8.哀訴
難しい。
回復薬、回復薬、回復薬。ポーチの形を取っているストレージの中のアイテムリストを表示すると、上から下までずらりと回復薬が並んでいる。申し訳程度の毒消し薬と食糧のほかは、ストレージの中はほとんど店で買った回復薬で埋まっていた。ヨハンいわく、今は戦闘不能が一番怖い。それもそのはず、戦闘不能になってしまえば二度とゲームにログインできない、どころか現実に戻ることができるかどうかさえわからないのだ。NPCの店で買える回復薬はグレードの最も低いものだけれど、それでもこれだけ買い込めば、これからの旅程でも、よほどのことがない限り死ぬことはないだろう。
「ありがとうございました」
笑顔で送る店主にそう声をかけて店を出ると、村落は既に夕暮れの淡い橙色の光に包まれていた。
鮮やかに茜色に染まる空と、水平に細長く伸びる筋雲に、深く陰影に沈んだ家々。僕は足を止めて、ぼんやりと夕暮れ時の景色を眺める。窓からは暖かな明かりが漏れ出し、NPCである村人や初期装備のプレイヤーたちが、舗装のされていない道をぱらぱらと行き交っている。
――家々の合間を吹き抜ける風の匂い、土埃の匂い、青草の匂い。
この世界には、匂いがある。高精細、高解像度な視覚情報だけではない、まるでシミュレーションとは思えない、様々な匂いがある。音もある、触覚、――そして、果ては味覚まであるのだった。僕は、昼間に飲んだリタから渡された水を思い出す。
現実だ、と思う。まるで現実のようだ。むしろ、この世界が現実でないことを証明することはできないとさえ思う。
僕は力なく頭を振って歩き出した。道行く人々のほとんどはプレイヤーで、今しがた村落に到着した風体の者、パーティーでの狩りの帰りといった風体の者など、皆さまざまな表情を浮かべながら帰路についている。連れ合いと楽しげに言葉を交わすプレイヤーも見受けられるけれど、今はやはりどことなく不安げな表情が多い。
この世界は現実だ、僕はそう信じそうになる自分に辟易する。冷静になれば、そうでない、そんなことはありえないのだとわかる。ジェスチャをすればメニューが開くし、ステータス画面だってある、環境情報タブを開けば同時接続人数やサーバーの状態だって知ることができる。それはこの世界がいまだにゲームである、VRによるシミュレーションである紛れもない証拠だし、たとえばもしこの世界が僕らがいた現実とは異なる世界なのだとして、僕のデスクトップPCと、VRデバイスと、脳内インプラントと。たったこれだけの機器で、一体どうして僕らをシミュレーションではない新しい現実に飛ばすことができる?
頭の中でぐるぐると思考がめぐり、僕の歩調が知らぬ間に早足になっていく。理性ではこの世界がゲームであると確信してはいる。僕や、他のプレイヤーの所持する環境、LROの動作するサーバー環境などを鑑みても、どう考えても今の技術で人間を違う世界へ飛ばすことなどできはしない。現実はライトノベルではないのだ。ゲームはゲームであり、現実ではない。それは間違いのないことだ。
間違いのないことのはずなのだった。けれど、僕はもう、どうしてもこの世界が単なるゲームであると信じられなくなっていた。
夕焼けに染まった赤い空を、数羽の鳥が渡っていく。僕は溜め息をつく。
……排泄行為があるのだ。
食欲、尿意、睡眠欲などの生理的欲求、実際に食物を摂取するという行為、そして排泄行為が存在した。僕はリタから渡された水を飲み、ヨハンいわく、彼も昨日時点で既に宿屋で食事を行っていた。そして、ヨハンと情報の共有をした数時間後に、僕は尿意に襲われたのだった。
デバイスからの警告はなかった。インプラントとのリンクが切れている以上、それはある種当然のことでもあったし、用を済ませた後、僕はそれからほどなく猛烈な空腹を感じ、リタに食事までも振る舞って貰ったのだった。
この世界はゲームであって、現実ではない。そう一口に言うことは簡単だけれど、その一言で済まされない事実さえ、既に起こっているのだった。現実と相違ないほどの超高精細な五感、僕らプレイヤー一人ひとりの生理的欲求だったり、これらの精密なシミュレーションには、一体どれほどの規模のサーバー環境が必要なのだ……?
僕は堂々巡りしそうになっている思考を無理矢理中断し、溜息をついた。腰に差したブロンズソードを握り締め、そう、これから先に進むには、耐久度の残りわずかなこの剣も買い替えなければならないし、新しくパーティーも組まなければならない。実際にはもっと差し迫った問題があることに思い至る。
要は、この世界が現実か、そうでないかなど、今考えても仕方のないことなのだ。考えたとて、そして万一正しい結論を導き出せたとして、確かめようがない。考えるべきことは他にも山積みなのだし、そういう意味で、僕はこの問題からしばらく目を背け続けることができる。
ここに残る、そう告げたヨハンの表情を、僕は思い起こす。
ここ――すなわちカミルの村落に残る、ヨハンは僕にそう告げたのだった。彼は片腕片足を失くしていたし、彼がそう言わずとも、そういうことになってしまうことは既に自明だった。僕は先に進み、彼はカミルに残る、そうするしかないことは誰の目にも明らかだろう。すなわち、自明の意図をくみ取れば、彼とのパーティーはここで解散となる。
ここに残る、そう告げた時のヨハンの表情が、まだ僕の目に焼き付いて離れない。
*
「……僕はここに残る。しばらくここで薬師のスキル上げをして、……それから折を見てエマに戻ることにするよ」
食事を終えてから彼を部屋まで送り、僕が椅子に腰かけると、それまで無言だったヨハンは僕にそう告げた。普段通りの口調ではあったけれど、かすかに苦しさをたたえた表情でヨハンの放ったその言葉は、静かな室内の空気によく響いた。
「薬師、……」
僕がそう反芻すると、「……そうだ」ヨハンはそういってベッド脇の机に置かれた本【薬学入門】を手に取る。僕が本を眺めていると、ヨハンは「リタのお父さんがもともと薬師を志していたらしいんだ」と付け足した。
「昨日のことだけれど、リタさんから借りたこの本を読んだら、サブスキル【薬師】がアンロックされたんだ。このスキルを上げて行けば、もしかすると【部位欠損】を治すことができる状態治療薬を生成できるかもしれない」
君も読んでみるかい、とヨハンは本をこちらに差し出した。受け取ってぱらぱらとページをめくると、ほどなく『サブスキル【薬師】がアンロックされました』というメッセージがポップアップする。メニューからスキルの詳細情報を開くと、どうやら薬師は薬草やエネミーの素材から回復薬などのアイテムを生成することのできるスキルらしい。
「ともかく、手足がこうなってしまった以上」ヨハンは自分の右腕を示して力なく肩をすくめる。「もうゲームを進めることはできない。僕はこれから、この手足を治療することを目標として動くことにする」
「……まずは情報が必要、か」僕の相槌に、ヨハンはこくりと頷く。
「この村には、エマへ向かうNPCの行商の一行が定期的に訪れるらしい。ひとまずここで薬師のスキル上げをして、次に彼らがこの村へ訪れた時に、僕はエマへ同行させてもらうつもりだ」
エマでなら、ここに滞在するよりも多くの情報が手に入る、僕の言葉に、ヨハンは、ああ、と同意を示す。「それに、もしかすると、彼らならこのバッドステータスを治療する方法の知識を持っていることもありうる」
僕が本をヨハンに返すと、ヨハンはそれを再び机の上に置く。
ヨハンはそれから少し考え込むような間を開けた後、「カヅミ君、……頼みがあるんだ」と呟いた。
*
村落の南方へ、僕はやがて、宿へ向かうプレイヤーの群れへと加わった。さすがに三日目とあって、エマから村落へ到達したプレイヤーもそれなりに増えたようで、周囲では賑やかにプレイヤーが往来している。僕のように一人で道を歩いている者は少なく、多くは二人組以上で楽しげに談笑しながら歩いている。
僕らが得るはずだったアドバンテージは消えた。あれから僕が一日寝ていたせいで、カミルの村落周辺の狩場では、既に多くのプレイヤーがレベル上げに精を出している。僕は行き交うプレイヤーたちから無意識に目を逸らし、足元へ視線を落とす。どうしようもない無力感が僕を包んだ。
アドバンテージだと? それどころか、ヨハンは片腕、片足を失ってしまったというのに。
単に運が悪かったのだ、そう考えることもでき、そしてたぶんそれが正解なのだ。こうして優位性を得ることを目指して、しかし運悪く計画はお釈迦になり、ヨハンは手足を失ってしまった。そう、単に運が悪く、あの闇色の獣に遭遇してしまったことが一連の理不尽の原因であって、そこには僕やヨハンの意思など介在しない。僕らは合理的に考え、最善を目指して行動し、その結果、結局なるべくしてこうなったのだと、そう納得することもできる。
誰のせいでもなく、ただ運が悪かっただけなのだ。
往来の中、僕は我知らず溜め息をついていた。不運だった、そう幾度結論付けたか知れないけれど、僕はそのことにひどい後味の悪さを感じていた。割り切れない思い。何が割り切れないのか、正直なところ、自分でもよくわからない。けれど、どうしてヨハンが手足を失う必要があったのか。――そしてなぜそれが僕でなくヨハンなのか。腑に落ちない。なぜ僕ではなく彼が負傷負い、なぜ僕が五体満足なのか。
――なぜ僕なのか。
それは単に運の問題なのだ。誰のせいでもなく、僕の意思は介在せず、もちろんヨハンのせいでもない。再び思考が堂々巡りを始め、考えたところでどうしようもないことだと知りつつも、しかしこうしてひとりで歩いていると、おのずと思考は悪い方へ、悪い方へと流れていく。
――お前は結局、なにひとつ真面目にすることなどできはしないのだ。
いつからか、心の中で誰かが囁いている。
*
「カヅミ君、頼みがあるんだ」
「頼み……?」
しばらく考え込むような間を開けた後、静かに切り出したヨハンに、僕はそう反芻することで返す。ヨハンは「あぁ」と答え、それから慎重に言葉を選ぶように続けた。
「さっき伝えたように、僕はここに残って薬師のスキル上げをしながら、【部位欠損】を治療できる治療薬の生成法を探す。しかし……」
ヨハンは言葉を切り、視線を窓の外に向ける。日が暮れてからもうずいぶんと経って、外には既にしっとりとした夜半の闇が広がり、ぽつぽつと橙色の灯りがまばらに家々の窓から漏れている。
「しかし、この村で【部位欠損】が治療できないことを鑑みるに、もし治療薬が存在するにしても、おそらくここ近辺で採集できる素材からは作れない可能性が高いだろう……」
「…………」
ヨハンの言は、さきほど彼から治療法を探すと告げられた際に、僕も同様のことを考えていたから、驚くものではなかった。自然治癒せず、村の施設でも治療できないバッドステータス、となれば誰でもそう考えるだろう。【部位欠損】はおそらく【毒】や【スタン】など、ゲームとなればすぐに思いつくようなバッドステータスに比べても、おそらく“高級”なのだ。とすれば、最初の街であるエマや、そこにほど近いようなこのカミルの村落にしても、その周辺で採集することができる程度の素材で治療薬を作ることは難しいと考えるほうが妥当だろう。僕はそう思考を巡らしつつ、こちらに視線を戻したヨハンに対して頷きを返す。
彼はふっと物憂げに微笑んだ。それから手元に目を落とし、左の手のひらを握りしめる。
「……ついでで構わない」
絞り出すような声。僕は息を詰める。
「攻略がてらで構わない。……手がかりが欲しい。なんでもいい。些細なことでも。できれば……」
彼は言葉を切る。切ったのではなく、途切れたのだと気づく。
「できれば、僕は……僕は……」
言葉は途切れ途切れに、小さくなっていく。開け放たれた窓からは、ぬるい夜の空気が流れ込んでくる。
「僕は……どうして……」
どうして、こんなことに……。
あるいは、どうして、僕が。
そう続くであろう言葉を、おそらくヨハンは凄まじい精神力をもって食い止める。後にはただ沈黙が続くのみ。雫が彼の膝にかかる布団の上にぽたりと垂れ、握りすぎて白くなった拳を解いて、無言で彼はそれを親指で拭った。鼻をすする音。そしてしばらく続いた静寂ののち、やがて彼は「……すまない」とだけ呟き、俯いたまま再び口を開く。
「……僕を助けてくれた君に……さらに重ねて頼むのは、正直なところ心苦しい」
手元を睨みつけたまま、そう続けるヨハンの表情は、僕からは伺えない。けれど、鼻がかった彼の声からは、紛れもない悔しさがにじんでいる。
「だからついでで構わない。君は君の攻略を優先してほしい。どうか気負わないでほしい」
一息に告げた後、彼は言葉を切り、呼吸をついた。
「だから……」
左手を再び握り、俯いたまま肩口で目尻を拭って、ヨハンはついに顔をこちらへ向ける。
「だから、どうか手を貸して貰えないだろうか」
彼の眼には、決意が宿っていた。
*
なぜ彼なのか。ヨハンは続きを口に出すことはしなかったけれど、僕は彼の心境が痛いほど判った。いや、わかっていないのかもしれない。当事者ではないから。しかし、ログイン初日における言動と、昨晩の彼の哀訴を鑑みるに、彼のゲームに対する情熱は相当のもので、それだけに、念願だったVRMMOを、手足が不自由なために遊ぶことができないという境遇は、彼にとってどれだけの苦痛なのか。
だから、そう、僕は考えてしまう。
――理由のない理不尽に遭遇し、そして手足を奪われるべきだったのは、むしろ僕の方だったのではないのだろうか……。
ヨハンが僕に感謝している。それは世辞ではなく、彼は本当に心から感謝してくれているのだった。彼は心から僕に感謝してくれており、何よりその事実が最も僕を苛んでいる。
僕は彼を救ってなどはいない。あのとき、あの【災厄の獣ロア:リーガル】は、どうしてか僕にとどめを刺すことはしなかった。僕らは単に見逃されただけにすぎず、確かに僕は彼を背負って走りはしたけれど、そのことが直接僕らの生死に関わったわけではない。そのことに関して彼は勘違いをしており、本当なら僕は彼から恨まれこそすれ、彼から感謝をされる立場にはない。
やがて見えてきた宿は、日も暮れて藍色に染まった空を背景に、暖かく浮かび上がっている。僕は歩調を速め、足早に宿の戸へと向かう。
僕はこれから、さらに北西へと進み、【第四王立都市ヘレナ】へと向かう。本来ならば、始まりの街のひとつであった街ではあるけれど、不具合によりプレイヤーの全員がエマへと集められた現在は、ヘレナは多くのプレイヤーの次の目的地となっている。僕も彼らに倣ってヘレナへと向かい、そしてヨハンの四肢を治療する手がかりを探すのだ。
僕は思い馳せる。
正美、そしてヨハン。
本当に真面目な者こそ報われるべきだ。そう思うから。
だからこそ僕は、立ち止まることは許されない。許されなくなってしまった。