猫-1
大きな大きな雲から太陽が顔を出す頃、俺は視線を水平線に向ける。深い青色がどこまでも伸びる大海原、視界の果てには空しか見えない。外洋に面しているのか、かなり遠くに陸地があるのだろうか。俺が海水浴(直接的な表現は色々と問題があるだろう、少しばかりぼかしたほうが聞こえがいいなんてことも世の中にはあるのだ。たとえば電車の中でのお客様同士のトラブルなど。)にでかけた場所は外洋に面した半島の先端だった筈だ。だから、そこまで流されていないのだとしたならば、この海の先は遥か遠く別の国にまで繋がっていることだろう。もしかしたら、遥か遠くにある島に流れ着いてしまったのかもしれない。
まあ、確実にこれはあり得ない話だ。なぜならば、流されたとしてそんなに長い間人は生きていられるだろうか。流されている間の記憶がないということは意識がない状態であったか、何らかのショックで記憶を失っているということだろうが、はたして対岸が見えなくなるほど離れた場所にある島まで流されて、生きているなんてことがあり得るはずがない。確実にどこかで溺死しているか、それともどこかで魚に啄まれているか、いや、その場合は死んだあとのほうが多いだろうか。つまり、俺としては随分と不運なことながら、海水浴にでかけた地点からそこまで離れた場所ではない場所に辿り着いたということだろう。
頬を焼くような日差し、じりじりと黒く焼き上げられていく。頬だけではない、臀部も、脇腹も、腕も、首も、足も、おおよそ影になっていない場所全てが焦がされていく。そのまま、体をうつ伏せに倒す。背中を焼いていく太陽、日の光を十分に吸収した砂浜は熱をもっていて、しかし暑すぎず心地よい。腹が温められていく、胸が温められていく、柔らかみのある温度は、俺の背中を暴力的に熱すそれとは段違いだ。ついつい眠くなってくるような、重くなる目蓋を必死にこじ開ける。今寝てしまっては駄目だ、必ず今晩、いやこれから酷いことになる。確実に後悔することになるだろう、だから避けなくてはならない。
起きるために身体を起こす。少し動かすだけで、結構眠気はとれていく。流木に干していた服は温まり、まだ少し湿り気を帯びている。服自体が少しばかり白みがかっているのは塩水のせいだろうか。それを叩き、少しでも塩気を落とすようにして左手に持つ。
これからどこに向かうとしようか。いや、まずは何をするとしようか。正直に告白すれば、特にやりたいことはない。やりたいことがないからこそ俺はわざわざあんな辺境(言い方が悪いことは百も承知だ。そこに住んでいる人に失礼であるし、そこで仕事をしている人にも失礼である。だからわかっていてほしい、辺境というのは決して悪い意味での田舎とか、何もないとか、そういった侮蔑の意味を込めているわけではなく、魂の拠り所としての故郷、田舎、そういった意味合いだったり、首都から離れた場所という意味合いでしかないということを。)に出てきたのだ。そして、やりたいことも、やる根気も、やる気力も、やる勇気も、そして世界に対する繋がりすらも半ば失ってしまったからこそ、あのような海水浴にでたのだ。あの時の俺にあったのは、2種類の願望のみ。まずは、生命の根源たる海に還りたい、人為的な社会から逃げ出してしまいたいという願望。そして、陸上に住む生物の多くが住む生命の隠れ家である森に逃げ込みたい、人工の社会から隠れてしまいたいという願望。だから、そのうち簡単なほうである海に還るということを選んだのだ。
しかし、非常に残念なことに海はこの願いを拒否してしまった。拒否、無関心による無視よりかは幾分かマシだが、それでも拒絶されたということは俺にとってはかなり衝撃的な出来事だった。本心を語れば、海は、いや自然は誰にでもその門戸を開いていると思っていたし、全てを抱きとめてくれる優しさがあると考えていたのだ。その考えが根本から打ち砕かれ、結果がこの様だ。あゝ、だとしたならば、山に隠れるという選択をしてみようか。願望のうちの1つ、自然を2分するものの内の1つから拒否されてしまったのならば、その逆に挑戦してみてはどうだろうか。流石に両方ともが拒否するなんてことはないだろう。
では、行く場所は森林ということで決定だ。はたして海のそばに森林があるとは到底思えないが、それでも内陸部に入れば森林はあるだろう。いや、しっかりと山脈まで電車なり徒歩なりで進んでこう。どうせもともとはぐれ者、乞食の真似事でもしていればなんとか生きて山まではたどり着けるだろう。そうしたら、山に隠れ住めばいい。とりあえずは、潮風によって成長が阻害されているであろう森林を早急に抜けたいものだ。
足を大きくあげ、ゆっくりと下ろす。砂浜から固められた土へと変わる境を跨ぐ。流木から森林のほうまで歩き続け、そしてぺたぺたと進んでいく。ざくざく、と言う音からぺたぺた、と言う音に変わったのは地面が変わったからだ。日差しに温められ、半ば熱いと感じてくるようになっていた砂浜地帯を抜けて森林地帯へ。地面には雑草が生えはじめ、周りには木々が立ち並び始める。上手くさけないと、森林には打ち捨てられたゴミが、砕けたガラスが、折れた枝が、もしかしたら足の裏に突き刺さってしまうかもしれないのだから。
足の裏に感じる雑草の柔らかさ、ひんやりとした草が足を優しく包む。日差しがあるといっても、草木はそこまで熱されることはない、故に先ほどまでと打って変わって非常に涼しく感じる。足元からの熱、というものがここまで影響力の強いものだとは思っていなかった。地面自体も熱をもつことは無く、水分と雑草の影響だろう、ひんやりと足にその温度を伝えている。
まるで火傷したかのように痛みと熱をもっていた足が冷やされ、こと歩くことにおいて楽々と舵を切ることができるようになる。森林は、細い木々の集合体になっている。太く老齢な木々があるわけではなく、細々とした小さな木々がそこかしこに生えた結果でしかない。とはいっても、細く小さな木々の大きさは5メートル、下手すると10メートル近くあるかもしれない。残念ながら、どれだけの大きさがあるものかわからないのだ。横方向の距離ならば、50メートル、100メートル前後までならなんとか目測で大体の距離を測ることができる。しかしながら、縦方向はそうはいかないのだ。今まで縦方向に見上げた回数なんてほとんどない。確実に横方向に視線を向けていた時間のほうが遥かに多いだろうし、縦方向を見上げても、わざわざ距離を目測しようだとか、まずまず空以外を見上げる様な回数はほかに比べると圧倒的に少ない。故に縦方向においての距離感覚というものはあてにならない。ただ自分より遥かに大きいな、としか考えることができないのだ。
かさり、かさり、地面に少しばかり落ち葉が混ざりはじめて歩行する際に生じる音が変わってくる。足の裏で落ち葉を踏み潰し、視線を下にむけながら歩いていく。もう少しばかり歩けば、舗装された道路に辿り着くだろう。俺があんなに人のいない場所を、(特に閑散期というわけでもないのに人がいなかった)そんな場所を見つけることができたのは、偏にここが地図にも載っていない小さな小さな道だったことが大きいだろう。まるで地元の人々さえも忘れていそうな道、なんとなくアスファルトに舗装はされていたが、あまり人通りが多いように見えなかった道。そこから行くことのできる海岸だったからこそ、あそこまで自由に行動できたわけだ。そこからどれだけ流されたのか分からないが、とりあえず内陸に向かて歩いていればあの道に辿り着くだろう。俺が横道にそれたのは道自体の半分程度、北に行っていたにせよ南に行っていたにせよ辿り着くだろう。山の位置からは南にいったのだと予想しているが、もしかしたら見当違い、記憶違いかもしれない。
足の裏で押しつぶす落ち葉を見れば、ここがどういった場所なのかよくわかる。緑の葉と枯れた葉の比率がそこまで離れているということはなく、故にここが少しばかり風の強い土地だろうという予想ができる。風が強く、もしくは雨が激しいところならば緑の葉でも落ちてしまうことが多いのだから。そんなところも俺が行きに通った道とほぼ同じ、やはりそこまで流されていないのだろう。一先ずは安心ということか。ただ、場所が同じなのは少しばかり問題もある。海に近いということは逆に山に遠い。社会を挟まなければ移動ができないのだ。それに加え、俺には金も何もない。こんな失敗をするとは思ってもみなかったのだ。人の目を避けてどうにか山のほうに向かえないだろうか。山は遥か遠く、ここから歩いても何日もかかるだろうが、辿り着いてしまえば楽だろう。
ぺたり、かさり、両手で枝葉をかき分けながら森林を北へ北へと進んでいく。空は晴れ渡り、気温もそこまで高くない。森林にいるからだろうか、それとも今日が特別なのだろうか。服は首筋に巻きつけているが、そろそろ着替えたほうがいいだろうか。流石に全裸でいるというのは、後々人に会う可能性が高くなることを考えると利点が見つからない。人間、服を着ていればいいのだ。特に俺のような性別では服というものが重要になってくる。大都会にしろ、人の少ない場所にしろ、全裸でいては嫌な顔をされるか、通報されるか。しかし、何を着ればいいというのは決まっているのだ。ズボンと、シャツ、それさえ着てしまえば問題はなくなる。例え靴を履いていなくても、何も持っていなくても、奇異の視線を向けられることはあるが問題はないのだ。ただそれが逆だと変質者だ。靴と帽子を被っただけの人が歩いていたら、とりあえず交番に連れて行かれることだろう。
シャツとズボン、下着を履いていく。これでとりあえずは人に会っても問題ないだろう。社会から逃げ出したいが、捕まりたくはない。完全に隠れて移動するなどできるはずがないのだから、この選択は間違っていないだろう。
森林には鳥の鳴き声が響いている。海猫だろうか、それとも鴎だろうか、海鳥の鳴き声が遥か遠くに聞こえる。そして、木々が擦れあう音が聞こえてくる。動物の鳴き声なんてものはない、ただただ枝枝がしなり、かさかさとした葉音しか聞こえてこない。そういえば、車が走る音が聞こえない。いや、人の通らないような道だから仕方がないだろう。もう少し北にいけば、県道に辿り着くのでそうしたならば車の音が聞こえることだろう。
草をかき分け、枝を折り曲げながら前に前に進んでいく。木々の根っこを何度も何度も踏んで、その度に銭湯によくあるような足つぼ板と同じような感覚に囚われる。尖った枝を踏み、痛みに顔をしかめた回数は幾らだろうか。ただ幸いなことに、足の裏に傷はない。何回も何回も痛みを感じたが、薄皮が破れることもなく順調に進めている。ただ逆に枝をかき分けていた腕には結構なかすり傷を負ってしまっているが。ついでに言えば、身体にいくつもの蜘蛛の糸がまとわりついている。気が付かなかったのだ。
そんなことを言っている傍から蜘蛛の糸が顔面に纏わりつく。嗚呼気持ちが悪い、もう少し見えやすいように色でも付けてくれればいい物を。悪態をつきつつも、歩みを緩めることはしない。別段歩みを止めてもそこまで問題ないのだろうが、それでも一応進んでおきたい。ここで留まっていても、そこまで利益があるなんてことはない。どうせ動くことになるだろう。
生きたいとか、そういった気持ちを覚えたわけじゃない。ただ、海に還ることが失敗してしまい、どうすればいいのか混乱してしまっただけだ。あれは、俺がまだ海に還るときではない、という意思表示だったのか、それとも海に還るなんてとんでもない、という拒否だったのか。それとも、海に還ったことにしてあげるから、もう一度頑張ってみろという意味なのか、それとも次は山に行ってみろという推薦なのか。どれにしても、海に背中を押された形になっている。別段不満がないと言ったら間違いになるのだが、不思議と今の現状を納得している自分がいる。
木々をかき分けていると、視線が開けてくる。足取りは変わらないが、少しばかり気分が軽くなったような気がする。そして、30秒、1分もせずに道路に躍り出る。アスファルトに舗装された、埃をかぶったような道路だったそれは少しばかり様相を変えていて、記憶のそれとの齟齬に心の中の途惑いというものが大きく膨れ上がるのを感じる。
「何が、あったんだ?」