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7.安息

 白い光が周囲に満ちていた。

 白くて暖かな輝きが僕の周囲に満ち、重力の定かではない空間の中で、僕はただ力なくゆらゆらと揺蕩っていた。

 ――夢だ。

 夢を見ている。

 ふいにそんな確信がよぎって、僕はぼんやりと薄く開いていたまぶたに力を込め、まばたきをする。このまぶたさえ実際の体のものなのか、それともまぶたを動かしていると僕がそう思っているだけで、これも夢の続きなのか判然としないけれど、夢を見ている……そのことに気づいたからといってどうなのだろう、ひどくのろのろとした思考の隅で、僕はそんなふうに諦観する。

 柔らかい輝きが周囲を満たしている。しばらくとりとめもない思考に浸っていると、にわかにどこからか暗闇が押し寄せて、視界を覆い尽くした。

 何も見えなくなる。

 そうして気が付くと、僕はいつしか都立高の教室にいた。誰もいない教室はしんと静まり返り、僕は肩に学生鞄を提げて手持無沙汰に佇んでいるのだった。しばらく立ち尽くして、僕は今、誰かを待っているのだということに気が付く。

 ひどく耳鳴りがしている。

 誰を待っているのだろう。靄がかかったような頭でぼんやりとそう思い、それからふと、友人の顔が脳裏をよぎる。正美、苦心してその友人の名前を思い出し、……彼と話したのがもうずいぶんと昔のことような気もする。脳裏に映し出されたその友人は何事かをぼそぼそと呟いて、そらからふいとこちらに背を向ける。

 きん、と鼓膜を刺すように、耳鳴りが一層激しくなり、僕は彼が何を言ったのか聞き取ることができなかった。いつの間にか周囲は再び真っ白な光に包まれ、去っていく友人の姿を見送りながら、けれど僕は彼に何か声を掛けなければならないような切迫した感覚に襲われていた。

 彼の姿が遠ざかっていき、やがて白い世界のなかで小さな色染みになって消え去る頃には、いつしか僕の意識も霞に包まれたように混濁して、再び深い眠りの淵へ沈み込んでいた。


 頬に柔らかな風が当たって、意識が浮上する。

 温かく乾いた風。目を閉じて横たわったまましばらく浅い呼吸を繰り返すと、頬に当たる風の中にかすかに草木と土の匂いが混じっていることに気が付く。

 体は脱力しきっており、わずかに指先を動かすことさえ億劫に感じる。ゆっくりとまぶたを持ち上げると、まぶたの裏の暗さに慣れた目に鋭い陽光が突き刺さった。

 明るさに目を慣らしてから周囲の様子を伺うと、板張りの天井、窓から陽光が差す質素な室内が目に入った。どうやらどこかの宿の一室らしい、体を動かそうとすると、「っ……」四肢に鈍く痛みが走る。怪我による痛みではなく、おそらく過度の疲労によるものだろう。耐えられないほどのものではない。

 生きている。

 僕は上体を起こして一息ついた。壁際に設えられたベッドの上で、僕はしばらくそのままの姿勢でぼんやりと窓の外へ視線を投げる。四角く切り取られた窓の向こうには雲一つない澄み切った晴天が広がり、手前には木造の家々が、エマよりもずっと互いにゆとりを持って立ち並んでいる。

 ――【カミルの村落】、視界の隅にはそう表示されており、メニューからマップを呼び出すと、どうやらここは、村落の南側にある宿屋の一室らしいことがわかった。家々の先へ目をやると、エマで見た時よりもやや遠目ではあるが、平地を取り囲む切り立った崖状の山脈が一望でき、そしてあの巨大なモノリス状の構造物が目に入った。

 周囲から比べても圧倒的な存在感のモノリスは、山脈の頂上から遙か遠くの大気に霞んでそびえたち、漆黒の表面に、いまは東側からの太陽の光をわずかに照り返していた。薄く雲のかかる中腹付近から、僕は視線を徐々に上に滑らせていき、……そして、これはモノリスではない、と気づいた。

 あれは単なるモノリスではない。遙か高く筋雲のまとわりつく先の、ほぼ宇宙に近いだろう濃紺の空の中に、その頂上部分が見えた。真っ黒なそれ自体ももはや周囲の濃紺とほとんど同化してはっきりとはしないけれど、僕はそこに柄らしいものを認めた。柄と、薄い板状の構造物、つまりあのモノリスは――大地に突き刺さった巨大な剣。

 その異様なまでの巨大さに、僕は我知らず身震いしていた。武器なのか、それともあれ自体がいまや何らかの構造物と化しているのかもしれない。遠目に見える巨大な剣に視界をフォーカスしようと試みるけれど、どうやら距離がありすぎるようで、具体的な情報の表示はされなかった。

「あら? 目が覚めたのね」

 不意に声がかかって、僕は驚いてびくりと身をすくめる。窓とは逆、声のした扉の方へ目を向けると、片手で扉を開きながら、村娘風の格好にエプロンをした小柄な女性がこちらを伺っている。

 ふわりとゆるく波打った栗色の髪に、僕ら日本人とは異なる掘りの深い顔立ち。「ちょっと待っててね」声の主と思われるその女性は微笑むと、扉を閉めて廊下を去っていった。しばらくぼんやり待っていると再び近づいてくる足音がして、扉が開く。

「入るわね」

 女性はそれだけ言って僕の答えを待たずに室内へと上り込むと、ベッドの脇の机の上に水差しと椀を載せた盆を置いた。僕の訝しげな視線を意に介さず、それから横にあった椅子を引いて座り、水差しから椀へ水を注いでこちらへ差し出す。「水、……飲むでしょ? ええと」

「……カヅミ、です」

 しばらく間を開けて、名前を訊かれているのだと思い至ってそう応える。もしかすると、この女性もNPC、なのだろうか。話をすることのできる対象であることを示すカーソルが表示されているけれど、プレイヤーであるようには見えない。かといって、機械によるシミュレーションであるようにも思えないほど振る舞いが自然だけれど、――僕はそこで、エマで会った男性NPCのことに思い至った。

 椀を受け取って口を付けると、ひんやりとした水が僕の唇に触れた。普段飲んでいる水道水と違い、カルキ臭のない、澄んだ水。口に含むと、自分がずいぶんと喉が渇いていたのだということを自覚した。僕は椀に注がれた水をほとんど一息に飲み干して、それから息を吐き、椀を女性に返す。

「ありがとうございます、あー……」

「リタ。気分はどう?」

 リタは椀を机に置き、人のよさそうな微笑を浮かべて訊ねる。「特に……あ、少し頭が痛いです」僕がそう答えると、「うん、よかった。頭が痛いのは寝すぎ、かもね」リタはそう応じて首をかしげた。

 寝すぎ……「あの、僕、どれくらい寝ていたんですか」と僕はそう訊ねる。訊ねてから、そうだ、そもそも僕は【眠れる森】で意識を失ったはずだ……、そう気づいて「僕はどうしてここに……」思わずそう疑問が口をついて出る。

 リタは少し考え込むそぶりを見せた後、「ほぼ丸一日、かしら」と答えた。

「丸一日……」僕は茫然としてリタを見つめる。言葉を失くしてしばらく口を無為に開閉させた後、「そんなに……眠ってたんですか」我知らずかすれた声でそう絞り出す。

「ええ……」リタは腕を組んで椅子に深くもたれかかる。

「私のお父さんがね、うちの店主なんだけど、森のはずれで倒れてるあなたたちを見つけてここに連れてきたの。それが昨日の朝のことで……」

 ゲーム内時間表示を見ると、今は午前の十時を少し回ったほどの時間だった。「お連れの方はその日のうちに目が覚めたけれど、あなたはそれから今までずっと眠ってた、だから丸一日ね」

 ちなみに連れの方は隣の部屋にいるわ、詳しいいきさつは彼から聞いてね、リタはそれだけ言って椅子から立ち上がった。水差しと椀を載せていた盆を机から取り上げ、「じゃ、私は下のロビーにいるから」僕がぼんやりとうなずくと、背を向けて部屋を後にする。連れ、とはヨハンのことだろう、再び静かになった部屋の中で、僕はようやく彼のことに思い至る。ヨハンも助かったのか、僕は安堵するとともに、眠っている間に丸一日経ってしまった、ということの実感がようやっと到来して頭を抱える。

 ……彼と話さなければならない。


「……君か」

 僕が隣の部屋を訪れると、ベッドの上で、どうやら本を読んでいたらしいヨハンが顔を上げてそう挨拶をする。読みかけの分厚い本をぱたりと閉じ、彼はベッドの脇の椅子を左手で示した。右腕は……ない。貸してもらったのだろう衣服の上からでも、袖がぺたりと平らに垂れ下がっており、あの時吹き飛ばされた右腕がいまだ治癒していないことがはっきりとわかる。毛布の上からでは判別しづらいけれど、おそらく左足も同様だろう。

 僕が椅子に掛けると、気まずい沈黙が降りる。「あー……」間を取り繕うようにそう声を出すけれど、うまく言葉が続かない。部屋に入ったとき、真っ先に彼の右腕に視線をやったことが、たぶん彼にも気づかれていて、そしてそのために僕は彼に対して変に居心地の悪さを感じていた。

「……君が正しかった」

 しばらく続いた沈黙ののち、やがてヨハンがそう切り出した。「……?」話が見えず僕が答えあぐねていると、ヨハンはさらに続けた。

「一万人だ」ヨハンはそれからふぅと息をついた。「一万人、減った」

「な、何が……?」減った? 一万人……?

「見てくれ」ヨハンは左手で中空を操作して、可視化した窓をこちらに投げる。受け取って視線を落とすと、ウィンドウの中央に数字が表示されている。オンラインユーザー数――現在ゲームにログインしているユーザーの数。

「二万……八千」

 以前目にしたときは四万近くあった数字が、確かに減っている。僕が戸惑うまま、表示されている数字を読み上げると、ヨハンは真剣な顔で頷いた。

「おそらく、運営からの指示を無視してログアウトしたのだろう。……一昨日、昨日のうちにかなり減った」

「ログアウト……」僕はうわごとのようにヨハンの言葉を繰り返して、それから脳裏がにわかに冴えていくのを感じた。「そうだ、あれから運営から何か連絡はあったのか?」僕が訊ねると、ヨハンは僕の問いを予想していたように、「ない」と即答する。

「運営からの告知は、一昨日の昼に、エマで聞いたあの一度きりだ。あれ以降運営からは音沙汰はない」

 僕が絶句していると、ヨハンは窓の外に視線を移して続ける。「おそらくログアウトしたプレイヤーも、運営から一切連絡のないこの状況にしびれを切らしたのだろう、……当然だよね。全員が全員ニートであるならともかく、今日にだって仕事のある者も少なくない。むしろよくこれだけの人数が残ったものだ」

 二万八千、当初の人数と比べるとかなり減ったけれど、まだこれだけのプレイヤーが残っている。……いわゆる赤信号皆で渡れば怖くない、だ。誰かが先陣を切ってログアウトをすれば、不安を抱いている集団のプレイヤーが、それこそ雪崩のようにログアウトしだすことは想像に難くない。そう考えると、三日目にして未だに半数以上のプレイヤーが残っているということは、――むしろ僥倖と言えるのだろうか?

 僕は環境情報タブから体のモニタリング情報を開こうと試みるけれど、案の定、エラー音とともに脳とのリンクが切れています、という表示がされるのみ。現実の時間の表示も停止したまま、なにもかもが一昨日のままだ。

 僕は考える。もし……もし、本当に僕らの自我と肉体とのリンクが切れているのだとしたら。三日目にして一万人のログアウト、導き出される最悪の帰結に、僕は背筋が凍りつくのを感じる。

 今は考えるべきではない、――いや、考えたくない。

「……カヅミ君、もう一つ」それからたっぷりの沈黙ののち、ヨハンがぽつりと口を開く。「もう一つあるんだ」彼の言葉に、僕は思考を中断して顔を上げる。

「昨日、僕はこの村の酒場で情報を集めていた。昨日のうちにはもう、この村にたどり着いているプレイヤーも少なくなかったんだが、……気になる話を聞いた」ヨハンはそこで言葉を切る。

「気になる……話」僕が続けると、ヨハンは頷いて、「戦闘不能についてだ」と答える。

「この村に来るまでに、何人かのプレイヤーが戦闘不能になったらしい。僕が話を聞いたいくつかのパーティーのうち一人、他にもカミルとは別の方面へ発ったプレイヤーで、少なくとも数人が戦闘不能になったという話を聞いた」

 ヨハンは手元の本の表紙を撫でながら、どう続けるべきか言葉を迷っているようだった。【薬学入門】、しばらく彼は手持無沙汰に本をいじりながら無言を続けたのち、「彼らがいうには」と再び口を開く。

「戦闘不能になったメンバーが復活しない、らしい」

「復活……しない?」僕が思わず聞き返すと、ヨハンは「ああ」と頷く。

「それどころか、戦闘不能になった直後、そのメンバーの名前がフレンドリストからも消えていたという。後からわかったことなのだが、ログアウトしたプレイヤーも同様に、フレンドリスト、プレイヤーリストから消えたそうだ」ヨハンは腕を組む。「また、ログアウトしたプレイヤーが再びログインしてきたという話も今のところ聞かない……。つまり――」

「戦闘不能はログアウトと同義、ってことか」

 僕がそう引き継ぐと、ヨハンは「そう考えられる」と答える。

「……なんてこった」僕は椅子に深くもたれて天井を見上げる。ログアウト処理に関する不具合のさなか、一万人を超えるプレイヤーがログアウトした。いや、戦闘不能がログアウトと同義なら、この一万人のうちの何割かは戦闘不能で消えた人数なのだろう。いずれにせよ、戦闘不能、ログアウト、このうちのいずれかで、二度とゲームに復帰できなくなってしまうのだ、それどころか、――今や本当に現実へ戻れるのかさえ分からない。僕は途方に暮れる。

「ログアウトできない、戦闘不能になることも許されない。……ふふっ」ヨハンは自嘲気味に笑う。「これじゃ全くデスゲームと変わりないな」

 デスゲーム。ゲームの中で死ぬことが、すなわち現実世界での死、今の状況は、確かにあまりに有名なそれと酷似していた。いや、酷似、どころではない。これはまさしくデスゲームだ。そう気づいて、僕は小さく身震いをする。

「なぁ、そういうことなんだ。……君が正しかったんだ」ヨハンは諦観したような微笑を浮かべてそう言った。

「カヅミ君、君が気に病むことはないんだ。だから、僕の手足がなくなったことについて、君が責任を感じることはない。むしろ、僕は君に命を救われた……」

 そこで、僕はようやく、ヨハンが僕の事を慰めてくれているのだということに気が付いた。【部位欠損:右腕部】【部位欠損:左脚部】――右腕、左足を失ってなお、彼は僕の事を気遣っているのだ。【カースド】【出血】は治癒している、すなわち、この村にはバッドステータス【部位欠損】を治療することのできる設備ないしアイテムは存在しない、ということなのだ。――手足を奪われて、まともにこのゲームを遊ぶことなどできはしない。

 彼に気遣われている。ひどく婉曲な口上を経て、僕はそのことにようやっと気が付き、そしてそのことが僕をますます惨めにさせる。

 一番つらいのは、おそらくヨハン自身なのに。

「――カヅミ君、ありがとう。僕を見捨てないでくれて。君は僕の恩人だ」

 そして全く善意の眼差しでそう言って、ヨハンは深々と頭を下げる。僕はひどく居心地の悪い気分になって、「やめてくれ……やめて」どうにもたまらなくなって、彼から目を逸らした。

「ヨハン……どうしようもないのか」目を伏せながらそう訊ねると、ヨハンは沈んだ声で「……あぁ」と答えた。

「クローズドベータテストの頃には、欠損部位を修復する魔術やアイテムは存在していなかった……というより、部位欠損というステータス異常が存在しなかったんだ。もし四肢を切断するような攻撃を受けても、ヒットエフェクトが出てHPが減少する以外には何も起こらなかった。だから、僕にはこのステータス異常に関する知識はない」ヨハンは息をついて続ける。「リタさんや村の人々にも訊ねて回ったが、いずれにしても今この村で治療を行うことは無理みたいだね」

「そうか……」

 ヨハンはこれからどうするのだろうか。おそらくもう戦闘もままならず、この村から出ることすらかなわないだろう。僕が沈黙していると、「まぁ片腕が残っていてよかった。杖を突いて歩くことができるからね」とヨハンが明るい調子で冗談めかして言う。

「そう……だな」

 返す言葉を探すけれど、結局僕はそれだけしか言うことができない。

 窓からの日差しがいくばくか傾いできて、宿の室内を照らす。僕らの懸念をよそに、よく晴れた空は相変わらず青く澄み渡り、僕はそれをしばらく無言で眺めていた。


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