6.絶望
ちょっと短いですが(´・ω・`)
ヨハンの肩口から勢いよく噴き出した鮮血が、降りしきる雨滴と混じりあいながら地面に滴っている。頭上のプレイヤーカーソルから放たれる淡い光に照らされながら、ほとんど雨だか血だか判然としない液体がしどどに流れ落ちて腐葉土に染み込み、ヨハンは数歩よろよろと後ずさった後、背後に倒れ込むように尻もちをついた。
「あっ……?」
間の抜けた声を漏らし、彼はそれからのろのろと自分の肩に視線を向ける。
「――ひっ」
短く息を飲む音ののちに、ヨハンはしばらく目を見開いて、右腕があるはずだった場所を凝視していた。それまで唖然とした表情だった顔が徐々に歪み「……っぁぁあああぁ!?」食いしばった歯の隙間から堰を切ったように長い絶叫が迸る。豪雨を裂くようなすさまじい叫び声に、茫然とたたずんでいた僕はそれからようやく我に返って「ヨハン!!」と叫んだ。
――ばひゅん。
僕が駆け寄ろうとした刹那、なにかが弾けるような大きな音がヨハンの背後の森から聞こえた。「っ!?」僕が反射的に身をすくめると、「うぎゃっ」次いでヨハンのくぐもったうめき声が響く。
雨に混じって生暖かい滴がぼたぼたと頭に降りかかった。どさり、という音とともに足元へ棒状の物が落ちて、つられて視線を落とすと、それは膝の部分で切断された足だった。
「うわぁっ!?」
僕は思わず後ずさって、焦りで足がもつれて後ろに背中から倒れ込む。雨と泥水を頭からかぶり、上体を起こして口の中に入ってきた泥を吐き出しながら、僕は夢中で後ろに這いずって逃げようともがく。
――なんだこれは。
背中が背後の木の幹にぶつかっているにも関わらず、それでも恐慌しながら、足が無意識に後ろへ下がろうと地面を蹴り続ける。「ぐ、うぁ、あぁ、ああ」視界の先で地面に倒れたヨハンが苦しげな声をあげ、起き上がろうともがいている――。
「ぅああ、助けて、助けてくれ……」
起き上がれないまま、ヨハンが引き攣った顔でこちらへ左手を伸ばしているさまに、僕はようやく自分が何をするべきかに思い至った。「よ、ヨハン、今行く!」焦りでおぼつかない手元に苛立ちを覚えつつ持ちうる限りの回復薬を実体化し、立ち上がってヨハンの元へ駆け寄る。プレイヤーカーソルの淡い光を頼りに右の肩口と左足の傷へ回復薬を振り掛け、その間にヨハンのステータスを確認すると、既にHPバーが七割削れており、毒々しい色でバッドステータスの表示が羅列されている。
【出血】【部位欠損:右腕部】【部位欠損:左脚部】【カースド】……立て続けに撒き続けた三本の回復薬によって傷口が僅かに塞がり、出血がある程度抑えられるとともにHPも半分程度まで回復するが、切断された部位は回復薬でも戻せないようだった。「立てるか……」彼の答えを待たず、僕はヨハンを抱え起こして左側に回り、肩を組んで支える。「あ、ありがとう……」憔悴した声でヨハンは礼を述べ、僕はそれを聞きながら周囲の森へ注意を払う。
――すぐにここから逃げなければならない。
僕の本能がそう告げていた。周囲に満ちる暗闇がいつからか冷たい気配を帯び、木々を凍えるような冷気が包み込んでいる。すぐにこの場から離れなければならない、さもなくば何か恐ろしいことになる。脳裏で甲高く警鐘が鳴り、ヨハンを支えながらも、僕はいまにも崩れ落ちそうな体を叱咤して暗闇のなかをどこともなく進み始める。
「はっ、はぁっ」
どれだけ走ったかわからない、暗闇の中で僕らは幾度となく転倒し、足を失って走れないヨハンを背負って僕はあてどなく逃げ続ける。
追手の姿は見ていない、もとよりプレイヤーカーソルとメニュー画面以外の照明のない暗闇の中では、周囲の状況を視認することさえほとんど叶わないゆえに当然ではあるけれど、それでもヨハンの手足を吹き飛ばした何者かがいまだに僕らの背後へ迫ているという確信が僕にはあった。逃げている最中にも、未だにあの濃密な冷気を伴った気配が徐々に近づいてきている。いくら走っても振り切ることのできない、いつしか感じていた、何者かに見られているようなあの薄ら寒い感覚が、今なら気のせいではなかったのだとはっきりと断言できる。
「……お、置いてけ」
既に肉体の限界を迎えて倒れ込みそうになっている僕に、背中に負ったヨハンが切れ切れな声でそう呟く。おそらく手負いのヨハンを見捨てて一人で逃げろ、ということだろう、僕はそれを無視して駆け続ける。
「置いてけ、き、君一人ならまだ逃げ切れるだろう……」
彼の言う通りで、たぶん彼をここに置いて僕だけでも逃げるのならば、まだ逃げ切れる可能性があるのかもしれない。あの場で感じた禍々しい気配、おそらく相手は人間ではない、そしておそらくこの【眠れる森】のボスエネミーでさえない――このゲームを始めたばかりである僕でさえわかる、あのとき僕はそれだけの圧倒的な力の差を感じた。歴戦のプレイヤーであるならまだしも、初心者であり、さらに言えばレベルがたったの4である僕が、ヨハンを背負ったたまま逃げ切れる相手ではないことなど明らかだ。
「し、死んだってどうせ復活できる。僕を置いて一人で逃げるんだ……」
「うるさいっ」だが、彼の言葉に、僕はそう怒鳴り返す。嫌だ。彼を置いていくことなどできない。なぜかわからないが、とても嫌な予感がしたのだ。ゲームの初めから感じていた違和感、ログアウトに関する不具合、リアルすぎる表現、――処理しきれないほどの多くの情報が僕の頭を渦巻いて、とにかく死んではならない、少なくとも今は。そういう確信めいた予感が僕の脳裏を支配していた。
「うあっ」
足元に横たわっていた木の根に躓いて、僕は腐葉土の覆う地面に倒れ込んだ。飲み込んでしまった泥水にしばらく咳き込みながら立ち上がると、やや前方にヨハンのプレイヤーカーソルが見えた。メニューの淡い明かりを頼りに急いでヨハンへ近づいて背負い直した時、
――ばひゅん。
ヨハンの足を吹き飛ばした時のあの音だと僕は直感する。反射的に身を伏せると、すさまじい勢いで僕らの頭上を突風が通過した。余波に煽られて僕らは吹き飛ばされ、再び地面に激しく叩きつけられる。風は前方へ抜けて木々へぶつかったようで、信じられないことに、幾本もの木々がなぎ倒される音が辺りへ響く。
「う、ぐっ」
呻きつつ体を起こそうとすると、節々に鋭い痛みが走った。体が動かない。
【スタン】、僕はHPバーの下部に、黄土色の表示を認める。スタン、たった三文字の表示に、絶望が体を包み込むのを感じる。……終わった、もう逃げられない。絶望と諦観が全身の筋肉を弛緩させ、対して思考を一気に聡明にしていくのを感じる――。
――死ぬのか。
そうして僕の横たわっている足元から巨大な気配が立ち昇る。唯一自由な目だけを足元へ向けると、背後の森を覆い尽くすほど大きく、そして暗闇に閉ざされた周囲よりもさらに深く昏い漆黒の深淵が、ひたとこちらを見返していた。
深淵のうちに、赤く光る一対の瞳。
――【災厄の獣ロア:リーガル】
――レベル87。
突如、深淵に横長の亀裂が走り、ぱっくりと二つに分かれた。ぞろりと剥き出しになった牙の間からちろちろと青い炎が漏れ出し、濃赤色の口腔が暗闇の中から朧に照らし出される。見る間に亀裂は三日月型に歪み、それから谷の底から轟くような重く低い音が周囲に満ちた。深淵が音とともに身を震わせ、そこで僕はようやく気が付く。
――笑っている。
楽しんでいるのか。この巨大な深淵は、哀れにも縄張りに迷い込んだ獲物を追い立てる獣のごとく、圧倒的な力の差を持って僕らをいたぶって戯れていたのだ。
最初から弄ばれていたのだ。最初から、おそらくは、僕らがこの森に踏み入ったときから。
諦観と絶望が支配していた僕の体の内から、にわかにすさまじい怒りが込み上げた。何に対して怒っているのかさえもはや定かではない。おそらくは八つ当たりのような激情ではあるけれど、ただひたすらに僕は目の前の獣に対して憎悪した。体はまだ動かない、けれど怒りと憎しみを込めて僕はただ深淵に浮かぶ真紅の双眸を睨みつける。いつしか災厄の獣も笑い声を立てるのをやめ、沈黙したままこちらの視線を正面から見返している。
どれだけの時間が流れたかわからない、気づくと【災厄の獣ロア:リーガル】はふいとこちらから顔を逸らし、わずかに鳴き声を立てた後に背を向けて森の中へ消えた。周囲を満たしていた怜悧な気配がにわかに薄れ、凍えていた四肢にじんわりと熱が戻る。
――生きている。
見逃された、そう知ると同時に、硬直していた体が弛緩し、一気に疲労が押し寄せた。助かったのだ、なぜ、という疑問は浮かばなかった。豪雨に打たれながら、しかし立ち上がる気力ももはやなく、疲労とともに押し寄せる睡魔に意識が遠のいていくのを感じる。視界に暗闇が降り、意識が途切れる間際、僕はわずかに安堵していたのだと思う。
沈黙のなかで、ただ雨音だけがいつまでも響いていた。