フレンチトースト
「うん、うまい。やっぱり、俺が作るフレンチトーストがいちばんうまい。」
何故だか今朝は、無性にフレンチトーストが食いたくなった。仕事帰り、朝のコンビニで厚切り食パンと牛乳卵、バニラエッセンスを買った。驚いたことに最近のコンビニでは、カナダ産のメープルシロップまで売っていた。流石に値は張り、少し迷ったが思い切ってカゴに入れた。『プリンパン』という名前で売ってる店もあるけど、やっぱり、僕にとってはこの思い出深いフレンチトーストという呼び名がいちばんいい。
家に帰り玄関の扉を開けると、家内はもう仕事に出掛けていたので、無人の家の中から、梅雨で部屋干ししているせいか、少しむれたような臭いがしてきた。
冷蔵庫を開けてみると、思った通り家内が買い置きしていた卵と牛乳はあつたが、一言愚痴を言われるぐらいだから、笑って聞き流そう。
タネを作り、厚切り食パンを2枚浸した。表裏、2,3回くりかえしたらバットにラップをかけ冷蔵庫にねかす。よく中が白いフレンチトーストがあるが、やっぱり中身までタネがしみ込み、絶妙な火加減で、中心がとろけるプリン状態でないと本当のフレンチトーストとは言えない。
気が付くと、狭い台所に心地よい、甘いバニラの残り香が漂っていた。バニラの香りは気持ちを落ち着かせる効果があるらしいと、テレビで観たのを思い出した。刹那、東京で一人暮らししている大学生の娘が産まれたとき、家内に「バニラ」という名前はどうかな、と聞いたら、そんなキャバ嬢みたいな名前は嫌よ。と瞬殺されたことを思い出し、久しぶりに頬を緩めた。
シャワーを浴びるともう昼ちかくになっていた。フライパンにバターを溶かしてフレンチトーストを1枚だけ焼く。もう半世紀も働き続けた胃には、2枚を消化するのは酷かもしれない。
表を焼いて、ひっくり返し少し裏を焼いたらまた表にし、温めていたオーブンに入れる。パンの真ん中を指で押し張りができたら皿にうつし、メープルシロップをかける。医者に「悪玉コレステロールが高いから卵は控えてください。」という言葉を弾き飛ばしながら口に運び、うん、ひとりで納得、自画自賛した。
いつもは、お昼の情報番組観ながらウトウトしてしまうのだが、今日は眠気が訪れないので、薄らほこりがついてるパソコンを開けてみた。
投稿動画サイト
なるほど、今はいろんなマニアの人が動画を撮って投稿し、いろんな人に観てもらい、感想をもらってる。
『車窓シリーズ』何かと話題になる撮り鉄さん達か。北海道から九州、そして海外の電車の車窓風景が投稿してある。その中に、無意識のうちに探してた。あった、僕が高校生のときに通学で乗っていた路線。
動画は上り電車。一年まえの投稿だ。カメラの位置は運転席の右斜め後ろから。始発駅から始まった。時間はホームの時計は3時ぐらいをさしてる。季節は、電車に乗る人の服装を見ると夏らしい。
ホームの発車ホーンが鳴る。昔と違い今は心地よいメロディーだ。プシュー扉が閉まり、運転席のブザーが鳴る。運転士が指さし確認してから電車が静かに動き出す。
隣りの県境に近い学校。ここでは始発駅から3駅先。川を渡る鉄橋を過ぎるとまもなくだ。何故だか気持ちもだんだん高鳴ってきた。
それと同時に忘れていた思いも・・・
生まれて初めて屈辱を味わった高校受験失敗。安全圏だと言われた、ちょっと成績のいい県立高校を落ち、私立ではいちばん授業料の安い、県を代表する底辺校に。母子家庭なんだから、高校行けるだけでもありがたいと思いなさいと言った母の言葉に、素直にありがとうの言葉もうなずくこともできなかった。
だけど、実際通ってみるとそんな奴らも多く、僕よりももっと上の高校落ちたのもいたので、どんなに勉強してもトップになることや、片手に入れることもできなかった。
何時しか、劣等感という制服が胸のポケット中に大きな夢を持たせてくれた。
車内アナウンスの声が聞こえた、まもなく通っていた駅だ。電車がホームに滑り込む。
だんだん、ホームで待っている人影が多くなる、いた、まちがいない。
今もこの駅から乗り降りする高校は、僕が通っていた高校だけだ。まえにネットで検索したときに、成績では今も底辺を温めている律儀な学校。
女子たちの笑い声など、電車内がだんだんざわついてきたのをカメラのマイクが拾う。
運転席から見える風景は、まだ田舎のせいか昔とは驚くほど変わってないが、線路をまたぐ陸橋の数はずいぶん多くなったような気がする。
だんだん、都心に近づいてくると、マンションが多くなってきて、昔は畑だったところが郊外型のお店などに変わってきていた。
もう、30年以上も経つと新しい駅も増えていた。だけど、憧れだった駅名は今も変わってなかった。
ホームの端に駅名が書かれている大きな看板が画面に見えてきた。
あの当時、県立高校ではまだ珍しかった紺色のブレザーの制服。それを着てこの駅で仲がいい友達と乗り降りして楽しい高校生活を送ることを夢みていた。だげど、現実は僕が落ち、仲がよかった友達は合格した。それ以来、その友達の姿を駅や電車内で見かけても、僕から声をかけることはなかった。
「おお、サトシじゃないか、ひさしぶり~」
「おっ、おお、あっ、久しぶりだね。どう、元気」
ずいぶん車内も混んできたのだろう、カメラまで人が近づいてきたのだろう、落ち着いていた画面が急にブレたり、カメラマンの「すみません」の掠れた声が何回か聞こえたり、はっきりとした他人の会話がカメラのマイクが拾うようになってきた。
それにしても、、サトシなんて僕と同じ名前だな。
「うん、なんとか元気だよ」
「もう3年だしさ、夏休み入ったら予備校通いで、本格的に受験勉強しなくちゃね。ねぇ、サトシはどこ受けるの」
「あはは、ノマッチ、もう今から受験勉強しなくちゃ遅いんじゃない。オレは受けるって言えば受けるけど、大学じゃないよ、調理の専門学校だよ」
嘘だろう、こんなことってあるのか・・・
「サトシ」「ノマッチ」調理の専門学校にそのサトシ君が進学しようとしている。まさに、僕と同じだ。そうそう、ノマッチ、野間君はあのとき都内にある国立大をめざしていた。
「へぇ~じゃ、サトシは板前さんになるの。すげぇじゃん」
「いや、ちがうフランス料理のコックさんになりたいんだ」
「へぇ~よけいすげぇ~じゃん。俺フランス料理なんか食ったことないから、なぁ~。サトシは食った事あんの」
「いや、ないからやってみたいんだ。一生やるつもりだから、それのほうが飽きないと思うからね」
「サトシ、なったときは食わせてくれよ」
「アハハ、もちろんいいよ」
サトシ君、僕と同じ名前のサトシ君、摩訶不思議というか奇奇妙妙というか。まったく夢をみているみたいだよ。
友達の名前、あだ名、そしてフランス料理のコックになりたいという夢。全てがこの僕と一緒だ。
サトシ君、40年以上まえに、その電車で同じような会話をしていた、おじさんの僕はね、その後、調理の専門学校に推薦で入って、都内の有名なホテルに就職するんだよ。就職してからまもなくバブル景気になって、世の中みんな狂いはじめて、僕が勤めていたホテルも海外に進出して僕もコックとして2年間海外で仕事するんだ。日本に帰ってきてから、2歳年上の社内でフロント係だった女性と結婚するんだ。そして、バブルが弾けたと同時に、僕が勤めていたホテルも海外のホテルチェーンに吸収合併されて、その後リストラ・・・それからもなんとかコックの仕事をしてたんだけど、一流のホテルに勤めていたというプライドが邪魔して、今じゃ代行のドライバーになっちゃうんだよ。
そうそう、野間君との約束は、それから2,3後のクラス会のお好み焼き屋さんで、サトシ君がお好み焼き焼いてあげただけで、今だに約束は果たせてないね。
カメラは、ずいぶん線路近くまで近寄ってきているマンションの風景を映し出していた。
そしてマイクには、サトシ君とノマッチ君の会話がはっきり聞こえていた。
「そんなことよりもさ、サトシ、ねぇ~ねぇ~」
「えっ、なに。進学の話しよりも大事な話しってあるの」
「んっ、サトシさぁ、彼女いるの」
「えっ、うそっ、マジッ、ノマッチ彼女できたの」
「うん、まぁ~ね」
「同じ学校の子、どんな感じの子」
「サトシに後で写真みせてあげるよ」
「ぜったいだぞ、絶対見せてくれよ」
サトシ君、そのあと、風のうわさで聞いた話では、野間君は希望していた大学を卒業してから、自動車販売会社に就職して、営業をやってるみたいだよ。それから何十年もたってるけど、今はなにしてるかまったくわからないな。
「なぁ、サトシ。高校は一緒になれなかったから残念だったけど、もしかしたら、大学は一緒かなと思ってたんだ。サトシ、現国の先生が言ってたけど『一寸先は闇』って言うことわざがあるじゃん、あれね、一寸先は闇でなにも見えないけど、その闇の中にはとんでもない宝物が落ちてるかもしれないっていう意味もあるんだって」
「へぇ~いい言葉だね。なぁ~ノマッチ、俺達の宝物ってなんだろうな。やっぱり、お金かな・・・」
「なんだろうなぁ~わからないなぁ・・・でも、お金が宝物になる人生もつまらないな・・・自分の命よりも大切なものが、人生の宝物かな」
「さすがに、モテるノマッチはいいこと言うね」
実はね、サトシ君。僕の父親はね、たぶん、僕が幼稚園に入る前だと思うんだけど、母と一人息子の僕を捨てて家を出ていったんだよ。だから、サトシ君の歳ぐらいのときは、家族といくものを自分が持てる自信がなかったから、一生結婚しないつもりでいたんだよ。だけど大丈夫だ。いろいろあるけど結婚はできる。おまけに、突然変異か、けっこうアイドル系の可愛い、だけど気が強いひとり娘を持てることができる。
「おとうさん・・・ねっ・・・おとうさんたらっ」
「うん、・・・ああ~・・・」
「なに、パソコン観ながらなに寝てんの、っていうか・・・なんかお父さん寝言言ってたよ」
「ああ、夢か・・・夢みてたのか・・・あっ、彩、お帰り。なんだ、帰ってくるならまえもって電話すればよかったのに。駅からバスで帰ってきたの」
先日、家内から、娘が夏休みで帰ってくると言われていたことを思い出した。
「ごめん、ごめん。ちょうど駅で美奈と会って、そこまで乗っけてきてもらっちゃった」
「あっそうだっ、彩、フレンチトースト食べないか」
「えっ、うそっ、マジッ、食べる、食べる。久しぶりじゃん、お父さんがフレンチトースト作ってくれるなんて」
「なんか、超ヤバイ、マジヤバイっくらい美味しい」
もうすぐ就活がはじまるんだから、ちゃんとした日本語を話したほうがいいぞ。とテレビを観ながら喜んで食べている娘に話しかけようとしたら、家内からの携帯専用の呼び出し音が鳴った。
「ごめん、寝てた」
「いや、寝てないよ、なに、どうした」
「あのね、あたしが勤めてる塾の隣りに喫茶店『スワン』があるでしょう。そうそう、あの老夫婦がやってるところ。さっき、休憩時間にコーヒー飲みに行ったら、マスターがね、もう、二人とも歳だから、この秋ぐらいに店を閉めようと思ってるんだって。だけど、長年やっていた店を閉めて取り壊しとかになると淋しいから、喫茶店じゃなくてもいいから誰かに店を譲りたいんだって。できれば、どこのだれか知らない人に譲りたくないから、知ってる人に譲りたいんだって・・・」
「いや、急に言われても、喫茶店やりたい人なんて知らないしな・・・」
「なに言ってるの、あなたがやればいいじゃない。ほんとうは料理がやりたくって、うずうずしてるんでしょう。お店も20席ぐらいだから、ちょうどいい広さだと思うのよね。もう彩も今まで以上にお金もかからなくなるし、最悪の場合は、安いけど私の給料で二人ならなんとかやっていけるわよ、ねっ、だから考えといて・・・」
「あっ、いや、でも・・・うん、わかった・・・」
まったく、夢にも思わなかった話が飛び込んできて、まともに返事なんかできなかった。
たぶん気の早い妻は、もう、マスターにうちの人がやるかもしれませんぐらいは言ってるかもしれない。
フランスでは、銀行を定年退職してからシェフになり星を取った人もいる。
そうだ、人生なんてまだまだこれからだ。花なんかなんども咲かせてやる。急に、心の中にくすぶっていた霧闇が晴れたような気がした。
気がつくと、いつも友達から羨ましがられているという、ビューラーのいらない彩の瞳が、頬をふくらませながらこちらを見ていた。
「どしたのお父さん、目、真っ赤だよ。ねっ、さっきお母さんからの電話でしょ。お母さんになんか言われたの、もしかして、離婚してって。お母さん、好きな人できたって・・・ねっ・・・」
まったく、女性週刊誌の中身みたいなことを言ってくる娘の言葉に、鼻をかみながら無視していた。
その娘がかけっぱなしで誰も観てなかったテレビから
『今日昼過ぎ、釣りに来ていた野間 博(50)は川で溺れてた4歳の子供を助けに川に飛び込みましたが、子供は無事野間さんによって助けられましたが、残念ながら野間さんは死亡しました。詳しいところは今のところわかっていません』
僕は野間君の死を、かなり後から知ることになった。