2.ログイン
3話まで一日ごとに更新します。
翌朝、僕は早めに朝食を済ませてから、VRデバイスの最終調整作業を行うことにした。拡張現実用インプラントへ外部補助処理装置としてのデスクトップPCを接続、中継するために、デバイスには様々な種類のケーブルを接続する必要がある。ワイヤレスでの接続も行うことができるけれど、通信の安定性や安全性、即時性をかんがみて、僕は環境のほぼすべての接続を有線で行うことにしていた。幾度か仮想空間と現実を行き来してモーションのラグが起きないか、仮想空間での動作の違和感を最小限にするための調整をして、問題がないことを確認したのちに、僕は現実に戻ってふたたびウィキと掲示板のサーフィンをはじめる。
ロードオブレグルス・オンライン――もっぱらネットではLROと呼ばれている――は、その発表当初からひときわの注目を集めたタイトルでもあった。疑似的なオープンワールド――ほぼ惑星一つ分と同等の世界を探索できるという――や、VRゲームでも類を見ないハイレベルなグラフィック――ゆえにデバイスのみならず、ハイスペックな外部処理装置が必要――など、しかしながら単純にVR技術の実用化以降、初の試みとなるMMORPGであるという点により、それまでのオンラインゲームという枠組みを大きく革新することも期待されていた。開発を牽引したのがそれまで競合していた国内最大手ゲームメーカー三社の合同プロジェクトチームということもあって、タイトルのダサさに反して、もはや話題の種としては申し分のないものだったというのも大きく、単なるオンラインゲームの一タイトルにしては、発表に際していくつかの巨大掲示板が炎上した経緯さえある。
VR――ヴァーチャルリアリティ、すなわちLROは、単なるオンラインゲームという枠ではなく、『VR』MMORPGなのだった。これまで現実空間に仮想的にウィンドウや立体映像を投影する手法を取ってきたAR、オルタナティブリアリティという技術を超え、人間の五感をコントロールして、疑似的に仮想空間への没入を可能とした技術、つまり、これまでのオンラインゲームにおけるコントローラーやARによるUI、モニターやホログラムといった限定的なインターフェースではなく、自身の五感によって直接ゲームを見、聞き、触れ、そして操作できるVRという新しいUIによるオンラインゲーム。ゲームのなかの世界へ転生する、そしてそれを可能とするVRという技術を用いたオンラインゲームがリリースされるのを、僕を含め、おそらく多くのオンラインゲームのユーザーたちは待望していたのだ。
僕は視界の右端の時刻表示を人差し指で引き寄せる。十一時四十分、LROの正式サービス開始まではあと一時間強ほど時間があった。早めに昼を作っておいて、いつでもログインできるよう万全に構えておくべきか、僕はそう考えて、椅子から立ち上がりキッチンに向かう。
壁に設置した大型ディスプレイのニュースに注視しながら、僕はレトルトのカレーを口に運んでいた。緊張のせいかあまり味を感じないけれど、ひとまずは夜までログイン状態となるだろうから、まずくてもなにか胃に詰め込んでおかなければならない。僕が購入したVRデバイスは、首筋の外部接続端子につなぐ首環タイプの『イマジリング』で、ちょうど僕が購入した世代からは空腹感のインタラプト機能が追加されており、一応空腹となればゲーム内から警告文が表示されるものの、これによってほぼ完全な仮想現実へのダイブが実現されているらしい。空腹感に加え、尿意や便意など、生理的欲求をインタラプトすることのできる仕様のデバイスも一部の廃人に需要があるらしいのだけれど、人間の深淵を覗き込むような気分がしたので、僕はおとなしく空腹感だけを遮断できるモデルを購入した。それでもなるべくたくさんの食糧を胃に詰め込んで長時間ログインするスタイルの廃人には不可欠な機能であり、僕自身彼らの例に漏れず暴食を試みているのだった。
十三時まではあと十分足らず、僕は急いでカレーを口に頬張り、空にした食器を洗って片してからPCの前に座る。デバイスを首筋に取り付け、僕は深く息を吸い込んだ。現実の空気を吸えるのはこれが最後、大仰に過ぎる気がしないでもないけれど、夜までは仮想現実に没入しっ放しだから、しばらくこうして深呼吸しているのもいいかもしれない。
VRデバイスにはタイマーによる自動ログインの機能はないから、僕は拡張現実による、十三時の三分前のアラームで目を開ける。PCにてLROのクライアントを起動、地域ネットワークに正常に接続されていることを確認し、僕は椅子から立ち上がってソファに向かった。ダイブ中はあらゆる感覚が遮断されるとはいえ、長時間のプレイの後の体のこわばりは避けられないから、ソファの上にやわらかいクッションを敷いて、その上に僕は横になった。首筋から延びるケーブルに配慮しながら頭を枕の上におろし、いつでもログインのコマンドを行えるように、ARにインストールされたゲームクライアントのランチャーを待機状態にして視界の手前に引き寄せておく。キャラクタークリエイト体験版で慣れた操作だけれど、今回起動するのは正式な製品版、僕は心ならずも指先が震えるのを感じていた。
――ついに、ログインできる。
ダウンロードしたゲームを初めて起動するときのあの感覚。むずがゆいような、わくわくするような、ほどよい緊張を伴ったあの感覚に、僕は久しぶりに心臓が高鳴るのを感じた。アナログ表示にしてある時計を見ると、三十秒前、僕は声を出さずにログインコマンドを口の中で反芻する。
十三時には、LROを購入したおよそ四万の人間が一斉にログインを行うのだ。サーバーには相当の負荷がかかることは想像に難くない。
――乗り遅れてはならない。
僕は時刻表示の秒針に注視する。残りの十秒が、いまや秒針が粘性の液体に捕まっているかのように、非常にのろのろとしたものに感じられる。スローモーションのような時間感覚に、僕は居ても立っても居られないようなもどかしさを感じる。
やがて秒針は三秒前に差し掛かった。「三」脳裏でカウントしていた秒数が、思わず口をついて飛び出す。
二。僕は口を引き結んで、来るべき瞬間に向けて待機する。乗り遅れてはならない、僕の脳裏をそんなふうに切迫したイメージが通過した。
一。まばたきさえ忘れて、僕は息をつめて秒針を凝視する。一秒間がおおよそ無限の長さを持って感じられる。緊張が頂点に差し掛かり、このまま死んでしまうのではないか、馬鹿らしい考えが一瞬だけ去来し、すぐに掻き消える。そして、
〇。「ゲームスタート」秒針が〇を指すと同時に、僕はほぼ無意識にコマンドを発声した。デバイスが音声コマンドをキャッチしてクライアントの起動を指示、そして刹那、僕の視界は音もなく闇に包まれる。
暗転した視界に、暗闇のなかで、僕は一人たたずんでいた。
――環境設定情報をロードしました。
――アカウントの認証を行います。
フォン、という効果音とともに、手元にぽつりと小さなメッセージウィンドウが表示される。
――ライセンスの契約を行ったあなたの識別IDを開示してください。
「『くるしまひでき』」僕は“名乗り”とともに識別IDを含む認証用情報を開示する。
――受理しました。
――パスワードの入力を行ってください。
手元に表示されるキーボードに手を添え、アカウントの作成に使用したパスワードを入力する。いつの間にか手の震えは治まっていて、ポリゴンでできた僕の指は、まるで僕のものではないように滑らかにキーボードの上を行き来した。
――受理しました。
僕は息をつく。
――サーバーに接続します。しばらくお待ちください。
視界の中央に表示されたナウ・ローディングの文字が明滅するのを脱力して注視しながら、僕は座り込みたいような欲求に襲われる。なんとかログインすることができた。張りつめていた緊張が解けて、僕はしばらく呆けたままその場に立ちすくんでいた。やがてローディングの表示が消滅し、新しいメッセージがポップする。
――接続が完了しました。ようこそ、ロードオブレグルス・オンラインへ。完了ボタンを押下後、三秒後にゲームを開始します。
「……?」僕はほんの少し違和感を覚えた。なんだか安っぽい文句だ、訝しく思いながら僕はウィンドウ下部で点滅している『完了』ボタンをタップした。手元のウィンドウにカウントダウンが表示され、周囲を回転するリングとともにその数字を減らしていく。
――二。
――一。
突如、僕の首筋へ強く引っ張るような衝撃が加わるのを感じた。黒目がぐるりとまぶたの裏へとひっくり返り、うめき声さえ漏らせないほどの力で僕の体が後方へ引っ張られ――いや、違う、落ちていた。後方にすさまじい勢いで加速し、いつしか吹きすさぶ強風にあおられてきりもみしながらきっと僕はどこかへ向かってすごい速さで落下して。
僕の意識はそこで途切れる。