猫-2
数は少ないながらも、何人も何人もに時を超えて踏みしめ踏み固められたアスファルトが続いていたはずの道を見る。黒々と、そして角が丸まりかけたアスファルト舗装の道であったはずのそれは知っている、記憶のそれとはかけ離れたものになっている。
遠く遠くまで続く黒々とした道、ここまでは記憶上のそれと同じ。逆方向にも伸びていて、俺は右に、北のほうにいけばいいので関係の無いことだが。確実にアスファルトだろうことは足の裏の感覚でわかる。石よりも固く、ガラスよりも鋭利に感じるそれは太陽の光で温められていて、そこは記憶上のそれと変わらなく少し安心する。しかしながら、黒いアスファルト舗装の道路は所々罅割れ、砕け、陥没し、欠片がころころと転がっている。そして路肩から背の低い雑草が浸食し、罅割れた部分からはすくすくと黄緑の草が伸びている。まるで何年も、何十年も放置されたかのように退廃している道路、俺が、少なくとも俺がここを通ったときはもっとしっかりとしていた。確かに古くなっているような気がしたが、ここまで弱ってはいなかっただろう。
一体どれだけの年月が経てばアスファルトはこうも弱ってしまうのだろうか。何十年か、何百年か、もしかしたら何年かもしれない。人が通らなければこうまで廃れることはすぐだろうし、通っていたらそれはそれですぐにぼろぼろになってしまうことは知っている。とはいえ、これはいくらなんでもおかしい光景だ。普通ならば、道路が弱ったらすぐに補修工事を行う筈だろう。それだけの金を政府は、県は、市町村は持っている筈だし、そうしなければ交通の便が悪くなってしまうのだから。交通において最重要案件である筈の道路がこうも弱ってしまうのは何故だろうか。人がもう通らなくなってしまったから。それが一番妥当なところだろう。人々から忘れ去られ、過疎が進行し、日の目を浴びることがなくなってしまった道路が荒廃するのは日の目を見るよりも明らかだ。
しかし、俺は重要なことを忘れている気がする。そう、では何故この短時間でここまで荒廃してしまった?俺が海に浸かっていた時間は下手すると数十分、どんなに長くとも一日はないだろう。それなのに、それだけの時間でこうも荒廃してしまうのだろうか。そうだ、と答えたならば確実に不正解だろう。これはそんな短期間で変貌したようなものではないことは一目見ればわかる。何年か、何十年か、そういった単位での話だ。
だとしたならば、俺は一体どれだけの間漂流していたのだろう。いや、こういう問いはナンセンスだろう、そんな長い間漂流できるなんて在り得ない御伽噺なのだから。この状況だけから推測するに自分は時を超えてしまったのだろうか。あの海に入った少しばかりの時の間に、外の世界の流れは加速していった、それか俺はこの世界においていかれたのかもしれない。どちらにしろ、時の流れからはじき出され、戻ってきた結果がこの様というわけなのだろうか。海という雄大なものが俺を守ってくれたのだろうか、それとも俺をからかったのだろうか、それは俺には分からない。少なくとも、俺にとってはそこまで良いこととは言い切れないだろう。いや、もしかしたらとても素晴らしいことかもしれない。
どちらにしろ、俺は前に進もうと思っている。こんな、常人ならば焦り、正常な思考ができなくなっているであろう状況においても俺はまだまともな思考ができている。それは俺が自暴自棄になったあとだからだろうか、回りまわった挙句に達観してしまったからだろうか。それとも、もともと俺はまともな思考などできていないからだろうか。俺にはそれに関して判断を下す権限はない。そういった判断を下すのは精神科医や心理学者であって、一般人でしかない俺ではないのだから。そうだ、何故それに気が付かなかった。他人の中傷を重く受け止めたこともあったが、何故それに気が付かなかったのだろうか。所詮一般人の、知恵遅れ、知識欠乏、齧った知識だけで他人を批判するような輩が言うことを重く受け止める必要なんてなかったのか?それすらも、心理学者も精神科医もいない今の状況では何とも判断しづらい。あの医者なら何というだろうか、それが知りたい。
多少はマトモだと自負する頭で考える。さてさて、どうしようか。ここがこんな状況であるならば、他の場所はどうだろうか。人がここを通らなくなった理由として一番最適なものは過疎だ。ある程度時間が経ったとしたうえで起きうるだろう可能性で一番高いものは人口減少及び高齢化による都市部への人口集中だろうか。そうしたならば、ここらに人がいないのも頷けるわけだ。これは俺にとって朗報と言うべきだろう。何故ならば、会いたくもない人に会わなくて済むのだから。
なんとなく引っ掛かる、何が引っ掛かるのかはわからないが。何か、重要な点を忘れているような。お粗末な頭、これからどうするかも思いつかない頭では思い付かない。無駄な、そんなことを考えるよりかはこの状況に対する対応を考えたほうが得策だろう。俺の今の目的は、人と隔絶された地に住むこと。今の時点で恐らく目標は達成されているだろうが、一応確認してみないといけない。本当に過疎化が進んでいたりして、ここらに人が住んでないのだったらここに住めばいい。簡単な話だ、それだけで目的が達成されるのだから。
しかし、もしもここらに人がまだまだ残っていたとしたら、俺はもっと別の場所にいくという選択肢をとるだろう。同じ人間の考えることはわからない、近くにいたらまた害されるだけだ、離れるに限る。とりあえずは、この荒れた道を歩いていくべきだろう。そんな判断を下す。
踏みしめる大地、俺は歩みを進めていく。じりじりと射す太陽は俺の体を熱していく。それに加え、舗装された道がぎらぎらと陽光を照り返していて、それにも焼かれていく。足の裏が顕著だ、まるでサウナにでもいるような感覚を覚える。(実際のところは少しばかり違う、あんなにじめじめとしていない。)それでも足を止める様な真似をすることはないし、下を向き続けるなんてこともしていない。あくまで視線は前のほうに、何か足元に不都合があればそれを避けるために視線を落とすことはするが。
砕けた石ころを踏みつける、土踏まずに痛みが走り、思わず歩みが止まる。一応陥没だったり、尖っていそうな場所をさけて草草の上を歩けるようならば歩くように心がけていたのだが、それでも避けられないものはある。後ろを振り向くと、遥か遠くにスタート地点が見えている。どれだけ進んだのかを感じるために、そこらに落ちていた大きな枝を数本組み上げ、道路の上に立てておいたのだ。距離としては、一キロもないくらいだろう。とりあえず、多少の時間歩いたというのが正直な感想だ。生憎と俺は体力がある、引きこもってはいなかったのだ。やることがなかったとはいえ、それなりに運動はしていた。とはいっても、一人で山に登りに行くとか、延々と歩き続けるとか、そういった種類の運動だが。
足の裏に傷跡はなく、少し安心しながら歩いていく。ふと考える、何故安心した?安心する事柄はなかったように見える、少なくとも海水浴に向かっていた俺の心境から考えると残念がることだろう。それなのに何故だろうか、もしかしたらそれこそ一周回ってしまったのかもしれない。一周回って、生の喜びを体が、心のどこかで感じたがっているのだとしたならば……少しばかり面倒くさい。
急に横の林ががさがさとなる。右手側、今まで鳥の鳴き声と木々が擦れる音、そして羽虫の羽音しか聞こえていなかった俺には少々唐突すぎる音。びくりと肩を震わせ、首をそちらにぐるりと捻る。反射的に行動してしまったが、今のは生まれてからの日々の中で一番早く反応できた気がする。
林の奥から音は聞こえてきていて、目を凝らすも良く見えない。明るいこちら側からは、暗い林の奥が良く見渡せないのだ。しかし、音がこちらに近づいてきていることはわかる。何がいるのか、音はそこまで大きくなく、だからといって焦っていないようには聞こえない。狐が兎でも追いかけまわしているのだろうか、それとも別の何かだろうか。俺を狙ってきた肉食動物か、それともここらの人間か。過疎化が進んでいるならば、熊でもいてもおかしくないだろう、ただそれにしては音が軽すぎる。狐か狸というのがいいところだろう。
そのまま立ちつくし、視線を林のほうに向けていると、ついに音の主がこちらに姿を現す。小さな体、黒色の毛並み、細い足、細い腕、それが林を抜けて道路に飛び込んでくる。あまりに完璧な速度で、タイミングで、その生き物はこちらに気が付いても停まることができない。何を考えたのだろうか、飛び越えようとでもしたのだろうか、地面を踏み切りこちらに飛び込んでくる。
滞空時間も、飛んだ高さも足りずに、こちらの腹あたりに飛び込んでくる形となるそれを、腰を落として胸と両手で抱きとめる。ふわふわとした毛並みを両腕が感じ取り、ほのかに鼻に香る獣臭。あまりの衝撃に体がふら付くも、こんなことで倒れる俺ではない。筋力がなくとも、それくらいはできる。あまりの柔らかさに少々驚きながらも、優しくそれの頭を一撫でする。
よくよく見ようと視線を動かそうとしたところで、林の奥から生物がもう一体姿を現す。随分と大きな狐、だろうか。全高は俺の腰ばかりまであり、顔は獰猛そのもの、両足は中ほどから雑草に隠れよく見えないが、身体を金色の毛皮で包みこちらに視線を投げかけている。まるで人から見つめられているように感じるのは、狐の姿があまりにも大きいからか。
その予想外の大きさに驚く。これでは、もしかしたら俺は生き残れないかもしれない。今抱きとめたこれを生贄に捧げなければ、逃げ切れないかもしれない。そんな考えが頭をよぎる。しかし、驚いたのは向こうも同じだったようだ。まるで人のように目を丸くし、口を少しばかりあけた狐。目には狼狽の色が、警戒の色が、まるで初めて見た物を怖がるかのような視線をこちらに投げかけ、ゆっくりと後退していく。そしてすぐに踵を返し林の奥に消えていく狐。その姿を見送りつつ、俺は考える。そうだ、過疎化が進行して人がいないとしたならば、あの狐にとって俺は新種の生物だろう。警戒して去って行ったのは運が良かったからか、戦闘になってはどうしようもないのだから。
一先ずの安心をしたところで、未だしっかりと抱きしめていたそれがもぞもぞと動く。少しばかり居心地が悪そうに向きを変え、こちらに顔を向ける。視線と視線がぶつかり、向こうの頬が少しばかり紅潮する。少しばかり口を開き、そこから声が漏れる。
「にゃあ」
大型の狐に追われて林から俺の腕に飛び込んできたのは猫娘、非常に愛くるしい猫娘だった。大きさは片腕で抱きかかえられるくらい、一般家庭にいるごくごく普通の猫より小さい。漆黒の毛並みは柔らかく、抱きしめているだけで幸せになれそうな、よく眠れそうなほど。細くしなやかな足と腕、尻尾は長くそして細め。指は前足が五本、後足が四本、肉球は柔らかい。それでいて細長い人間のそれと同じような指が伸びていて、いや、人間の手に肉球が付いたうえで毛深くなったといったほうが正しいだろうか。足は人間の足とよく似ていて、しかしながら毛深くそして親指が存在していない。そうやってじっくり嘗め回すように見ていると、猫娘は恥ずかしそうに鳴く。
「にゃあ」
漆黒の毛並みは首筋まで伸びていて、そこから頭部へと続いている。すこしばかり立った黒い猫耳が愛くるしい。だいたい猫耳の下あたりからその毛はなくなり、肌色の肌が見え始める。しかしそれでいて生生しいなんてことはなく、よくよくいる様な人間の肌とほぼ同じ色と質感。まるで西洋人形のような、まだまだ齢十を少しばかり過ぎたような美しい少女の顔がこちらを見上げている。少しばかり高い鼻、その下からは髭が数本ばかり横に長く伸びている。
嗚呼、頬擦りをしたくなるほど可愛らしい猫娘、人面猫。気が付くと、にゃあにゃあと鳴くそれの顎の下をしばらく撫で続けていた。