5.疑念
カヅミ、というキャラクターネームの由来は、僕の本名である『来島秀樹』のアナグラム、『霧末かづみ』である。霧末かづみ、実際にはかづみの部分だけだけれど、僕はインターネットでのハンドルネームとしてその名前をしばしば使っていた。ツイーターやピクホンブなどのSNSで使用するうち、僕にはいつしか霧末かづみが自分の第二の本名のように思えるようになった。
端的にいえば、愛着がわいていたのだと思う。
僕は、おそらく知らず知らずのうちに、自分のなかに『かづみ』という人格を作っていた。ネットでハンドルネーム名義でなにか投稿するときや呟くとき、同じようにネットで知り合った人間と会話するときなどは、たぶん僕は現実の『秀樹』としてではなく、『かづみ』という人格ならばどう応えるか、どう返答するか、どう話すか、そういうことを想像しながら彼を演じていた。そしてきっと、僕と同じように自分の名づけた“インターネットでの自分自身”を演じている人間は少なくない。
インターネットで人格が変わる、そういった現象は、「僕はこうありたい」「本当の私」だとか、ある種自身の理想みたいなものを、自分自身の影へ託しているのだ。
僕らは【第三王立都市エマ】から【剣望む平原】エリアを横切り、【眠れる森】の外縁へたどり着いた。エマ周囲のもっとも初級のフィールドである【剣望む平原】ではすでに少なくないプレイヤーがエネミーを狩り始めており、僕らは戦闘をすることなく最短の時間で平原エリアを抜けることができた。
「なぁ、……平原エリアにはボスエネミーはいないのか? 次のエリアを開放するのにはボスを倒さなきゃらなない、みたいな仕様なのかと思ったんだけど」
黒々と木々の繁る森を眺めながら、僕はヨハンにそう尋ねる。ヨハンは少し考えるそぶりの後、「ベータテストのときは、その仕様なのはダンジョンだけだったね」と答えた。
「地上のエリアや海域などは、基本的に、イベントが起こっているときや特殊なエリア以外、ボスはいるにはいるが、別段次のエリアへ入るための制約はない」
「なるほど。……それじゃあこの【眠れる森】エリアも、ただ北西に向かって抜けるだけでいい、と」
「ああ、おそらくは。ただ……」
ヨハンはそう頷いて、それから言葉を切って視線を頭上に向ける。灰色に垂れこんだ空は、向かって左方、西のほうから黒雲がうねりながらこちらへ徐々に前進していた。
「ただ、やはり嵐、というのが気にかかるね。ベータテスト時代には天候の 変化なんてなかったはずだけれど、正式サービスで追加されたんだろうか? 森を抜けるにしても、いまのところどういう影響があるかわからないから、なるべく急いだほうがいいかもしれない」
ヨハンの言に、僕は「……わかった」と返し、それから腰に差さっているブロンズソードを握る。
ヨハンのメインスキルが【術者】、すなわち彼は後衛魔法職系統のメインスキルを取得しているために、僕はひとまず武器スキルに、片手剣カテゴリのブロンズソードを扱うことのできる【片手剣】を、メインスキルに【剣士】を選択した。「なんだか前衛を強要させてしまっているようで悪いね……」僕が【剣士】を選ぶ旨をヨハンに告げると、彼は申し訳なさげな表情でそう応える。
「別に構わないよ。もともと、やりたいプレイスタイル、みたいなものもなかったし」
僕がそう返すと、ヨハンはまだなにかいいたげな表情を見せていたが、やがて頭を掻きながら「そうだな、他人の選択に口を出すのも無粋だよな」と苦笑いする。
「それじゃあそろそろ出発するかな。ここから先、戦闘は避けられないだろうから、頼むよ、前衛!」
ヨハンはそういって僕の肩を叩き、「ああ、任せろ」照れくささをごまかすように僕はそう応酬する。それから黒々と口を開けた【眠れる森】入口へ向き直り、僕はブロンズソードの柄をぎゅっと握りしめてエリアの境界へと足を踏み入れる。
「はっ!」
息を吐きながら、僕はブロンズソードを振りかぶり、斬撃を放った。ブロンズソードの刀身が青白い光をまとい、剣の軌道が中空に描き出される。片手剣の初級剣技【スラッシュ】によって目の前の巨大な鼠型のエネミー、【フォレストラット】の胴体は真っ二つに切り裂かれ、クリティカルヒットのエフェクトとともにそのHPゲージを散らした。切り口からはおびただしい血液が吹き出し、ブロンズソードの刀身は大鼠の血で真っ赤に染まる。
戦闘勝利の効果音ののち、エネミーの名前と獲得した経験値、自動分配された獲得アイテムの表が中空に表示され、僕は【OK】ボタンをタップしてウィンドウを閉じる。
倒れた大鼠の亡骸は、傷口からどす黒い内臓を晒したまましばらく地面の上に横たわっていたが、やがて溶解するような演出を経て土に還っていった。噴き出した血液で汚れた地面や木々、僕のブロンズソードも、その演出に伴って元の色に戻る。
「うぇっ……」初の戦闘での勝利ではあったけれど、グロテスクな演出に僕は喜ぶよりも顔をしかめ、なぜだかヨハンも顔を歪めて「こんな演出あったか……?」と低い声で呟いた。
「ベータ時代にはなかったのか?」
僕がヨハンにそう問いかけると、ヨハンは「なかった」ときっぱりした声音で答えた。
「敵を倒すたびにこんなエグい演出入れてたら、参っちゃうだろう、大抵の人は」
「確かに……そうだな」
僕は剣を鞘に納めながら相槌を打つ。確かに、初のVRMMOであるLROに、わざわざこんなニッチな需要しかないだろう演出を入れるというのは不可解だ。普通の人間ならば生き物を殺す、ということ自体嫌悪を感じて忌避するだろうし、これでは過剰な演出にユーザーが離れていってしまう危険さえある。事実、ヨハンは気分が悪そうだし、僕自身、鼠とはいえ生き物の内臓を見て生理的な嫌悪を感じていた。
「まぁいい。カヅミ君さえ大丈夫なら、このまま適宜エネミーを倒しながら進みたい。いまのでだいぶ経験値入っただろう?」
ヨハンの言に、ステータス画面を開くと、確かに経験値バーのメーターが五分の一ほど進んでいった。「案外入るもんなんだな」というと、ヨハンは「まぁそもそもの頭数が少ないからね」と応える。
ついでにポーチを開いてみると、先程ウィンドウに表示されていた【森鼠の皮】や【森鼠の爪】などのアイテムがいくつか格納されていた。各アイテムはアイテム名ごとにポーチの一つの枠を占め、一応アイテム一つひとつに重量も設定されているようだ。
「素材アイテムは村に着いたら売ればいいな。ひとまずはレベルを上げつつ森を抜けるか。急がないと日が暮れてしまうからね」
「やっぱりこの世界でも日は暮れるんだな」
僕はメニューを閉じ、それから頭上を鬱蒼と覆う木々を見上げながらこぼした。曇り空のせいで太陽は見えないけれど、徐々に空は暗くなっている。それが日の傾きによるものか、それとも暗雲によるものかはわからないけれど。
「ああ、もちろん日暮れはあるよ。ただまぁ、こちらのほうが割合日没は早いけれどね」
「日没が……?」ヨハンの言葉の意味が計りかねて、僕は聞き返した。「……もしかしてカヅミ君、君はゲームを説明書を読まずに始めるタイプなのかい?」彼の呆れ顔が痛いけれど、実際その通りだったりするからいい返すことができない。
「昼と夜で出現するエネミーが違うし、夜になるとNPCも寝静まってしまうだろ。ゲーム内時間と現実の時間をそのまま対応させてしまうと、夜しかインできない人に不公平だから、LROでは一定のスパンで昼夜が逆転するようになってるんだ」
「なるほど……」
「LRO内では一日が二十時間、つまり現実と比べて時間の流れ方が1.2倍に設定されてる。確かサービス開始の午後一時が基準になっているはずだから、仮にどちらも日没が午後六時と仮定すると……」
午後一時から午後六時、すなわち現実世界の五時間は、こちらではおおよそ四時間強だから……。
「こちらでの日没は、だいたい現実での午後五時か」
ヨハンは頷き、「そういうことになるね」と応え、大きく伸びをした。「う、……ん……。そろそろ出発したほうがいいかな」それから頭上の木々の合間から空の様子を伺って「もし夜までにたどり着けなければここで野宿することになるかもしれないしね……」
嵐のなかで野宿、僕は反射的に想像してしまい、「マジか……」思わずそう漏らす。あんまり考えたくない事態だ。「ログアウト、できればなぁ……」溜め息をつきながらそう愚痴ると、ヨハンは「ははは、そうだな。早く不具合治してくれるといいが……」と苦笑いしながら答える。
「よし! じゃあペース上げてこうか。まだ先は長いから無理はできないけどね」
ヨハンの鼓舞に、僕もそれに倣って気分を明るくしようと努める。これからまたたびたびエネミーを切り刻まなければならないと思うと暗鬱な気分になるけれど、嵐のなかで野宿するよりはマシ、村へたどり着くまでの辛抱だ。自分を励ましながら、僕らは【眠れる森】の奥へと進んでいく。
さく、さく、と腐葉土を踏みしめる音が、僕らの周囲を満たしている。
奥へと進むにつれて木々は色濃く繁茂し、加えて天候のせいか、森のなかはさらに薄暗くなっていった。おぼろげな足元を注意深く歩きながら、いつしか辺りはひっそりと静まり返り、僕らは度重なる戦闘で疲弊して寡黙になっていく。
【眠れる森】に踏み入った頃にはエネミーの鳴き声やら木々の梢の音やら、もっとうるさかったはずなのに。心なしか重くなった足を踏み出しながら、僕は訝しく思う。周囲には僕ら以外に生き物の気配さえ感じない。まるで知らないうちにどこか別の世界に取り残されてしまったような感覚。
ざあっ、という音に、僕は思わずびくりと身をすくめた。にわかに強い風が立ち起こって、森の木々を揺らしたようだった。次いで地鳴りするような雷鳴が尾を引いて轟き、先に立って歩いていたヨハンが立ち止まって「風が出てきたな」と呟いた。
「そろそろ出口も近いはずだが、……いったんここで休憩しようか」
「……了解」
ヨハンが倒木の上に腰を下ろすのを見、僕も苔むした岩の上に座った。ゲーム内時間はすでに十七時を回り、樹木のあいだから辛うじて見える空も、暗雲に覆われて真っ暗になっていた。
再び雷鳴が響き、不気味なおののきを伴って、強い風が木々のあいだを通り過ぎていく。知らないうちに、森のなかは張りつめたような怜悧な空気に満たされていた。僕は知らず知らずのうちに身震いして、ブロンズソードの柄を強く握り締める。これまで幾度となく振り回したおかげでだいぶしっくりと扱い慣れてはいたものの、連戦に次ぐ連戦で、ブロンズソードの耐久値はすでに半分を割るほどに削れている。
――なかなか厳しい道のりだ。僕はこめかみを指圧しながら四肢の疲労が回復するのを待つ。戦闘自体もそうだが、やはり戦闘の度ごとに動物の死体を築く、ということが思いのほか精神的に負担となっていた。たかがポリゴンとはいえ、内臓をまき散らし、あるいは焼け焦げて無残に転がるエネミーの死体を平然と眺めていられるほど、僕は非情ではない。武器を通して伝わる肉を引き切る感触に、戦闘を繰り返すうちに幾度となく嘔吐感が押し寄せたが、VR空間だからか胃からはなにも出なかった。
僕は横目でヨハンの様子を伺った。倒木の上で膝に腕を載せながら眉根に皺を寄せ、横顔には隠しきれない疲れが浮かんでいる。僕はこれほど疲弊しながらも弱音ひとつ漏らさないヨハンの精神力に改めて敬服すると同時に、彼に対する少なくない罪悪感を覚えた。
――これまでの戦闘で、僕はエネミーの攻撃を一切受けることがなかった。そしてそれはひとえにヨハンが恐ろしいまでに腕がよく、僕に攻撃が当たる前にエネミーを【火属性魔法】初級魔法の【ファイア】で焼き払っていたからなのだった。普通ならこれだけ戦闘して無傷でいるなど奇跡というほかないが、それを実現していた彼もまた尋常ではない集中力が必要だったのだろう、彼はこれまでも休憩の度にしばしば苦しそうな表情を見せている。
僕とヨハンはお互い無言のまま、しばらくうつむいていた。周囲を満たすのは遠く響く雷鳴と木々を揺らす風音のみ。僕は自分の眉のあたりに垂れる前髪をいじりながら、デジタル表示のゲーム内時刻をぼんやりと眺める。数字のあいだで明滅しているコロンが秒数を表すのだろう、僕はその規則的な瞬きを見つめながら、……
「……あれ?」
「どうした」
唐突な僕の頓狂な声に、ヨハンが怪訝な顔をしてこちらに視線を送る。それから僕の表情に気づき、にわかに真剣な顔つきになった。
「なぁ、もしゲーム内時間が現実の時間よりも早く進むのなら、……体感時間はどうなるんだ?」
「体感時間?」ヨハンはそれからあごに手を当てて、少し考え込むしぐさを見せる。
「体感時間、はもちろん現実世界そのままだろう。VRデバイスは拡張現実の延長だから、思考を加速させる、なんて機能はない。だから、ゲーム内時間が現実の時間より早く進むからといって――」ヨハンはそこまでいって急に言葉を切った。おそらく僕のいいたいことに気づいたのだろう、しばらく口を開けたま中空を見つめて硬直する。
「つまり体感時間で一秒を数えると、ゲーム内時間表示ではそれ以上に進むはずなんだよな?」
僕がそう付け加えると、ヨハンは目を見開き、「そうだ。ゲーム内時間表示だ」と呟いたのち、メニューを操作するジェスチャーをしてじっと眼前を注視する。
やがて、ヨハンは怪訝な表情を浮かべながら「……六十だ」とこぼした。
「一分が六十秒だ。一秒あたりの時間も体感時間と変わらない。現実時間と同期してるとしか思えない……」
僕はヨハンの言葉に、黙ってうなずいた。まさしく僕がいまいおうとしたのはそのことで、僕はそれから怪訝な表情のままのヨハンに、「だとすると、現在の時刻は十七時二十三分でほぼ間違いないよな」と訊ねる。
「ああ。そうだな、――システム側の不具合かなにか、いずれにしても、体感時間と時刻表示に差がないなら、現実とゲーム内の時間はほぼ同じだと思われる……」
ヨハンはそういって不可解そうに頭を掻いた。ゲーム内時間と現実の時間がほぼ同じ、そして現在が表示どおりに十七時だというなら、僕らがログインしてから、現実ではすでに四時間が経過しているということになる。
――四時間。僕は頭上を振り仰いだ。サービス開始からすでに四時間も過ぎているというのに、未だに公式からのアナウンスは『ログアウトするな』のひとつのみだった。いくら『重大な不具合』にしても、勝手なログアウトの制限に加えて、寡少なアナウンス、大手ゲーム企業三社による合同のプロジェクトにもかかわらずのこの状況は、オンラインゲームの運営としてあまりにも杜撰すぎると思う。
それに、そう――僕にはもうひとつ気がかりなことがあるのだった。
「ヨハン、すまん、……笑わないで聞いてほしいんだが」
あごを掻きながらそう口を開くと、ヨハンは「なんだ?」とこちらへ向き直る。
「いや、大したことじゃないんだが……」
誤魔化すように溜息をつき、それから「尿意が来ない」というとヨハンはさらに怪訝に眉をひそめ、そらからにわかにはっとしたような表情になる。
「そういえば……確かに」
サービス開始――ログインからすでに四時間、正常な人間ならば少なからずそれらの生理的欲求を感じてもおかしくはない。「空腹もだ。いや、僕は空腹をインタラプトしているが、ヨハンはどうなんだ」僕が付け加えると、ヨハンはひきつった顔で頷き、「感じないな。まだ十七時だから空腹に関してはなんともいえないが、確かにおかしい」と呟く。
「なぁ、……ゲーム内から現実の時間を知ることはできないのか?」
僕がそう訊ねると「できな――いや、できるな。たしか……」といって顔をひきつらせたままヨハンは中空を指でなぞる。――そうして今度こそ、ヨハンは目を見開いて硬直した。たっぷり数秒の間を開けて、それから思い出したように声を上げる。
「時計が止まってる……」
「……は?」
「ちょっと見てみてくれ、メニューの環境情報タブの下から二番目だ。時計が止まってるだけじゃない、現実の体のモニタ情報も更新されてない……」
焦りからか早口でまくしたてる彼に気おされ、いわれるままにメニューを開いて環境情報を確認すると、「本当だ……止まってる」現実時刻の表示は十三時五十分で止まっていた。もしこの表示が正しければ、運営からのアナウンスから間もなく、僕らが【剣望む平原】を横断していたころにはすでに時刻表示は止まっていたことになる。
「モニタ情報も見てみてくれ」彼の言葉にしたがってウィンドウを開こうとすると、『脳とのリンクが切れています』というエラーメッセージのポップアップののち、エラー識別コードのようなものが表示される。
脳とのリンクが切れている?
「――は?」
ウィンドウをスクロールしようとしても、エラー音とともにメッセージが表示されたまま画面は止まったまま。僕は無意識にしばらくせわしく指を上下に振り、それからようやく
「……なんだこれ、脳とのリンク……? ってどういうことなんだ」
混乱して頬が引き攣れたまま思わずそう口にすると、ヨハンは「どうって、……脳に埋め込んだARインプラントとの通信ができない、ということなんだろ」と額に手を当てて、わけがわからない、というふうに頭上を仰ぐ。
――インプラントとの通信ができない?
「え、い、いや、だってLROのクライアントはARインプラントの内部ストレージにインストールしたはずだろ……。もともと通信する必要なんて――」
「そうだ、ない。……実際にLROベータテスト時も、生体情報はインプラントが直接インプラント用クライアントにモニタリングしていた。だからこんな表示が起こることはありえないんだ……」
LRO、というよりすべてのVRゲームは、ゲーム内から現実の体の状態を把握するためにARインプラントによって監視された生体情報を常に参照することができる。そして、ゲームクライアントは基本的にARインプラントの内部ストレージへインストールするものであるから、生体情報は常にインプラント用クライアント側から通信を経ずに参照することが可能だ。
――だとすると。
「『脳とのリンク』ってことは、もしかして――」
僕がいいかけると、長らく天を仰ぎながら目を閉じていたヨハンは、やがて視線を戻し、僕の言葉を引き継いで続けた。心なしか彼の声は震えているように聞こえる。
「あぁ。……おそらく、信じたくはないが、いま僕らがいるのは、“外側”だろう」
生体情報が取得できない、そしてその原因が、脳との接続が切れている、それらから考えると、いま僕らの主観的な位置、乱暴ないい方をすれば、『自我』は、すでに脳内ARインプラントの上層にあるということだ。
――脳の外。つまり僕はいま、僕の自我はいま、自分の体を離れたところにいるということなのか? 僕の背筋を得体のしれない薄ら寒さが這い上がるのを感じる。大雑把にいえば、幽体離脱に近い状態だということなのだろうか――。脳裏に中空から自分の寝顔を眺めている映像がよぎる。そんなオカルトじみたことが可能なのだろうか? たかが拡張現実を見せるためのインプラントで? 仮想現実を見せるためのデバイスで、僕らの『自我』を脳から解き放つことなどできるのか?
――人間の主観を人間の肉体から解き放つ。
できない、と思い込みたいけれど、僕の理性は異なる答えを導いた。もとよりVRやARの技術にしても、十年前からすればすでに信じられないような高度な技術だった。そして思えば、かの有名な朱西第二高校集団自殺事件における、公にされている間接の要因は、紛れもなく『ネットワーク上への人格の遊離』なのだ。
「……なんてこった」
僕の呟きは、いよいよ強くなってきた木々のざわめきのなかに掻き消えていった。薄暗い森のなかで、僕は嵐の匂いだけではない、なにか薄ら寒い気配のようなものを感じていた。誰かに見られているような、全身をくまなく不可視の針で刺されているような感覚。僕が思わず身震いすると、それを見かねたようにヨハンが倒木から立ち上がる。
「そろそろ出発したほうがよさそうだね。続きは歩きながら話そう」
「なぁ。……もし僕らがいま、『ログアウト』したらどうなると思う」
右方から聞こえるヨハンの声に、僕は長い思索の淵から浮かび上がる。あまりに多くのことがありすぎて、僕とヨハンはいまの状況を整理するために、しばらく互いに無言のままで歩いていた。僕はしばらく考えたのちに、「……つまり、それが『ログアウト処理に関する重大な不具合』ってことなんだろうな」と答える。
「存在ごと消えるのか、あるいは広大なネットの海を漂い続けるのか、――」
ヨハンも僕に訊ねる前に、すでに自分で答えは出していたのだろう。諦観したような表情でそう返し、それから「なぁ、ちょっと話が荒唐無稽すぎるかもしれないな?」と自嘲気味に笑う。
「冷静に考えてみろ、単に『ログアウトするな』っていわれてるだけだぞ? 『時刻の表示がおかしい』とか、『生体情報が取得できない』とか、単なる不具合だってこともあるだろう……」
ヨハンは僕を説得するというよりも、半ば自分にいい聞かせるように話し続ける。僕自身、先程からこっち、思考が飛躍しすぎていることを自覚していたから、現実的に考えて彼がいうことに理があると思いながら耳を傾ける。
「第一、そんなに重大な不具合ならば、運営からもっとなにか告知でもないとおかしいだろう? それに、LROがいまどこで動作していようと、それが現実時刻が取得できない理由にはならないんだから……」
「そうだな、確かに話が不合理すぎる気もする。ひとまずは運営を信じて待機、が正しい選択肢だよな……」
僕がそういうと、ヨハンはそれでも眉間にしわを寄せて地面を睨みながら、しばらくののち「すまない、取り乱した」といった。それから声を上げながら自分の頭を掻きまわしてこめかみを指でもみほぐし、「悪い。重く考えるのは僕の悪い癖だ……」といって溜息をつく。
「ただ、僕らがいま、もし本当にインプラント系の外にいるのなら、――僕らはいまどこにいるんだろうな」
髪を手櫛で直しているヨハンにそう訊ねると、ヨハンは梳いている右手を止めて、しばらく考え込んだ。
「外部処理に使ってる僕らのPC、あれにもクライアントはインストールされてるけど――」
「そうだな、ありうるね。他に考えられるとすれば、どこかで稼働してるLROのサーバーか……」
「もしくは第三者のサーバーか」
僕が引き継いでそういい、「まぁ、いま考えたって仕方がないか」取り繕うようにそう続けると、ヨハンは「確かにな」と力なく笑う。
――と、そのときヨハンの目がにわかに見開かた。
「危なっ――」
そういい終わらないうちに、僕は左肩に激しい衝撃を受ける。肩の肉が裂ける感触があって、肩にぶつかってきた大きな塊とともに、僕は右後方に倒れ込む。
「いっ――て」顔をしかめながら上体を起こすと、ぶつかってきたのは一匹の【フォレストラット】らしく、大きな鼠型のエネミーは衝突の衝撃で数メートル先に転がっていた。HPバーの上に表示されたレベルは6、これまで戦ってきたものよりレベルが幾分高いが、度重なる戦闘で、すでにレベルが4まで上がっている僕らならば、おそらく倒すことはできるだろう。「大丈夫か!?」ヨハンの声が前方から飛んでくる。
「だ、だい……」大丈夫、と答えようとしたが、続かなかった。肩に鋭い痛みが走る。目をやると、裂けた左肩からだくだくと血が流れ出していた。「あ、痛っ」クロスアーマーが大きく破け、その間からぱっくりと開いた傷口が覗いている。
「おい、どうした」
ヨハンの声に、へらへらと笑いながら立ち上がろうとするが、起き上がれない。「あれ、……いって……」頬の筋肉が引き攣っているのがわかる。ポリゴンの体に筋肉などないはずなのに、傷口からはてらてらと血濡れた繊維がはみ出ている。
「あれ、痛い。えっ……痛っ、……痛い痛い」
痛い。「なんで」痛い。激痛とともに、傷口が熱を持っている。「痛い」溢れる血液に伴って、僕の動悸が激しくなっていく。痛い。動悸が増すと、傷口からはさらに大量の血が噴き出した――。
「おい! これ使って!」
パニックになりかけている僕に、ヨハンが小瓶を投げ渡した。おぼつかない右手で封を開けて瓶の中身を飲み干すと、視界の隅に表示されている四分の一ほど削れたHPバーが回復し、肩に開いていた傷口が見る見るうちにふさがった。傷口があったところにまとわりついた血液と、クロスアーマーにできた大きな赤い染みは消えなかったが、しばらく息を整え、それから僕は回復薬を投げ渡してくれたヨハンに礼を告げる。
「普通は痛みは感じないようになってるはずなんだが……」
不可解そうな表情で僕の肩を眺め、それから「まぁいい、そこでスタンしてる鼠をさっさと倒そう」といってヨハンは【ファイア】の詠唱を始める。
「わかった」
僕がブロンズソードを抜いて切りかかろうとすると、ちょうど【フォレストラット】のスタン状態が解けたようで、唐突に大鼠は跳ね起きた。「あっ――」僕の【スラッシュ】は外れ、剣戟を運よく躱した鼠はなぜか僕に見向きもせず、一目散にすさまじい速さで茂みのなかへ逃げていった。
「な、なんだ……?」
その見事な遁走ぶりに、僕らは唖然として鼠の消えた茂みを眺める。「まぁこんなこともあるか」ヨハンはそういって【ファイア】の詠唱を中断し、僕もブロンズソードを鞘に納めた。「それよりも、さっきのが気になるな。もう大丈夫なのか、左腕」ヨハンはそういって再び実体化した回復薬を手に取る。
「あぁ、大丈夫だ。痛みももう感じない……」
「そうか、ならいいんだが……。カヅミ君、本当に痛みを感じたのか?」
訝しげな表情で訊ねてくるヨハンに、僕が黙ってうなずくと、彼は「そんなはずはないけれどな」といって首をかしげる。
「どういうことだ?」
僕の問いに、ヨハンは「いや、もしさっきの話が本当ならばこの限りではないんだが」と前置きをする。
「LROでのVRの仕組みは知ってるだろ? 外部処理装置のクライアントが脳へ送る知覚情報をシミュレート、VRデバイスを通してインプラント側のクライアントがそれをもとにゲームを構成するが、痛覚の情報に限ってはこのときシミュレーションされないんだ。意図的にそうでもしない限り」
「なるほど……」
不可解なことだらけだ。ヨハンは「いずれにしても、現状がどうなっているのかわからない以上、解釈のしようがないな……」とため息をつき、僕らは再び森の出口に向かって歩き出す。
ゲーム内時刻を確認すると、十八時を大きく回っている。周囲はほとんど闇に閉ざされ目を凝らしても足元はほとんど視認できない。湿り気を帯びた強い風が木々の頭上を吹きすさび、辺りにぱっと光が閃いたと思うと、「うわっ」すさまじい爆音が轟いて、僕らは身をすくめる。
――雷か。
「ちょっち、やばそうだな」
ヨハンが冷や汗を垂らしながらこちらへ苦笑いを向け、「出口はまだ先なのか?」と僕の問いかけに、彼は「申し訳ないが、まだ先みたいだな……」とうなだれる。
再び轟いた雷鳴ののち、ぽつりと水滴が頭頂に弾けた。「ついに降って来たか……」僕の言葉が皮切りになったように、それからにわかに雨が降り出してきた。ザアッという音とともに、頭上に木々が茂っているにもかかわらず、辺りにはバケツを返したような雨が降り注ぐ。
僕はヨハンに向き直り、雨に負けじと声を張り上げて、
「なぁ、ヤバイぞ。どこか雨のしのげる場所を――っ」
僕はその言葉を最後までいうことができなかった。
ヨハンの右腕が吹き飛んでいた。