4-3
カルが学園に戻ったのは昼をだいぶん過ぎてからのことだった。
目方は羊肉の串焼き二十本分ほど増えている。
ナタリア姫の出陣ということで街はわきたち、大通りでは物見遊山の客をあてこんだ出店がにぎわっていた。
祭好きは王都の下町育ちの血である。人より淡白なところがあるカルもまたその点においては例外ではない。
腹は満足した。夜番にむけてそろそろ寝るか……。
と、自分の部屋へもどる前に、カルは学園の事務局に足をむけた。自分にあてた辞令が出ているかもしれない。
学生課の掲示を確認するのは生徒の日課であり、義務でもあった。
もし、掲示を見落とした場合、学園からのフォローは何もない。すべての責任は生徒個人に帰せられるのだ。
カルもまた特別な用事でもないかぎりは、朝夕と日に二度、掲示を見に足をはこんでいる。
一部からは勝手気ままに振る舞っているように言われているが、普段の行動はまじめそのものなのであった……。
などと、自分で自分を弁護しているうちに事務局の窓口までやって来る。
いつもは奥にいるマチャード・カルビン男爵がめずらしく受付に座っていた。
「どこも人手不足でな」
学園職員からも十数人ほどが魔法兵団として出陣している。事務局からの参加者はいないが、その穴を埋めるためにあちらこちらへ手をとられているのだ。
カルビン卿も別に愚痴を言っているわけではない。おもしろくもなさそうな顔は平常運転である。
「召喚状が出とるぞ」
言葉と一緒に書状が出てくる。役人にありがちな、もったいぶるようなそぶりはない。
愛想のなさとは違い、仕事の方は実直そのものである。貴族でありながら学園で事務仕事にたずさわり、それをそつなくこなせているのは、その実直さがあるからなのだろう。
「またご丁寧に箔押しですか」
カルは書状を取り上げ、裏返したり陽に透かしたりしてみる。
書状には学園の印章が押されていた。それは理事会から発行された正式のものであることを表している。へこみの部分にわざわざ金箔が押されており、このような書類をカルが受けとったのは入学時の証書以来である。
「こらこら、箔押しを剥がすでない」
カルは無意識にたてていた爪をはなす。
それにしても召喚状という形をとるのはめずらしい。仕事があるなら辞令、お褒めなりお叱りなりであればただの呼び出し状というのが今までのパターンだ。
たかが生徒ひとりを呼びだすのに、わざわざ理事会の承認をとるというこの大仰さは何だろうか。
ヒースレイヴンとの戦闘で王女の警護から離れたことが本格的な問題になったのか。
それとも、ディエントでの戦闘で砲弾から守った生徒の中に理事の子息でもいたのか。
その二つよりもさらに昔のことという可能性もありうる。
お役所仕事というのは、さっさと渡すべき報償をもったいぶって手のひらですり減らしてしまうところがあるから。
賞罰いずれにせよめんどくさいことになりそうだったが、たかが一生徒の分際で召喚状を無視するわけにもいかない。
カルは箔押しの裏のでっぱりを何となく指で押し戻しながら、指示された場所へと足を向けた。
避けられないことなら早く終わらせてベッドにもぐりこもう。カルの頭を占めているのはそれだけであった。
その時からである。
カルの消息が途絶えたのは──。
「これはこれはリナ殿ではないか、これはなんと奇遇であるかな」
その声を聞いただけでリナはうなじの産毛が逆立つのを感じた。
あまり会いたくない相手の三指に入る一人が、暑苦しいほどの晴れやかさで近づいてくるのである。
偶然をよそおっているが、リナのことを待ち伏せしていたのは明らかだった。
なぜなら、リナは人と顔をあわさないように、わざわざ遠回りの道をえらんでいたのだから。
ナタリア王女を迎える副使としてカルを選んだことは、今でもリナのまわりにわだかまりを残している。リナに不義理をされたと勝手に思いこんでいる連中がいるのである。
まだ二十にもなっていないのに前髪をきっちりと左右に分けた彼──クアルト・ファビウス・タキトスもまた、自分が副使に選ばれると信じて疑わなかったその一人である。
「今朝はお早いことでござるな。そういえば殿下を無事お連れできたこと、我輩からもお祝い申し上げますぞ」
それはどうも、とリナは軽く会釈をした。さっさとこの場を立ち去りたいのだが、無視して行ってしまえる相手でもない。
クアルトは生徒の中でも在学期間は最年長に位置している。
ただ、学生の身分が長いというのはあまり褒められたものでもない。
学園における彼の身分を重くしているのは、学園当局から生徒の代表として遇されていることによる。
彼の実家であるタキトス侯爵家は、研究者の保護を積極的におこなっていることで知られる。
その御曹司たる彼にも当然ながらその方針をつづけていくことが期待されていた。
学園からの評価はそういったことも大いに含んでいる。生徒の間での評判とは関係のないことだ。
「しかし、此度の一件についてはリナ殿らしからぬ水くさいことを。このクアルト、生徒筆頭として日夜多忙の身ではござるが、リナ殿の頼みとあらば何を置いても一番に駆けつけたものを」
どうやら、自分に副使の話が回ってこなかったのはリナが遠慮したからという設定になっているらしい。彼の中では。
「正副などという順序など気にしてはおりませんぞ。自他共に認める生徒筆頭とはいえ、リナ殿のもとであればいくらでも下座に……」
かろやかに回っていたクアルトの舌が凍りつく。
『リナ』という仲間内での呼び方を連呼される不快さから、リナは眼差しについ殺気のような剣呑さを滲ませていた。
それに気づいたリナは視線をやわらげ、目と目の間をもむような手つきをしてみせる。
「失礼、寝起きでどうもまぶたがよく開かず……」
「なるほど、リナ殿もご多忙の様子……いや、メッサリナ殿。親しき仲にも礼儀ありでござるな」
「副使については実務を基準に選んだもので。ご不快に思われたのなら平にご容赦を」
「なるほど、そのような事情がござったか。納得がいき申した。しかし、殿下に何か失礼でもないかと心配しておりましたぞ。いやさ、メッサリナ殿のことを申しているのではござらん、ご承知のこととは思うが」
この芝居がかったしゃべりようにさらされていると、その舌を半分の長さにしてやりたいという衝動がふつふつとわいてくる。
いかんいかん。近頃は戦いにかけずり通しであるせいか、気が荒くなっているようだ。
しかし、若い男と相対していると、つい比較してしまう。普段一緒にいるカルとだ。
カルはあまり口数の多い方ではなく、それとくらべると現状は男三人ほどに囲まれて愚にもつかないことを言われているような錯覚をおぼえそうになる。
そんなことを思いながらも、今のリナはそのカルからひそかに逃げ隠れしている状況であった。
あの時のことは思い出すだけでも顔が熱くなってくる。
王女の馬車の後ろに二人で腰かけ、故郷の家族について泣き言のようなことを話してしまった。もともとはカルに尋ねることがあって二人きりの状況をつくったのに、結果はまったくの逆になったのだ。
それだけではない。ヒースレイヴンを倒した直後、子供のようにわーわーと泣いてしまった。
あの時の自分を思い出すたび、顔から火が出そうになる。どんな顔をしてカルに会えばいいのかわからない。
そんな風についついカルを避けるうち、ずるずると日にちが経ってしまい、余計に会いづらくなってしまっている。
だが、例えここ数日のすれ違いについてうまく言い訳できたとしても、やはりカルとまともに顔をあわせることはできそうにない。
今でも、カルのことを思うと頭によみがえってくるのだ。
ヒースレイヴンを倒し、顔中をびしょびしょにして泣いたこと。そして、さらにその後のことを。
あの時、カルはいつもと変わらない顔つきで自分を抱きしめ、頭をよしよしと……。
「どわーーーっ!!!」
唐突に雄叫びをあげてしまう。
クワトロは驚きのあまり半歩後ずさっている。
「い、いかがされたか、メッサリナ殿」
「いえ、ちょっと靴の中に小石が。見事なところに刺さったもので」
「はは、なるほど、見事なところでござるか」
リナは何も入っていない靴から小石を取り出すそぶりをしてみせる。
まだ自己嫌悪はリナの体内にくすぶっていた。
確かに、満たされたものを感じた。カルに胸の内を明かして。飛び出したカルに追いついて泣き声を上げて。そして抱きしめられて……。
だが、そこに安住することを許さないのもリナ自身であった。
自分が戦闘者である以上、カルとは対等の立場でなければならない。
そうでなければカルのそばに自分の居場所などないのだ。
相棒とは互いに背中をあずけあう関係のことである。
一方的に癒されるなど、あってはならない。
そのようにリナは自分の存在を決めてかかっている。
勝手に作りあげた箱の中で狭苦しく手足を折りたたみ、身動きできなくなることでようやく安心しているようでもあるが、その心のもちようは世間に知られるリナの勇壮な印象とはほぼ真逆のものであった。
リナ自身は、自分のことを後悔の多い人間だと思っている。
それは客観的にみても事実だろう。
人の先頭に立って行動することが多いだけに、後悔の種には事欠かない。感情の量が人よりも多いせいで、それを持てあますこともしばしばである。
だからこそ憧れもするのだ。揺るぎのないまっすぐな瞳で、敵だけを見すえるその眼差しに。
世間のしがらみや、社会的な立場などまるで気にもとめず、残酷な怪物に体ごと突き刺さっていく、その姿に。
そこにあるのは戦いそのものである。血みどろでありながら、不純物を一切ふくまない透明な世界である。
彼と共にありたい。そう願うのは、この悔いることの多い自分の存在もまた幾多の戦いを越えた先で純粋な何かになれるような気がするからだ。
それだけに後悔してしまう。特に、婿取りと跡継ぎの不満まで話してしまったことを。
あれではまるで、自分を奪ってほしいとほのめかしているみたいじゃないか。
澄み渡った泉に血を一滴落としてしまった。戦友という間柄に男女の話を持ち込んでしまったことはそれに似ている。
その生々しい赤色がゆっくりと広がり、消え去るまで、リナは水をかき回したい衝動にかられ続けるのである。
「しかし、我々貴族としては殿下に一刻も早く即位していただかなければ、婚姻もままなりませんな」
リナは一瞬、ぎくりとする。心の中を読まれたのかと思ったが、クアルトにそういった素振りはない。クアルトは相変わらず一人でとくとくと語っている。
国王の不在が貴族社会において深刻な問題を引き起こしていることは事実であった。
貴族の結婚は、国王のお目通りが叶った者同士でなければならないからだ。
王都消失からすでに半年。屋台骨を失った家屋をだましだまし使うにも限界がある。
「まあ、たわむれに身分違いの者と交わるのもほどほどにして、やはり貴族は貴族同士のつながりを大切にするのがよろしかろう。このような時世でござる。我々は国を支える柱であるからして、より一層紐帯を強めていく必要がござるゆえ」
クアルトは顔を近づけてきてわざとらしく声をひそめる。
リナが露骨に顔をしかめたことには気づいていない。
「お互い、領地も近いこと。いずれ大公殿にも知己をたまわりたいものですな」
その言葉の意味がわからないほどリナもうぶではない。
クアルトにしてみれば、リナと身をひとつにすれば領地もひとつになったも同然なのである。クアルト自身が跡継ぎである侯爵領。生まれてくるのが息子であれば、広大な大公領も。一躍、王国北部において最大の領土を所有することになる。
(斬って捨てたい……)
そう深刻に思いつめたリナがクアルトの肩を押しのけることすら我慢したのは褒められてもいいだろう。
リナがクアルトのことを嫌っているのは、こういう欲得ずくのいやらしさだけではない。どうも生理的に駄目なのである。
自分でも理由はよくわからない。強いてあげれば、カルや祖父と何もかも真逆であるからだろうか。
そうしてみると、カルと祖父は似ているということになるのか……?
自分の中にふとわいてきた疑問をリナは打ち消した。
全然違う。そうやっきになって否定してみるものの、思いつく違いといえば年齢によるものの他にはなかなか出てこない。
「ところで、ご用向きは」
声にとげが出るのをどうにか抑えて、リナはそう尋ねた。
「そう、それでござるよ」
立ち話をうちきるつもりで言ったのだが、なぜか歓迎された。
クアルトはやけに機嫌がよくなり、リナは逆に不安をおぼえるはめになる。
「メッサリナ殿がいつも追い使っている庶民がいたでござろう、何とかという」
庶民など名前をおぼえる必要もないという態度が露骨にでている。
もちろん、カルの名を知らないはずがない。たびたび目のかたきにしているのだ。相手をおとしめ、自分を少しでも高く見せようという小細工である。
「……カル・ナイトウォーダーでしょうか」
「まあ、名前などどうでもよいが、その者がよからぬ連中とつるんでいることをご存知でござるか」
「よからぬというと?」
「学園の機密情報を手に入れようとする者どものことでござるよ。そこはそれ、学問の府でもあること。知恵くらべとして試みる者は後を絶たず、それをことさら厳罰に処するのもどうかとも存ずるが、ただオーバー・ワンに関わることとなれば話は別でござる」
期待したほどリナが驚きを見せることもなく、クアルトは失望を感じたらしい。
それでもなおクアルトは続ける。
「ただ情報を集めるだけといっても、ことオーバー・ワンについては目こぼしするわけにもいき申さん。その情報が下手なところに渡ってしまえば、オーバー・ワンに攻撃を加えようとする野放図な連中をどう刺激することになるか。場合によってはとてつもない悲劇の引き金ともなりかねぬゆえ」
よく回る舌からつむぎだされる言葉を、リナは黙って聞いている。
だが、リナにとって新しい情報はなさそうだった。
実のところ、カルのそういう行動についてはリナもとっくに気づいているのだ。
もちろん、カルにカルビン卿とのつながりがあることも。
知らないはずがない。カルの功績を上に訴えているのはリナなのだ。そこに食い違いがあればすぐに気がつく。報告書が書き換えられているとすれば、カルビン卿の線はすぐに浮かんでくる。
カルビン卿は学園で働くようになってまだ日は浅い。王都消失以降、もっと正確にいえばオーバー・ワン討伐よりも後である。
表向きは街道の安全がおびやかされて故地に帰れないということになっているが、事実は違う。
学園都市の東の丘にならぶおよそ二千基の墓石。そのひとつに彼の孫が眠っているのだ。
聞くところによると、自慢の孫であったらしい。貴族の数あわせでしかない男爵家において、魔法学園の修了者を出したというのは一族の誉れであったことだろう。
カルビン卿は、孫のかたきを討つためなら何でもやるだろう。
学園をまるごと地獄の業火に投げ込むことでも。
貴族でありながら学園の事務局で働く男には、そういう背中があるのだ。
ただ、カルがそこにかかわる理由がわからない。そのせいで当局から睨まれることにもなっていることだし、単なる同情からの行動とも思えないのだが。
グリーンホール行きには、カルに箔をつけるというだけでなく、なぜオーバー・ワンにこだわるのか膝をまじえて問いつめるという意味もあった。
だが、今のリナの心情はまたそれとは異なるものになっている。
言ったところでどうせ聞かないのだ。
それなら黙って隣に立ってやるべきではないか。
あいつが立ち上がる時、ともに立ち上がり、戦ってやるべきではないのか。
だから、オーバー・ワンについては無理に聞かないことに決めたのだ。
リナ自身、覚悟をもってそう決めたのだ。
それだけに、他人からあれこれ言われるのは無性に腹立たしくもある。
「まあ、仮にオーバー・ワンが襲ってきたところで学園には八層の防御結界がござるからして! 例え一発で一枚剥がされたとしても修復の速度の方がずっと上でござるよ! はっはっはっ」
自分の功績でもないのになぜこうも誇らしくしているのだろう、と不快感にも似た疑問をいだきながら、リナはきびすを返した。
「彼のことはただの誤解でしょう。それでは失礼」
「ああ、まだご存じないのか」
クアルトの声に優越感の微粒子を感じて、リナは足を止めた。
いぶかしげにまなざしを上げる。
「その男なら学園当局により捕縛されたでござるよ」
「えっ!?」
クアルト・ファビウス・タキトス。
彼がリナの注意をひくことに成功した初めての瞬間であった。
暮れなずむ夕陽の下端がようやく稜線に接し、野で働く人々が腰をのばしながら城門へと集まってくる。
そこでしばし会話をかわしてから、それぞれの家へとふたたび散っていくのだろう。
この情景にかぎっていえば、世は何ごともなく平穏に見える。明日も、次の季節も、来年も、同じことが繰り返し続いていくことが当たり前のようにも思われた。
だが、リナの心中は穏やかではない。
こうして南門の見張りについていても、あがくような気分でいる。
人手不足の折である。カープラント・ボア討伐に人員を根こそぎ持っていかれた他には進行している作戦もなく、ソリストであるリナも今だけはこういった雑務に従事している。
あれから──。
クアルトから状況を知ってすぐにリナはあたれるだけの窓口やツテを回ったが、カルとの面会はかなわなかった。
普段、上とはカルの処遇について角を突きあわせてばかりいる。そのことがリナにとって不利にはたらいた。
他に考えられる手といえば、ナタリア姫にすがることだが、討伐隊がもどるのはまだ何日も先のことである。
一日走り回って収穫といえば、カルが獄中にあるというのが事実であるとわかったことだけだ。
万策尽きた。
大公の孫娘といっても、自分個人のなんと非力なことか。
かつてなら、「こういう時には祖父ならどうするだろうか」というのがリナの行動の規範になったものである。
今はそこに別の人物が座っている。
だが、今回は当の本人が牢につながれているのだ。
「交代だ」
長くのびた影がリナの足元に近づいてくる。
城楼から城壁の上に出てきたのはティアであった。
ティアの流れるような銀髪が茜色にかがやいている。
リナの髪はさらに紅い。まるで互いの心情をあらわしているようでもあった。
リナはふと思い出す。王都が消えたあの夕刻。何ものにも染まらない黒髪を。
「……当番は日没までだから」
「そうか」
ティアはあえて急かさなかった。リナの意思を尊重するように手前で足をとめ、胸壁にもたれかかる。
ティアが人払いをしたのか、城壁の上にも城楼の物見台にも人影は見当たらない。
突き放すようなことを口にしつつも、じれているのはリナの方であった。カルが牢につながれていることはティアやマルチナにもすぐに伝えた。彼女たちの方の結果を、リナは足ずりする思いで待っていたのである。
「どうもうちの者がカルに迷惑をかけたようだな」
カルが捕縛されたのは、面会禁止の者と接触したことが理由であった。
つまるところその相手とはビオラなのである。
表向きは面会禁止となっているが、実質、おめこぼしされていた状況であった。それが突然、カルだけが罪に問われたのだ。
そこに存在する意図については今のところ何の証拠もないことだが、ひとつには身分の差があるのだろう。行いに対する法的な罪と罰は、貴族と庶民では違ってくるのである。そもそもの罪人であるビオラがすでに軟禁をとかれているのは皮肉としか言いようがない。
「それで?」
別にティアのせいでもビオラのせいでもない、と社交辞令を口にする余裕は今のリナにはなかった。
政治においては間違いなく自分よりも上だとみとめているティアの成果を早く聞きたい。
だが、事態があまりかんばしくないことはティアがあらわれた時から予想がついていた。何か吉報があればティアがこんなにも話しづらそうにしているわけがないのだ。
「正攻法ではむずかしいな……マルチナのことは見かけなかったか?」
リナは落胆しながら首を振る。
「生徒の中で一番大それたことをしかねないのはたぶんあいつだからな」
ティアは苦笑をうかべている。
カッシーナ公爵家の次期当主であり、生徒の中でもっとも多くの支持を集める彼女がそんなことを口にするのは不思議に思えるかもしれないが、一面の真実がそこにはあった。
アエミリウス氏族は貴族の数も多く、その家系は王家よりも古いとささやかれるほどの名門である。ティアの号令で動く者は多い。
だが、頼まれれば一も二もなく従うという者の数であれば、学園においてはマルチナだろう。
マリウス氏族とそれに従う家系は学園都市の土木面を一手にひきうけ、その日常の作業において連帯を強めている。彼らは派閥というより、巨大で強固な組織なのだ。そのボス猫がマルチナなのである。
しかも、郷国が大河セルレイの南方と遠いため、その多くが王都消失後も学園にとどまっている。マルチナがその気になれば学園施設を半壊させることも可能だろう。
「まあ、あれで面倒見はいいからな。何の始末もつけずに事を起こすような真似はしないだろうが」
リナはそれを自分への忠告だと受けとめた。後先考えずに暴発するな、という。
涼風に吹かれるようなティアの冷静さがリナの勘にさわる。こんな時まで、という思いがふつふつとわき上がり、リナの無駄に威勢のいい部分が頭をもたげてくる。
「いざとなれば……」
その先を言葉にするのはさすがにはばかられた。
「よい、せ……と」
ティアはわざわざそう声に出して、胸壁の下にある踏み台に腰を下ろした。
そうやって低い位置についてから、リナに話をつづけるよう促す。
「いざとなれば、どうする?」
もしかすると、彼女の動作は自分を落ちつかせるためのものであるのかもしれない。そう思いながらも、リナにはもはや引っ込みがつかない。
「牢のひとつやふたつ」
「君なら破れるだろうな。問題はその後だ」
難しいのは獄を破ることよりも、それからどう捕吏の目をかわして生活するかということである。
だが、行くあてであればリナにはこの地上でどこよりも安全な場所があった。
その答えをティアが先回りする。
「故国につれて帰るか? それで大公殿にはどう説明する。腕は立つからとりたててくれとでも頼むのか?」
「説得してみせる。カルに落ち度らしい落ち度もないんだし、お爺さまもわかってくれるわ。学園だってカルのことがただ目障りなだけで、いなくなればしつこく追ってくることもないだろうし。いざとなれば名前を変えさせて……」
ティアは肩をすくめ、そういうことじゃない、と論点のまちがいを指摘する。
「君の故国に連れて行かれたあいつは、君にとっての何になるんだ?」
「何って……」
リナが口ごもると、ティアはやれやれと溜息をついた。まるでそうなることを予期していてあらかじめ準備していたような仕草だった。
「だから我々では駄目なんだろうな」
「何の話よ」
話の先が見えず、リナはいらだちを隠しきれない。
ティアの方は別に不思議がっているわけでもないのに、軽く首をかしげた。銀色の束がティアの肩からこぼれ落ちる。
「あいつのことをずいぶんと気に入っているようだが」
「なっ……」
顔に血がのぼり、反論が百ほども口を突いて出ようとする。
しかし、リナはそれを喉の奥にとどめた。
ティアは何も恋愛感情のことだと明言したわけではない。あんな風に思わせぶりなことを言って、どうせ自分をからかっているのだ。
そんなリナの予想を、ティアはあっさりと裏切ってみせる。
「もちろん、女としてだ」
リナは口をぱくぱくと開閉し、今度こそ叫んだ。
「ななな何言ってるの! そんなことあるわけないでしょ! 私が、カルのこと、女として? 何それ、恋ってこと? いきなりすぎて訳わからないわよ、こんな時に持ち出してくるような話じゃないでしょうに、だいたい、あれはただの友達で……いや、もうちょっと親しいかもしれないけど……相棒、そう、相棒よ、互いへの信頼でむすびついてるわけ。むすびついてると言っても変な意味じゃないから! 異性だからって何でもかんでもそっちにくっつけないでよ! 戦闘に男も女もないでしょ、そうよ、戦闘の中で育った感情なのよ、これは、だから、当然、恋愛とは関係ないんだから!!」
リナの他愛ない言葉の数々を、ティアは腰も折らずに根気よく聞いた。
ただうなずき、そうやってリナの胸の内を存分に吐き出させてから、もう一度言う。
「好きなんだな」
リナは頭のてっぺんから蒸気をふきだしながら反論する。
だが、それは先ほどの繰り返しでしかなかった。
「こんな時代だ。せめて自分自身には正直でいる方がいい。我々だっていつどうなるかわからないんだ。後悔すらできなくなってからでは遅いしな」
その時にはもう、リナはくたくたで叫ぶ気力もなくなっていた。
気がつけばティアがいるのは風上だ。わめきたてるにも疲れがたまるはずである。そうしてみると、ティアは最初からリナの勢いをそぐつもりでそこに座ったのか。
「……こんな話をするのはティアの方が気になってるからじゃないの?」
恨みがましくそう言ってしまったことをリナはすぐさま後悔した。
ティアと気まずくなることを怖れたのではない。
ティアから本当の気持ちを聞かされることが怖かったのである。
「どうかな……確かに彼とは君やマルチナを通しての付き合いだった。少なくともきっかけは」
リナからそう言い返されることは予期していたのか、ティアは別に気を悪くした様子もない。
しかし、つづく彼女の言葉に偽りやごまかしは一切なかった。
「好ましくは思っているよ。将来はどうかな……。君たちがこんなにも惹かれていくのを間近で見ていると、自分もいずれはそうなってしまうんじゃないかという予感はあるな」
リナはまた反論したくなったが、結局は口をつぐんだ。
自分の気持ちが詮索されているわけではないのだと気がついたからだ。
ティアの目的は、混迷の度を増してきた現状がさらなる混乱へと落ちていく前に、いったん足を止め、今、何がどうなっているのかを明らかにすることだった。
そこには彼女自身の感情もふくまれていて、リナが尋ねられたことはその舞台装置でしかない。
「それにしても不思議な奴だ。別に何をするでもない、ただ戦っているだけなのにな。そばにいると安心できる。何が起きても必ずあいつがどうにかしてくれると思えるんだ」
「……あいつを見つけたのは私なんだから」
黙って聞いているつもりが、つい所有権のようなものを主張してしまう。
だが、リナにとっては重要なところだ。
誰もカルには目もくれていない時期に、自分がカルを見いだしたのだ。
それがカルとの関係で自分と他者を明確に分ける一線にもなっている。リナはそう固く信じていた。
ただ、その頼りなさもリナは承知している。
王女の馬車でわたされた家族からの手紙……。
それは数片の紙とは思えないほど、リナの手には重く感じられた。
この半年、カルとは互いの命をあずけあってきたが、あの手紙を読んでからは、果たして二人の距離をどれほど縮めることができたのか自信がなくなっていた。
自分と他の者たちの間に一線をひいておきながら、その上にある家族という一線はどうやっても突破できずにいる。そんな気がしてならないのだ。
「そうだな。そうだった」
リナの苦悩を知った上で、それをいたわるようにティアはつぶやく。
だが、ティアの次の言葉は、リナに対してかなり容赦のないものだった。
「まあ、結局はマルチナになりそうだけどな。あいつと結ばれるのは」
「な……っ! な、なによそれ、また変なこと言って……。え、なんで……?」
衝撃を軽く受け流そうとして失敗した。思わず前のめりになってしまう。
不安になるのは、それが他ならぬティアの述べた未来図だったからだ。
ただの揺さぶりとも考えられるが、ティアがそう断じた根拠がどうしても気になってしまう。
リナはおあずけをくらった犬のように、じりじりしながらティアの言葉を待った。
ティアは別にもったいをつけたりしない。そこには大した謎もないからだ。
「マルチナは元から故郷を捨てるつもりでいるからな。カルを連れて行って大公殿に婿だと納得させられるか? 私の母は許してくれないだろうな」
権力の近くにいるということは、同時に、その権力の支配に強く左右されるということでもある。
リナの結婚については祖父のダマ大公、ティアの場合は母親のカッシーナ公が最終的な決定権を握っている。他の誰を説得しても、そのただ一人が首を振れば無意味である。逆に、その一人さえ丸め込めれば問題は解決したも同然であった。
リナはその場面を頭の中で展開してみた。
カルを祖父のもとへ連れて行った場面を。
祖父は、にこやかな表情をくずさないだろう。そして一歩ずつカルに近づき、「よくも我が孫娘の心を射止めおったわ」と大笑しながらその肩を力強く叩く……ふりをして目にも止まらぬ抜き打ちをしかけるに違いない。きっと殺す勢いでカルの腕を試すだろう。あとは流血沙汰が繰り広げられるのみである。
駄目だ。この方法では駄目だ。
しかし、状況を変えて試しても、結果は似たり寄ったりである。
リナはああでもないこうでもないと考え込む。ティアが見ている前であることも忘れて。
そんなリナをぼんやりと眺めながら、ティアはリナの耳に届かないほどの小声でつぶやいた。
「……しかし、一度はあの女に会わせてみたいものだな」
あの女。すなわち、カッシーナ公。
つい口を突いて出たその呼び方は、今日この場におけるティアの発言でもっとも正直なものであるかもしれない。
実の母親である。だが、ティアはその女から肉親としてのぬくもりを感じたことは一度もない。
ティアの幼い半生は、恐怖の一色によって塗りつぶされていた。
物心ついた時から分別をそなえた大人として扱われ、カッシーナ家の次期当主として、将来アエミリウス氏族をたばね、一族の利益を代表し、保護する者となるため、容赦のない教育が加えられた。
人としての本能、喜びや怒りといった感情をすり潰し、公的存在としての型に背骨を無理やりねじ込む。それは見方によっては拷問と同義であったかもしれない。
自分に政治的なふるまいが身に着いていることを、ティアは感謝などしていない。
むしろ憎悪していた。
一族に君臨し、ティアの人生を定め、ティアの人格さえも作りあげた母親を。
だからこそ、あの女なのである。
(もし、カルがあの女の前でも動じなければ……)
そうであることを切実に望んでいる自分がいる。
自分の恐怖する対象が絶対ではないのだと、彼が証明してくれることを。
だが、それはまだティアの胸の内深くにとどめられ、誰にも明かしていないことだった。
「まあ、いずれにせよ先のことだな」
ティアはことさら声を明るくする。
ティアにとって当座の問題は、リナやマルチナを暴発させないことだった。
何だかんだで、この二人はティアにとって大切な友人なのだ。
ティアは自分の政治的な才覚を道具として便利に使いつつも、心のどこかでそれを嫌悪している。リナやマルチナの素朴さがかけがえのないものに思えるのは、その裏返しでもあるのだ。
「私の場合はまだまだだな。あいつの前で裸になる自分を想像すると、それだけでもう笑ってしまいそうになるから」
ぎくり。
そんな音がティアの耳には実際に聞こえたような気がした。
リナは肩をこわばらせ、体ごとゆっくりとあらぬ方を向いている最中であった。
「……妙な反応だな。おい、まさか」
リナはどうしてもティアと目をあわせようとしない。
紅毛が逃げ、それを夕陽に照り映えした銀髪が追う。
「いつのことだ、グリーンホールでなのか」
「……交代はまだなんだから詰めの間にでも行ってたら」
「何というはやまったことを……」
「なんでそうなるのよ」
「しかし、同衾したのだろ?」
「誰もそんなことは言ってない!」
「長椅子だから同衾ではないというのは使い古された言い訳だぞ」
「ベッドでも長椅子でもそんなことはしてない!」
「絨毯か……。何ということだ、初めてでそんなことを……カルのやつめ」
「なんでそうなるの!」
「マルチナが知れば泣くか。いや、むしろこれで何の遠慮もないと押し倒しにかかるかな」
「ちょ、変なことふれまわらないでよ」
「カルもあっさりしているようで女に迫られると弱そうだからな……いっそ三人で上になるか、体力は十分にあるだろうし。いや、そちらの方での体力はまた別口か?」
「だから!」
リナは力いっぱい叫ぶ。
そこまでせずともティアの妄想はとっくに止まっていた。
「だから?」
追求されると叫んでしまうが、答えを待たれるとリナも勢いが弱まる。
「だから……」
別によこしまなことはどこにもなかったはず。
だが、あの状況のことはどう説明しても誤解をうみそうな気がしてならない。
むしろ、誤解しか生じそうにない。
そもそも、何の必要があってあんなことになったのだったか。
その部分がリナの記憶でも靄がかかったように曖昧としている。
確か、ちゃんと理由は……あったはず。
そうだ、謁見の作法なんかのあれこれをカルに教えるためだ!
あれ? でも、浴室でそんな話をしたおぼえがまったくないぞ?
だいたい、その後の謁見でもカルには作法なんてもちいる機会はなかった。後ろにいて私のやることを真似していただけなのだから。
あれ? おかしくないか?
今さら自分の食い違いに気がつく。
だが、説明はつく。
きっとあの時は色んなことが一片に頭の中へ押し寄せてきて、混乱していたのだ。
突然、謁見が決まり、時間にも追われていた。
慌てているところにカルが急に入ってきて、それでさらに慌てたのだ。
とにかく動揺を見せまいと余計な意地をはったことも、混乱に拍車をかけた。
おかしいと思ったのは、むしろカルの方だったに違いない。
疑問に思いつつ、それでも言われるがままおとなしく湯船につかっていたのだろう。
その背後にいるのは裸の自分だ。
明らかに絵づらがおかしい。自分でもやはりそう思う。
今になって急に恥ずかしくなってくる。全身の血液が音をたてて顔に集まり、血膨れしそうだ。
もしかすると屋敷の使用人にもその状況を気づかれたかもしれない。そのまま王女の一行として学園都市まで来ている可能性も……。
いや、その想像はやめよう。死にそうになる。血膨れした顔が破裂して失血死だ。どんな死因だ。
だが、そのような第三者のことを気にするまでもなく、問題はもっと近くにある。
いずれは合法にしろ不法にしろ、獄中にいるカル当人と顔をあわせることになるだろう。
すべてが明らかになった今となっては、何食わぬ顔でカルと会うなんてことは無理だ。不可能だ。
牢の中で記憶がなくなるまで殴ってしまいそうだ。自前の剣だと燃やしてしまう。助けに行く前にマルチナのハンマーを借りておこうか──。
などということを止めどもなくリナが考えている一方で、ティアは胸壁にひじをのせて夕暮れの景色に目を奪われている。リナを追求したことなどとっくに忘れたみたいに。
「……人をさんざん動揺させといてソッコーで飽きてるんじゃないわよ」
「待て、あれは何だ?」
ティアはリナのことをなだめる手つきをしつつ、遠くを見透かすように目を細めている。
「何よそれ」
「そっちは後回しだ。どうせ着替えか風呂場で裸を見られたというところだろ」
図星である。リナの手は無意識に鈍器を探した。もちろん、ティアの後頭部を力いっぱい殴って記憶をとばすためである。
一方、ティアはもうその話題を蒸し返そうとはしなかった。
それだけ優先度の高い何ごとかが起きているのである。
ティアの指にはすでに水晶のような欠片があった。ティアの魔力により生み出されたものである。
縮地眼《スケールキラー》──極端に純度の高い氷をレンズとして二つ組み合わせ、遠くにあるものをまるで近くにあるように目視する。魔法と呼べるほど高尚なものではなく、利点といえばかさばる望遠鏡を持ち歩かなくてすむといったくらいだ。
「いいから見ろ。どうやら仕事ができたようだぞ」
ティアの口調に冗談とはことなる響きを感じて、リナは城壁の外へと渋々顔を向けた。
城壁から遠くはなれた丘陵地帯のあたりに違和感をおぼえ、さらに目をこらす。
形のよい唇から呟きがもれる。
「川……?」
その表現にティアはひとつうなずいて同感を示すが、一方では明確に否定した。
「川なんて街の南側にはないけどな」
しかし、丘の谷間を流れてくるものは川としか言いようがなかった。
黒い。まるで濁流のようだ。こちらに向かってくる。
やがて地鳴りがリナとティアの耳にも到達する。
その音は騎兵の一斉突撃にも似ていた。馬蹄のように固いものが無数に地面を打ちつける音である。濁流ではこのような音はしない。
黒い川は見る間に城門へと近づいてくる。
すでに、二人の目にはそれが川などでないことは明らかだった。
無数の結節からなる長大な体躯である。そのひとつひとつの結節から足が二本ずつ、左右に生えているのだ。
百足虫のような外見をしている。むしろ巨大な百足虫そのものだ。ただし、その胴回りと足で城門の横幅ほどもある。
目撃者はリナとティアだけではなかったようだ。二人のいる側からは姿が見えなかったとはいえ、見張りもちゃんと仕事をしていたらしく、城門はすでに固く閉ざされて柱のようなかんぬきが下ろされる。
だが、そんなことなどお構いなしに巨大な百足虫は突っこんでくる。
衝突は生じなかった。怪物は城門を突き破るのではなく、無数の爪で城壁をかき削りながら一気に這い上がってくる。
その様子はさながら攻城に使われる梯子──雲底に似ている。
王国最大級である学園都市の城壁をやすやすと越えてくるガイヴァントともなれば、数は限られている。
怪物の正体はガイヴァント・スピアクリーパーであった。
クラスはシタデルだったか、リダウトだったか、リナもティアも確かにはおぼえていない。
どちらにせよ、学園上層部が勝手につけているランキングだ。まだ倒されていないガイヴァントの真の実力など計れるものではない。ヒースレイヴンがいい例である。
重要なのはその性能や習性だ。
雄大ともいえるその体長は、いかなる城壁も無意味にしてしまう。行動範囲は極めて広く、今まで幾多の都市や要塞が蹂躙されてきた。
「そうはさせるか……!」
最初に仕掛けたのはティアであった。
無詠唱、最速で、城壁から氷の壁をはやす。さながらひさしのようなそれは、登ってくるスピアクリーパーの頭をおさえるためのものだ。
だが、氷の壁にそって簡単に乗り越えられてしまう。
普通なら反りかえった時点で地面に落下しそうなものだが、自重のほとんどがまだ地上にあるためだ。氷壁を爪でつかむことができなくても、体の先頭あたりは空中でどのようにでも動かせる。
それほどに長い。体の末尾はまだ丘の谷間から出てもいない。もはやスピアクリーパー自体がちょっとした長城である。
リナとティアの頭上が翳った。
無数の足をうごめかしながら巨体がのしかかってくる。
二人は分断される寸前、かろうじて同じ側に飛んだ。
しかし、状況は必ずしもよくはない。スピアクリーパーの巨体は城壁の幅のほとんどをふさいでしまう。
回り込むことは不可能だった。正面から向きあうしかない。
「ティア! 下がって!」
リナの目配せで二人はひと飛びふた飛びと後退する。
スピアクリーパーもそれにつられて追ってくる。残りの体もどんどん城壁の上にあがってくる。
リナの腰から閃光がはしった。刃は紅蓮の光と炎をはなつ。それこそダマ家の秘宝、アッシュブリンガーである。
その紅い刀身には炎の魔神が宿るといわれ、剣自身の力により触れるものを灰と化す。リナが魔法学園に旅立つ日、祖父である大公自らの手により渡された魔法剣の逸品である。
リナはアッシュブリンガーを大上段から振り下ろした。城壁の上を炎と衝撃が走り、スピアクリーパーを縦に両断する。
途端に城壁の上を濃い霧が覆った。鼻腔を刺激する臭気が辺りに広がる。
無害な気体であるはずがなかった。
スピアクリーパーの体内を流れる溶解液である。それがアッシュブリンガーの熱に触れて気化したのだ。
城壁はさながら水をかけられた砂山のごとく上部からくずれていく。
リナたちの足元にも飛沫がとび、石畳がじゅうじゅうと音をたてて見る間に穴だらけとなる。
「マルチナが怒るだろうな……」
学園都市の城壁はマルチナをはじめとするマリウス氏族によるところが大きい。
だが、後の心配をしている場合ではなかった。
溶解液の霧のむこうから、スピアクリーパーの断面が現れたのである。
しきりと溶解液をとばしているのは威嚇だろうか。頭部は単に先頭というだけで、弱点ではないらしい。
「これは……どこまで潰せば倒せるんだろうな」
「必要なら尻尾まで全部焼き尽くしてやるわよ」
リナは最初からそのつもりであった。だからこそアッシュブリンガーを抜いたのである。
アッシュブリンガーはリナ自身の負担なしに一定の熱量を放出しつづける。一度に大きな威力は発揮できないが、長期戦にはうってつけの武器といえる。
戦闘におけるこの勘のよさだけは、ティアも素直に感心するしかない。
自分の恋にも気づかない不器用な娘が、戦闘となれば人が変わる。さながら、恋に関する能力をすべて神に捧げてその分を戦闘力に上積みしてもらったかのようだ。
スピアクリーパーはなおも詰め寄ってくる。その足元からざくざくと奇妙な音がしているのは、溶解液にとかされた城壁の表面が軽石のようにもろくなっているからだ。
リナもティアも油断なく身構える。
だが、敵は目の前にいるだけとはかぎらない。
災難はえてして仲間をつれてくるものだ。
ずどん、と腹の底を揺さぶられるような重い音が、学園都市全体に響き渡った。
音でありながら、実体が感じられるほどの重い、重い音である。
足元の城壁が震えたことにも、カルとリナは戦慄した。
「今度はなんだというのだ……」
音は二人のいる南門の付近ではなく、学園都市の正面玄関ともいうべき西門の方から伝わってくる。
またひとつ。そしてふたつ。一定の間隔をおいて規則的に続く。
その一撃ごとに、城壁はうち震えるかのように振動した。
別の何かが西門に取りついているのは明らかである。
もし、スピアスクリーパーのように城壁をたやすく破るレベルのガイヴァントであれば、一刻の猶予もない。
二人は視線を交わしあった。リナがティアを鋭く見据える。
「ここは任せて!」
「しかし……」
「いいから行って! こういうデカブツは私の得意分野だから!」
確かに、リナの言うとおりではあるが……。
迷いがティアの足を釘づけにしている。
リナは西の方角をまっすぐ指さした。
「まだ陽は落ちてない。ここは私の仕事よ」
南門と西門をまっすぐつなげば、街の中を突っ切る直線ができあがる。
しかし、市中を行けば建物を迂回してじぐざぐに進むことになる。路地から誰が飛び出してくるかもわからない。結局は、遠回りでも城壁の上を走った方が早い。
いくつも城楼をくぐり、西門が近づいてくる。そのすぐ前に黒山のようなものがうずくまっているのがティアの目にも確認できた。
やがて、形がはっきりと見えてくる。
あちらが百足虫なら、こちらは巨大な甲虫としか言いようのない姿であった。
ガイヴァント・シージマゴットである。一歩ごとに地面が沈みこむほどの自重をもつが、『超』のつかない単なる大型に分類されている。この辺りの加減というのは、ティアにはわからない。案外、学園当局の選定基準も適当なのかもしれない。
シージマゴットは芯棒のような構造を体内に持ち、それを前後させて城壁や門をうち砕く。
構造は破城鎚に似ているが、大きさはまるで比較にならない。
その分、破壊力も尋常ではない。
分厚い鉄の城門が、衝撃に負けて内側へひしゃげている。
ただの門ではない。学園都市の西門は、王国でもっとも頑強につくられた城門のひとつである。
それが破られようとしている。
王国が負けようとしているのだ。
城門の上からは弓矢や魔法が必死にうち下ろされているが、黒光りする外殻には傷すらついていない。
ティアは走りながら舌打ちした。
「よりにもよってこんな時に大型が二体か」
ティアは言ったそばから自分の言葉に疑問を抱いた。
『こんな時に』? 果たしてそうだろうか。
『こんな時だからこそ』、ではないのか?
手薄になっているところを攻めるのは軍略の基本である。学園都市は今まさにその状態にあるといえるだろう。なにせ、王女の出征によってガイヴァントに対抗する兵力がいちじるしく不足しているのである。
だが、ガイヴァントがそのような広域にわたる状況判断をするのだろうか?
ティアが西門にたどり着いた時には、すでに城門は打ち破られた後だった。
おそろしいまでの突破力である。しかも重量のわりに足も速く、もう市内の次の城門にとりついている。
学園都市は魔法学園を中心として、いくつもの城壁がタマネギの断面のように取り巻いた形をしている。侵入者を容易に学園へ近づけないための構造だが、都市内の城壁・城門はせいぜい騎兵防ぎのようなもので、本格的な攻城兵器の性能を備えたシージマゴットの前には無力にひとしかった。
「氷爪撃《スクラッチャー》!!」
四本の氷槍が猛獣の爪のごとくシージマゴットに襲いかかる。
ティアが初手によく使う魔法だった。予備動作なしに放たれた氷の槍は複数の敵を別々に撃つこともできるが、今は一点に集中される。
しかし、黒光りする外殻を傷つけることすらできない。
ティアは鋭く舌打ちをする。
氷の魔法は細かい制御と射程距離においてすぐれていると一般にはされる。だが、長所があれば短所もある。動き回っている巨大な敵にはあまり有効ではないのだ。炎の魔法とはちょうど逆の関係にあるといえるかもしれない。
まずは足を止めることだ。これ以上、街を破壊されてはたまらない。
そう考えながら次の魔法に取りかかると、ティアの予想をこえてシージマゴットが遠ざかっていく。さらに加速しているのだ。挙動が先ほどまでとは違う。
どうやら、都市内の城門には芯棒をつかうまでもなく、自重の勢いだけで突破できるとみたのだろう。
それは完全に事実であった。
次の城門はあっけなく踏みつぶされる。シージマゴットの勢いはほとんど落ちていない。
「おいおい……」
ティアも懸命に追う。だが、驚くべきことに距離は縮まらない。
あの重量にしてこの速度……理不尽にもほどがある。
自分の方へむかってくるなら、いくらでも対処のしようはある。だが、全力で遠ざかる敵に有効打を与えるのは難しい。しかも、向こうはおそろしく固い外皮に覆われている。
「この地虫ふぜいが……っ!」
いくらティアが毒づいても、シージマゴットは引き返してくることはなく、人を殺すというガイヴァントの本能を忘れたかのようにただ直進する。ティアには追いかけることしかできない。
城門は次々と破られ、ついには学園前の広場が間近にせまってくる。
ティアがふたたび舌打ちをしたその時、異変が起きた。
シージマゴットの前方で、地面が唐突に盛り上がったのだ。
それが土の壁であれば、シージマゴットは何の問題もなく突き破ってみせたことだろう。
だが、それは斜面であった。
シージマゴットは勢いのままに駆け上がる。自重のせいで速度はみるみる落ちていき、やがて地面をむなしくかきむしりながらずり落ちてくる。
ほぼ同時に、残る三方にも似たような斜面が出現した。
ちょうど、すり鉢の底に閉じこめられたような形となる。
シージマゴットは斜面に向かって芯棒を打ち込むが、土が相手ではその部分がへこむだけで斜面全体へのダメージにはならない。完全に動きは封じられた。
いったい何者の仕業なのか?
ティアは視線をめぐらせる。学園前の広場には大きなハンマーのようなものを手にした少女がいた。
マルチナである。
肉の串焼きを口にくわえ、さらには左手にも同じものを持っている。
見事な肉祭である。どうやら通りの屋台を満喫していたらしい。
マルチナの方でもティアを見つけたようで、手にしたハンマーことフラベドスマッシャーをしきりと振っている。
「もが! もががが!」
「いいから! まずは飲み込め!」
マルチナはなおもジェスチャーで弁解していたが、すぐにおとなしくなる。取りあえず串焼きを食べることに専念すると決めたようだ。
シージマゴットはすり鉢の底をまだがりがりと削っている。
もはや砂をかき回す無害な存在にすぎない。
「いきなり決着がついてしまったな……」
ティアは、どっと疲れが押し寄せてくるのを感じた。
気がつけば、学園から南門、西門、そして学園と無駄に一周しただけである。
さて、これからどうしたものか。
南門に戻ってリナを手伝うか。
もしくは、北と東の城門の様子を見に行くか。二度あることは三度四度とあるかもしれない。
ティアは思案をしながらきびすを返す。
その足が止まった。
異様な音が学園都市を覆ったからだ。
上空を見あげる。
音がそこら中から聞こえてくるように思えるのは、その発信源がすぐ近くの魔法学園だからであった。
鐘の音とはまったく違う。どう表現すればいいのか難しい。巨大なラッパから出てくる野太い音といったところか。高いのか低いのか、その両方が混ざりあったような、とにかく不安をかりたてられる音がひたすら続いている。
「もふほふ?」
まだ串焼きをくわえているマルチナが首をかしげる。その動作にあわせてふわふわとした巻き毛が揺れた。
言葉になっていないが、マルチナの言いたいことはティアにも理解できた。
「いや、これはただの警報ではない……」
ティアの表情がくもる。
音の正体がわからないからではない。これが何なのか思い当たったからだ。
この不吉な音は、学園当局から発令される中でも特別な警報である。
その意味するところはもっとも深刻な緊急事態──すなわち、阻止できない敵の接近をあらわしていた。
つまり、クラス・フォートシティの来襲である。
ティアは自分が今やって来た方角に目を向けた。
シージマゴットの突進によりめちゃめちゃになった大通り。
破壊された西門。
そして、そのはるか先で地平線とまじわる落日……。
そこに何かがいた。
夕陽を背負う黒い影。距離を考えると尋常なサイズではない。
「まさか……」
ティアは息をのむ。
目視した時点で死を覚悟しなければならない存在。
視認できる範囲はすべて危険地帯にして、立入禁止区域。
魔法学園で認定された、唯一のクラス・フォートシティ。
はかり知れない強さゆえ、それは事実上のランク外を意味している。
王国の恐怖。魔法学園の絶望。
その名をオーバー・ワンという。
人智をはるかに越えた怪物がまさに魔法学園へと近づいていた。




