬につけられた正式な名称だった。
そのことをカル自身は気にもしていない。他人が勝手につける名前など興味のない男だ。
感情を爆発させたのは別の者だった。
「僭越ながら……!!」
リナは視線を床にむけたまま声を上げる。
御前で許可なき発言である。しかも、王女の言葉をさえぎったのだ。信じがたいほどの非礼であり、強訴も同然だった。
リナは激情を全身にみなぎらせながら続ける。
「臣どもの間では『白銀』と呼びならわしております。願わくば殿下におかれましてもそのようにお呼びいただければ幸いに存じます」
早口でそうまくしたてると、リナはそれきり口をきつくつぐむ。
ひやりとしたのはカルだけではない。謁見の間に集う者たちもそうであった。将来はともかく、今現在にかぎっていえば、政治的な背景も、戦闘者としての実力も、紅毛のメッサリナ・ユリウス・ダマに勝る者はこの場にいない。少なくとも衆人の認識としては、くらべるのも愚かなほど圧倒的である。その彼女が、儀礼を無視して感情をあらわにしたのだ。
いうなれば、巨大な虎が鎖からときはなたれたようなものだった。
建前は消え失せ、誰もが次の瞬間をおそれて息をのんだ。
しかし、ナタリア姫が示したものは怖れや動揺でも、反発でもなかった。
「……そうか。その方たちが励みになるのなら今後はそのように心がけよう」
口先でおさめたのではない。心から申し訳ないと思っているのが伝わってくる。
無垢な魂が決定的な破局を救った。
王女がそういう態度を示した以上、この問題は終わりである。主君がゆるしたものを近侍がさわぎたてるわけにもいかず、またその必要もなかった。
謁見の場にいる誰もが、当事者たちを除いてひそかに胸をなでおろした。
謁見は終わった。
ナタリア姫が退室し、カルとリナも入ってきた扉へと戻っていく。
微妙な空気はまだそこら中にわだかまっていた。
カルは前を向いたままでリナにささやく。
「俺のことで熱くなるなよ」
「別にそんなつもりじゃ……」
リナはもごもごと口の中でまだ何か言っている。
控えの間に戻り、謁見の間への扉が閉ざされるなり、リナは不満そうに口を尖らせた。
「カルだって立場が逆なら黙ってなかったでしょ?」
そう言われると弱い。
互いに背中をあずけあうのは何も戦闘の時に限らない。相手に対して義務を果たそうという気持ちも、そっくり相似形をなす二人だった。
「まあ、それはそうだが……しかし言い方というものがあるだろ」
「それじゃあ、カルだったらどうしてたっていうのよ」
「そうだな……。いよいよ聞き入れられないとなったら全裸にでもなって抗議するかな」
「それは私の名誉にかかわるからやめて」
リナのまなざしはゴミを見るように冷たかった。