1.前夜
初投稿です。
歓喜の声と落胆の呻きが入り乱れる教室のなか、手元に浮かんだ小さなウィンドウに目を落としながら、僕は小さくため息をついた。立体的な表になって表示されるそれは、先々週にあった一学期期末考査の成績表で、すべての教科の欄には赤点すれすれの点数が、もはや卒業すら危うい、……ということはなく、表示される成績はむしろ非常に優秀だった。七教科七百点満点の試験で、各教科の成績欄にはところどころ三桁の数値が点在している。
ウィンドウ下部にあるボタンをタップして成績表を閉じながら、僕は再びため息をつく。決して成績を憂いているわけではない、というか成績に憂うべき点はない。体育の成績には若干の心配があるものの、それとて気に掛けるのは尚早といえる。
「秀樹っ。また学年一位か?」
唐突に友人の張り上げた声が鼓膜に刺さる。デリカシーの欠片もない言葉に、僕は半眼で声の主に胡乱な視線を投げる。
「おまえな……、もうちょっと気遣いとかできないのかよ……」
事実、その友人――正美の声に、クラスメイトの約半数の面々がこちらへ顔を向け、やれやれ、またか、という表情を浮かべている。いかんせん注目されることは得意ではなく、若干のこそばゆい感じを覚えながら、僕はみたびため息をつきながら正美に応酬した。
「ああ、悪い悪い」
いくつか固まって団欒している集団から離れて、正美は屈託のない笑みを浮かべつつこちらへ近寄ってくる。彼は僕と同様にクラスのどのグループにも属していないのだが、彼は僕とは違い、誰に対しても分け隔てなく接する磊落な性格で、クラスでも一目置かれる存在だった。先ほどのようにデリカシーの足りないところもあるものの、その反面よく周囲に気配りのできる人間で、クラスのムードメーカーだった。ムードメーカーというのは正美本人の自称ではあるのだけれど、実際その形容は外れていない。
正美は窓際の最後尾である僕の席のひとつ前、別のグループと話をしに席を離れている女子の席にどかっと腰を下ろすと、自分の成績表を呼び出してこちらに裏返して見せながら、悔しそうな顔を向ける。
「またお前に一歩及ばなかったなぁ……」
人差し指で彼の成績表をこちら側に引き寄せて合計点数を見ると、六百九十四点、僕よりも二点足りない数字が表示されている。学年順位の欄には本人の言通り、「2」の数字。むしろ正美が気の毒に感じてしまうほどの点差だった。
「しかしすげぇよなぁ……、二年間これまですべてのテストで学年一位とか、記録的通り越してもはや伝説」
正美は成績表を閉じると、複雑な顔をしてため息をつく。
「全国模試じゃ上はいっぱいいるよ。それよかじわじわ僕に追いついてきてる正美のがすごいと思う」
そうなのだ、一見のらりくらりとしているように見えて、その実彼は志望の大学に合格することを目標に殺人的な猛勉強を自らに課している猛者だった。実際、正美との点差は二年間のあいだに徐々に縮まってきている。日々ゲームばかりにうつつを抜かしている僕が彼より成績がよいべきではないと、本気で思うくらいだ。
正美は「お前にいわれると嫌味にしか聞こえないな」と自嘲気味に頬を吊り上げて笑う。それから腕を伸ばして背伸びをすると、盛大に息を吐いた。
「あーあ、今回一位取ったらVR環境整えてもらうって約束だったのになぁ……」
「……は? そんな話になってたのか……?」
「あぁ」
AR拡張デバイスの今冬新しくリリースされたモデルの価格は、本体とVRのライセンス料を含めて安いものでも十万弱、これでもVR技術の黎明期に比べれば随分と安価に落ち着いたものだけれど、まだまだ一介の高校生が手を出すには高価すぎる代物だった。普通ならアルバイトをして稼ぐところだけれど、彼は毎日予備校、家庭学習の勉強漬けで、バイトをする余裕すらないのである。「またレグルスはお預けかぁ……」気落ちしている彼にどう声を掛けるべきか、知らずに僕は困惑して視線を落とす。
「なんか、ごめん」
ぼそりと呟くと、正美は「いやいやいや」といつもの笑顔を取り繕う。
「お前のせいじゃねーし。今回は俺の勉強が足りなかっただけ。秀樹は俺の永遠の目標なんだからな」
彼はそれから「次は勝つっ! 逃げんじゃねーぞ!」と啖呵を切って腰を上げる。彼と入学以来長い付き合いのある僕にはその顔にわずかに翳りがあるのに気が付いた。やはり正美はレグルスがやりたかったのだろう。普段は猛勉強をしている正美だからなおのことだ。
自分の席に戻っていく正美の背中に、「ああ」とだけ声を掛け、僕は帰る支度を整える。やがてほとぼりが冷めてきた教室に、担任がホームルームの終わりを告げ、僕はそれから何人かの友人に挨拶をして、肩に鞄を提げて昇降口へ向かった。
「悪いことしたなぁ……」
帰り際、登下校に利用する新都線のなかで、僕はひとりごちる。今回の考査で学年一位になればVR環境を整えられる、……おおかた親とでも約束をしたのだろう、僕は正美からそのことを今日まで聞かされていなかった。たぶん彼のことだから、それを聞いて僕が考査で手を抜いたりすることを危惧していたのだろうけれど、僕はそのことでどうにも納まりの悪さというか、彼に対する罪悪感を感じていた。確かに彼からその話を事前に聞いていれば、僕は彼に遠慮して考査で手を抜いていただろうと思うし、手を抜かれるのが嫌だと思うのはそれこそ彼らしいといえば彼らしい。けれど、それで結局やりたかったことが叶わないというのでは意味がないのではないか、乗客もまばらな車内で腕を組みながら、僕はそんなふうに悶々とする。
後方へ過ぎ去っていくビル群は、沈みつつある西日を照り返してまぶしいほどに輝いていた。車窓から下方を伺うと、高架街道を行きかう通勤者たちは胡麻粒ほどに小さく見え、そのなかに正美の姿がないか、僕は無意識に彼の姿を探している自分がいるのに気が付いた。
『次は勝つっ! 逃げんじゃねーぞ!』
僕の前ではいつもの通りの調子だったけれど、たぶん今頃、帰路で落ち込みながらうつむいて歩いているのではないか。高校一年の頃から比較的長い付き合いのある僕にはわかるのだけれど、彼は決してそれほど楽観的というか、周囲が思うほど軽薄な性格をしているわけではなく、自分に対して非常なストイックさを持ち合わせているために、たぶん彼自身自覚なしに自分の事を追い詰めているきらいがあった。僕は彼が人知れずすさまじい努力を重ねていることを知っていて、またその努力があってこその彼の人当たりのよさなのだとも知っており、そしてうまく努力の結果が出ないことに彼が人知れず少なくない涙を流していることも僕は知っている。実のところ彼の努力のベクトルが僕の方向を向いていることを知っているから、それがまた僕の罪悪感を否応なしに掻き立てているのだ。
僕はたぶん、彼のいわく、それこそ誇張でもなんでもなく『永遠の目標』だと思われているのだった。
「ただいまぁ」
朱西第三マンションの百五十三階、自室に帰宅し、僕はいつも通り声を掛けながら上り込むけれど、僕は実家を離れての一人暮らしだから、もちろん応えが返ってくることはない。
靴を脱いで鞄をソファに放り出した後、僕は急いでデスクトップPCの電源を入れた。PCが立ちあがるあいだに、冷蔵庫から麦茶をガラスコップに注いで、柿の種のパッケージを小皿に空け、PC脇の机に置く。制服をソファに脱ぎ捨てて部屋着を着ると、ちょうどARを介して自動認証が行われ、朝に開いていたブラウザの画面が復帰した。
デスクトップの左手、サブモニタに表示しているのは、ロードオブレグルス・オンラインの公式サイト ――高品質なグラフィック性能を要求するサイトはARの仮想モニタでの表示をすると処理落ちするために、現実のモニタに表示することにしている――だった。そして、正面に設置したメインモニタには、ロードオブレグルス・オンラインのキャラクタークリエイト画面を表示している。
そう、僕は実は正美に黙っていたことがあった。安いもので十万の値がするAR用VR機能拡張デバイスを、実のところ僕は正美を差し置いて購入していたのだった。VR技術の実用化以降初となる試み、ヴァーチャルリアリティMMORPG、ロードオブレグルス・オンラインの発売が発表されてから、僕は受験生であるにもかかわらず死に物狂いでバイトをしてお金を貯め、先月ようやくVR環境の整備まで漕ぎ着けた。生まれて初めてVR利用の契約や専用の回線の配備をこなしたし、高性能な外部処理装置としての初めての自作PCを組んだ。すべてはVR史上初のMMORPGをプレイするために、小説投稿サイトやライトノベルでVRMMOものを読み漁った一人の高校生として、つまりは念願の夢だったVRMMOというゲームをプレイすることに静かに燃えていたのだ。
――正美には悪いけど、せっかくの夏休み、僕はしばらくネトゲ廃人になる。
興奮のために柿の種をむさぼりながら、僕は胸の内で決心を固める。僕自身、これまでそれほどオンラインゲームをプレイした経験のない初心者ではあるものの、VRMMOものの小説、ログアウト不可能、デスゲームといったシチュエーションに、僕は中学生のころから憧れていた。学校の成績ではなく、自分自身の戦闘の実力が評価される世界。つまらない授業や受験のない、自分のやりたいように、好きなように生きることのできる世界。もちろんログアウト不可能だったりデスゲームだったり、そういったシチュエーションはフィクションであると理解してはいるのだけれど、そこならば、僕はきっと肩書や成績に縛られることのない生活をすることができるのだと幼心に信じていたのだ。
僕は手持無沙汰になって、メインモニタに表示しているキャラクターをなんとなしにくるくると動かした。黒髪短髪に精悍な顔立ち、透き通る青磁の瞳の男性。体格は実際の僕とそれほど変わらない、肩幅や胸板は顔との違和感のないようにある程度調整しているけれど、それも実際にVRで操作することを想定して、公式で推奨されている、支障が起こらない程度のマージンに抑えてある。ゲーム特有のデフォルメが施されているとはいえ、拡大をしてもほとんど生身に遜色ないほどテクスチャの解像度が高く、髪の毛に至っては繊維の一本一本が見えるほどだ。いや、もちろんVRなのだから髪の毛は当然一本一本別れていなければならないのだけれど、実際にプレイすることのできるゲームでこれほどのモデルの精密さを実現したものはいまだかつてなかったように思う。
キャラクタークリエイトをゲーム内で行うとすると、クリエイトに要する時間でプレイヤー間に不公平性が生じる。キャラクターの作成は、特にこだわるプレイヤーはとことんこだわる段階であるために、パッケージを購入すると、クリエイト画面、また、VR機能を用いた専用のキャラクタークリエイト用のステージで、ゲーム内で使用するキャラクターを先行して作成することができるのだった。性別――キャラクタークリエイトでは実際と異なる性別のキャラクターを作成することができるものの、ゲーム内ではリアルの性別のキャラクターしか選ぶことができない――や種族、オーソドックスなそれらの選択肢に加え、ロードオブレグルス・オンラインでは体格や骨格、身長、顔立ちなど、女性ならば胸の大きさに至るまで、細かなモデルの調整をすることが可能だった。もとよりこれは様々な体格のプレイヤーを想定しての機能ではあったのだけれど、一部のプレイヤーが、『理想の嫁』などといって異性のキャラクターを作成して遊んでいるという話を耳に挟んだこともある。
僕自身はもともとあまりキャラクター作成に時間を割くような人間ではなかったものの、初めてVRというものを体感して、またモデル作成の自由度の高さや解像度の高さに驚愕して、ここ一週間はほとんどキャラクタークリエイト用のステージに入り浸っていた。黒髪で短髪、というのは、僕自身の根暗で生真面目な性格に対するコンプレックスを反映したものだけれど、僕は少なからず自分が作成したキャラクターを気に入っていた。よくある小説の主人公のような容姿だけれど、静かな印象の青磁の瞳は僕の最も好きな色を設定した。僕の実際の僕とは程遠い整った容姿とはいえ、『カヅミ』は紛れもなく僕自身が生み出したキャラクターだし、なにより僕は、この容姿をまとっていれば、普段の根暗な自分ではない新しい自分としてゲームをプレイできる気がするのだった。
僕はぬるくなった麦茶を呷る。ロードオブレグルス・オンラインのサービスインは明日の十三時、僕はしばらくのあいだ、そわそわと公式サイトやウィキ、掲示板やツイーターをせわしなく徘徊するのだった。