猫-4
だらだらと水分が頬を伝っていく。首筋を、背筋を、腰を、汗と言うべきそういった液体が全身を気怠げに覆っている。風は弱弱しく吹いていて、それが心地良くもあり、少しばかり物足りないような気分にもさせる。強風よりかはまだいいだろう、風が強くては歩くのに難儀することだろうし、汗が乾く過程で体温を奪っていくのだから。それに比べるならば、暑くて暑くて仕方のない今の状況でも、風に凍えるよりかは格段にマシだろう。
体をびゅうと風が吹き抜けていく。汗で額に、首筋に、頬に張り付いていた髪の毛は微動だにしないが、頭頂部の髪の毛はそれに呼応してさらさらとたなびく。腕の中の黒い生き物の毛も風に遊ばれるがままにされている。そうか、これが持つ体温も暑くなる原因ということか。猫の体温がはたして何度であったのか記憶にないが、人間よりかは高いだろう。こうして抱えている自分の洋服さえも貫くその温度が、自分は暖かいと感じている。つまり、自分よりも温度が高いのだろうという推測ができるわけだ。(実際のところは、犬が人間よりも体温が高いということを知っていたため猫もそうではないかと考えたに過ぎないのかもしれない。)
足の裏に痛みを感じる。痛みを感じる右足を反射的に上げて、何が原因だったのか覗き込む。黒い塊、それでいて太陽光を反射して少しばかり輝いて見える。重い自信はないが、軽いとも言い切れない自分が踏んだというのに砕けるそぶりはなく、恐らくは踏まれる前とほぼ同じ位置に佇むアスファルトの欠片。随分と大きい、胡桃大のそれを踏んだ故に土踏まずが酷く痛い。猫を抱えているとはいえ、視界を阻害するような大きさでもない。つまりは、自分の警戒が不十分だった、視野が狭かったというわけだ。
ぺたりと座り込み、足の裏を確認する。じりじりと尻が焼かれていくような錯覚を覚えて、それがたいして間違いでもないことに気づいてしまう。太陽は随分と西に傾いたけれども、地表には先までの熱が未だ籠っている。暑い、熱い、黒髪は手で触るのも憚られるほどに熱を持ち、身体は火照り汗を流している。尻は砕けたアスファルトの痛みと、籠った熱に苛まされ、随分と気怠げだ。薄いズボン一枚では随分と心許ない、服を探せたら探そうかと考える。別段必要ではないと言われればそうなのかもしれないが、もしも人がいたらと思うと着なければならないだろうか。いや、人がいたら困るのだ、俺では、対処できないだろうから。話すことはできないし、目を合わせることができるのかも怪しい。嗚呼、肌が痛い、日に焼きすぎたのだろうか。
医者の言葉が頭の中を跳ねまわる。もう少し勇気をだしてごらん、周りの世界は思ったよりも冷たくない。君は諦めているようだけれども、なかなかどうして捨てたものではないのだから。それは嘘だった、現に病院を出た俺を待っていたのは冷笑だったのだから。街を歩く人が皆こちらを見つめて、目の色は青く染まっている。憐憫と、嘲笑に染まった色だ。もしかしたら、気のせいだったのかもしれない、もしかしたらもっと酷いものだったのかもしれない。誰も俺が何を考えているのか、医者であろうと理解はできないだろう。その逆も然り、表層ではにこやかでも深層ではあざけ笑っているのだろう。考え過ぎか、俺の悩み過ぎか、いや、そうだと誰が言い切れる?そんな、一般人の、何もわかってない白痴共が理解できるはずもないだろう。そしてそれは同様に白痴である俺にも言える話だから。
猫娘が俺の指を舐める。汗をかいて、塩味でもするのだろうか。美味しいキャンディだったらよかったのだが、俺の手元には生憎汗まみれの肢体しか残っていない。笑っておくれ、水さえも見つけられず、ただただ真っ直ぐに進むことしかできない俺を。笑っておくれ、人と会うことを恐怖しているというのに、ただただ人境へと進むことしかできない俺を。けらけらと、その薄い桃色の唇で笑っておくれ。さぁ、お前も青い目で俺を見つめてくれ。
「にゃあ」
澄んだ茶色の目を持つ猫は、くすりと口を歪ませる。その手で、その足で、俺の体をよじ登り、股の間に寝転がる。その細く長い両手の指(ああ、今思ってみれば人の指に毛が生えたなんて例は不適だった。もっと適した表現があったじゃないか、毛の伸びた猿の指だ。)、それで俺の腕を優しく抱きとめている。この猫は、一体何を考えているのだろうか。俺の手を玩具代わりにじゃれているのだろうか。顔から、体つきから察するよりも若く、まだまだ保護者に甘えたい年頃だったのだろうか。猫にもそういったことがあるのかわからないが、人間にはあるだろう。
俺みたいなのでいいのだろうか、俺のような、得体のしれない信じられもしない軟弱者、すり減らした精神でへなりへなりとレールを辿っているような者に。
けらけらと風が俺を笑っている。太陽は口を大きくゆがめ、その吐息は体を火照らせる。雲は俺を茶化すように太陽を避け、風が汗を冷まし熱を剥ぎ取っていく。体の芯からじりじりと暑いのに、体の外側は寒い。わけがわからない、あまりに矛盾しているように見えてそれでいて矛盾していない。気温が非常に高いのだろう、体感では八月の終わりかそれ以上だから。時間の経過が地球を温暖化させたのだろうか、人々はあれから地球を温め続けたのだろうか。寒冷化するなんて、一昔前のエスエフ映画で語りつくされた滅亡論だ。実際、これを感じるに温暖化が進んでいるだけだ。ただ、まるで砂漠のように昼夜の気温差が激しいかもしれない。周りの植生からはそうは見えないが。ただ、俺は学者ではないのだ、そういったことは詳しい人に任せてしまえばいい、一般人では正確な判断なんて下せるはずもない。
猫を左手で抱き留め、そのまま立ち上がる。石ころ一つ踏んだだけで、相当時間を食ってしまった。確かに足は疲れていて、これは良い休憩にはなったとしても、時間を食ったことに変わりはないのだ。夜、夜になる前に民家もしくはそれに準じた場所に移動したい。あの大きな狐、あんなものに夜であっては生きていけないだろうから。しかし、人を殺せるだけの、餌にできるだけの大きさの動物は限られてくる。先の狐か、あとは想像できるなら狼と熊だろうか。どちらも寒い場所に住む動物なのだから、ここらには住んでいないのかもしれない。マレーグマなんてものもいったけか、レッサーパンダなんてものもいたっけか、どちらにしても酷く弱弱しく檻の中で転がっていた、懐かしい記憶。あれも家族でいったのだっけ、幼稚園の遠足でもいったのだっけ、小学校ではどうだろうか。そのくらいまでは、皆が皆赤色の眼差しを、暖かい色の眼を向けてくれていた。変化したのは、中学か高校か、どちらもほとんど通っていないか。
嗚呼、今はどこにいるのだろうか。目の前の県道へと続く道は、思ったよりも長かったようだ。あと数百メートル、あと数百メートル、そういった考えが何度も浮いてきて、そして沈んでいく。あとどれだけ進めば県道との交差点に辿り着くのだろうか、晴天より体を突き刺す光が、恵みの光が体力を奪い去っていく。恐らく、振り向けば自分が歩いた軌跡というものが残っているような気がした。実際はすぐさまに乾いてしまうだろう、ここまで暑くては、既に足の裏の温度感覚も危ういのだから。気分はヘンゼルとグレーテル、誰かがこうやって地面に垂らしたお菓子を辿ってくれるだろうと信じてみるけれど、物語と同じようにこぼしたお菓子は何者かにかすめ去られていく。無意味な行軍かもしれない、こうしてこの場で死んだほうがいいのかもしれない、そういった死神の囁きが聞こえてくるような。ただ、何故かそれは嫌だ、何故だかわからないが、それは本能が拒否している。もしかしたら、この世界を楽しみ始めているのかもしれない。
嗚呼、それからどれだけ経っただろうか。時間間隔なんて存在しないし、なんとなく太陽が沈んでいるような気がする。ただ、空にそれといった目印は存在しなくて、感覚論でのお話になってしまう。俺は時間を感じることしかできない、社会からはみ出したと思っていて、それでも人間の世界から抜け出すことはできていなかったのだ。そうでなくては、こんなにも何度も何度も時間を考えることをしなかっただろう(まるでそれこそ時間に拘束されたかのように。)。時間に囚われ、社会に呪詛をまき散らす、負け犬の遠吠えと言わずに何といおうか、いやはや、考え過ぎるきらいがある。今はとりあえず先に進むことだけを考えていよう、そうすれば足は動くのだから。
猫娘は何時の間にか自分の足の横を歩いている。器用に器用に、ぼろぼろになったアスファルトを、転がったそれの残骸を避けながら気楽に進んでいく。その足取りに迷いはなく、ただただ真っ直ぐをみて足を運んでいる。時折こちらに顔を振り振り、どうしたのと言わんばかりのその顔は見ていて心が安らぐような。そういえば、この猫娘の顔だちはどこから来たのだろうか、西洋人形と言ってみたけれども、何故日本にそんな顔がある?おかしな話ではない、グローバリゼーション、長い長い鎖国から解き放たれ百五十余年も過ぎた日本には幾万もの外国人が住んでいたのだから。ただ、それとこれとは話が違うのかもしれない、西洋風の少女の顔をした猫娘だなんて、そんなおかしな話があるわけないだろう。いや、俺が知らないだけかもしれない、引きこもり、世界から目を背け続けていた自分が見過ごしていただけで、世界ではそういった猫が発見されていたかもしれないのだから。もしくは、この世界はそれだけ進んだ世界なのかもしれない。人間の顔を模した猫を創りあげることができるくらいの技術に溢れた世界になっているのか、それともそういった方向に猫が進化しなければならない世界になったのだろうか。恐らく前者だろう、そうでなくてはアスファルトはもうなくなってしまっているのだろうから。それか、この猫が突然変異かもしれない、人面犬なんてそういった理由なのだろうから。くすくす、猫が笑っている、にゃあと鳴けばいいものを、どこにそんな知恵があるのだろうか。
見ているだけでは決して感じ取ることができない太陽の動き、時折見るのが正解だろうか。それとも、自身が向いている方角を覚えたうえで影を見るのがいいのだろうか。とりあえず、いつの間にか県道に辿り着いていた。少しばかり下っている道を進んでいれば、合流地点に辿り着いた。トの字を鏡で反転させたような形になっている先の道と県道の位置関係。東か西か、そういったことを考えなければならなかったのだが、それは許されなかった。合流したことに気が付いたのは、足元に見えるアスファルトが少しばかり広くなったから。そして、目の前で合流する道の西側が山に向かって一直線に伸びていたから。舗装されたそれは土の下に向かって伸びていて、ああ、何かがあったのだろうな。たしかここには山があったような、崖崩れ、地滑り、道が埋もれてしまったのだろう。これでは、西側に進むことは勧められないだろう。
東側に向けば、家々が見える。自分が出てきた小さな小さな道、そこを通っていたときは気が付かなかったが、県道からそちらを見つめて見ればすぐ横に家がある。家の脇から延びていたのだ、その道は。ああ、そう考えると俺が歩んできた道は覚えていたものと違ったのだということをひしと感じさせる。よく似ていて、それでいて違ったのだ。全く、記憶違いとはどうしようもない、所詮俺の記憶なんてあてにもならないということが良く分かった。
猫が鳴く、停まってなどいられないと。そうかもしれない、とりあえず家に入ってみようか。金属の柵がしっかりと建っていて、錆びてはいるけれども侵入を拒否している一番近い家は捨て置こう。壁は蔦植物が繁茂していることだし、ガラスは砕けいかにも幽霊屋敷。幽霊を信じているわけではないけれど、どうも入りにくいのだから。
さてさて、どの家にしようか。左手に見えている、少し高みにある家なんてどうだろうか。確かに硝子は砕けているけれども、そちらのほうはまだ蔦に覆われていないように見える。遠くに見える家にしても蔦に覆われているものが多く、どれも朽ちているような。嗚呼、そういうことか。
家までの坂をゆっくりと登っていく、隣に黒い人面猫を携えて、裸足で杖もなく破れた衣類身に着けて。