宮廷魔術師様、私は今日であなたを辞めます
「ラファエル様。お話があります。……来月末をもって、補佐官を辞めさせていただきます」
言い終えてから、私は机の上に退職願を置いた。いつもなら書類を受け取るだけのラファエル様の手が、その手前で止まった。
「……本気か?」
「はい」
朝8時。私はいつも通り宮廷魔術院の最上階へ入り、窓を開け、夜のうちに届いた書類を急ぐ順に並べていた。質の悪い魔石には返品の札をつけ、地方支部からの質問には返事も用意してある。
向かいに座るラファエル・レインハルト宮廷筆頭魔術師は、退職願を手に取った。何百行もある術式なら一目で間違いを見つける人が、たった1枚の紙を上から下まで読み、それからもう1度最初へ戻った。
「なぜだ。何か不満があるなら、先に私に言えばいいだろう」
「不満ではありません。魔導具職人になりたいんです。小さくてもいいので、自分の工房を持ちます」
ラファエル様の眉間に皺が寄った。ただ、驚いていたのは長くなかった。この人は問題を見つけると、まず解決方法を考える。
「それなら第4研究棟を使えばいい。西側が空いているし、工房には十分な広さだ。必要なら新しい魔導炉も入れる。補佐の仕事が邪魔なら減らせる」
「そういう意味ではありません。私は魔術院の中に工房が欲しいんじゃなくて、ここを辞めて、自分で店を持ちたいんです」
「なら私の研究室から外せばいい。君だけの工房にして、作るものにも口を出さない。勤務時間だって好きに決めればいい。それなら、わざわざ辞めなくても」
「ラファエル様」
少し強く名前を呼ぶと、そこで言葉が止まった。
「私は、ここを出たいんです」
ラファエル様は私を見たまま、しばらく動かなかった。
「……いつから考えていた?」
「ここへ勤める前からです。最初は3年くらい働いて、お金を貯めたら店を開くつもりでした」
「3年……?」
今度はすぐに次の言葉が出てこなかった。
「今は10年目だぞ」
「知っています」
「なら、どうして今まで残った?」
簡単に答えられるなら、たぶんもっと早く辞めていた。
20歳で魔術院へ入り、24歳だったラファエル様の補佐官になった。3年目に彼が史上最年少で筆頭魔術師へ昇進した時は、仕事が一気に増えたから半年だけ延ばした。5年目には大きな国家研究が始まり、7年目には外国との共同研究が始まった。
これが終わったら。今は抜けられない。あと半年だけ。そんなふうに自分の予定を後ろへずらしているうちに、私は30歳になっていた。
「……言ったら、本当に辞めることになる気がしたんです」
「辞めたいのに?」
「何度も辞めようとは思いました。でも、明日から来なくていいと言われたら、それも嫌だったと思います」
ラファエル様が何か言いかけたので、私は先に退職願を指した。
「来月末まであります。その間にミアさんへ引き継ぎます。ただ、今まで私がやっていたことを全部ミアさんへ渡すつもりはありません。これからはラファエル様ご自身にやっていただく仕事もあります」
「私が?」
「はい。私がいなくなりますから」
彼は不満そうに眉を寄せたが、今度は言い返さなかった。
「では、今日中に人事へ出してきます」
私が手を出すと、ラファエル様は退職願を見た。すぐには返さず、紙の端を親指で一度なぞってから、ようやくこちらへ差し出した。
「……本当に出すんだな」
「はい」
扉まで歩いて振り返ると、彼はさっきまで紙が置かれていた場所をまだ見ていた。
◇
後任になったミアへの引き継ぎは、思っていたより順調だった。彼女は魔術院で3年働いていて覚えも早く、筆頭魔術師を前にしても必要なら普通に注意できる。
「ラファエル様の研究そのものは放っておいて大丈夫です。ただ、魔法が完成した後は確認してください。この方、動いた瞬間に全部終わったと思うところがありますので」
「聞こえているぞ」
「聞こえるように言っています。完成した魔法を実際に使うには、王宮への報告も許可も必要ですから」
それを説明した数日後、王宮へ出した書類が戻ってきた。ラファエル様は差し戻された紙を私の机へ持ってきたが、術式の仕組みはびっしり書いてあるのに、「何に使う魔法か」という欄だけが空いていた。
「見れば防御用だと分かるだろう」
「その書類を読む事務官は術式を読めません。『城壁を守るため』で十分なので、そこを書いてください」
「今までは、どうしてた?」
「私が書いていました。毎回です」
「毎回、君が?」
「はい」
ラファエル様は空欄と私の顔を交互に見たあと、ペンを取った。
「……だったら、言ってくれればよかっただろう」
「何度か言いました」
ペン先が止まった。
「本当に?」
「本当です」
「……そういうところか」
「そういうところです」
それ以降、その欄だけは空かなくなった。
ミアも日に日に仕事を覚えていった。私しか知らなかった手順が減り、確認を求められる回数も少なくなっていく。安心した。それなのに、机の中を片づける時だけは、どうしても手が遅くなった。
◇
退職まで残り20日ほどになった頃、ラファエル様が私の机に置いてあった薄い冊子を手に取った。
「これは?」
「私物です。持ち帰るものを分けています」
「魔導具の設計図だろう?」
開かれたページには、小さな保温器が描いてある。その次は持ち運べる明かり、その次は少ない魔力で火をつける道具。戦争にも大研究にも使えない、暮らしの中の不便を少し減らすためのものばかりだった。
「この保温器、外へ逃げる熱を戻しているのか。だったらここの経路を3本に分ければ、魔力の偏りが――」
ラファエル様の指が止まった。私が黙って見ていると、彼は設計図から手を離した。
「……今、私は余計なことをしたか?」
「少しだけ」
「……やっぱりか。悪かった」
以前なら、そのまま私のペンを取って書き込んでいただろう。けれど今日は、それ以上触らず冊子を返してきた。
「君が作るものだからな。私が勝手に完成させたら意味がない」
「一番古い設計は12年前です」
「魔術院へ入る前か?」
「はい。店を開いたら最初に作るつもりでした。でも、まだ1個も作ってません」
紙の端は黄色くなり、何度も開いた跡だけが残っている。
「12年もあったのに?」
「今日の仕事が終わったら、今の研究が終わったら、この忙しい時期が終わったらって、ずっと後回しにしてきたので」
自分で言っていておかしくなり、少し笑った。
「たぶん、自分の魔導具を作るより、あなたの仕事を手伝ってる方が楽しかったんですよ」
ラファエル様は何も言わなかった。私もそれ以上は続けず、冊子を鞄へしまった。
◇
その3日後、ラファエル様に午後の予定を1時間だけ空けるよう言われた。
着いたのは王都の中心街だった。大通りから1本入った場所に、看板を外したばかりの魔導具工房がある。
「半月前に店主が引退したんだ。建物も道具もまとめて手放したいという話だったから、買った」
嫌な予感はした。けれど、中へ入った瞬間、その予感より先に目が動いた。
壁いっぱいに工具がある。材料棚は天井近くまであり、奥には保管庫もある。使い込まれた大きな作業台は傷だらけだったが、中央には新しい魔導炉が据えられていた。
「これ、新型ですよね」
「ああ。前の炉は古すぎた。君なら細かく火力を変えられる方が使いやすいだろうと思って、それだけは替えた」
作業台へ手を置いて高さを確かめる。少し高いが、椅子を替えればちょうどいい。大きな窓から午後の光が入っていて、細かな部品も見やすそうだった。
奥の棚を開けると、魔石も金属板も十分に入る。ここなら12年前の保温器を作れる。窓際には細工用の机を置けるし、奥の棚には魔石を種類ごとに並べられる。
私はもう、この工房をどう使うか考えていた。
「2階は住めるようになっている。仕入れ先も前の店主から紹介してもらえる。最初から全部探すより、その方が楽だろう」
ラファエル様が工房の鍵を差し出した。
「明日からでも使える」
私は鍵を見た。手を伸ばせば届く距離だった。
「……申し訳ありません。これは受け取れません」
「何か足りないものがあるのか? 作業台なら、さっき少し高そうにしていたな。そこはすぐ直せる」
「違います。足りないんじゃありません」
そこまでは、いつもの声で言えた。
「十分すぎるんです。炉も、作業台も、棚も……私が欲しかったものが全部あります」
口にすると、さっきまで浮かれて見て回っていた自分が急に恥ずかしくなった。
「だから受け取れません」
「……分からない。欲しかったものが揃っているなら、なおさら使えばいいだろう」
「これをもらって、ここで店を始めて、あなたが用意した仕入れ先を使って……それでうまくいっても、私はたぶん、自分で始めたと思えません」
ラファエル様の眉間に皺が寄った。
「君が作る魔導具は君のものだ。私が場所を用意したからといって、君の腕まで私のものになるわけじゃない」
「そうですね。理屈では分かります」
「なら、どうしてそこまで嫌がるんだ。私は君をここへ縛りつけるために買ったわけじゃない」
その言葉に、胸が痛んだ。
「分かっています。だから、余計に困るんです」
作業台に置いていた手を離した。
「12年も作れなかったものを、明日から作れるんだぞ。店を探して、道具を揃えて、仕入れ先を探して……そこに何年も使う必要があるのか? 君がやりたいのは、店を探すことじゃなくて魔導具を作ることだろう」
「……私も、こんな工房が欲しかったです」
ラファエル様が黙った。
「欲しくないから断ってるんじゃありません。むしろ逆です。ここなら明日から始められるし、失敗も減るでしょう。仕入れ先だって探さなくていい。それが……怖いんです」
「怖い?」
「また、あなたに頼るのが」
言ってから、一度口を閉じた。このままでは、また仕事の報告みたいに綺麗にまとめて終わってしまう気がした。
「あなたが悪いわけじゃないんです」
ラファエル様が私を見る。
「夢を諦めろなんて、一度も言われてません。辞めるなとも……言われてない。私が残ったんです。ずっと、自分で」
ラファエル様は黙っていた。
「3年で辞めるつもりでした。でも、あなたが筆頭になって忙しくなって……じゃあ、もう少しだけって。次の研究が始まったら、それが終わるまでって。そうやって……」
そこで息が詰まった。
「10年ですよ」
笑おうとしたけれど、うまくいかなかった。
「私、30歳になっちゃいました」
「エルザ」
「嫌だったわけじゃないんです!」
思ったより大きな声が出た。
「そこが一番困るんです。嫌だったなら、辞められたんですよ。つらかっただけなら、とっくに辞めてます。でも……楽しかったんです。あなたの仕事を手伝うのも、研究がうまくいって嬉しそうにしてるのを見るのも……全部」
喉が震えた。
「だから残ったんです。私が残りたくて残った。誰のせいにもできないんです」
ラファエル様が何か言いかけた。
「……すみません。今だけは、最後まで聞いてください」
彼は何も言わずに口を閉じた。
「私、10年を返してほしいなんて思ってません。後悔もしてないんです。してないから……だから、怖いんです」
一度息を吸った。
「このままここにいたら、また同じことするからです。来年も、再来年も。あなたが忙しいから、今抜けたら困るから、もう少しだけって……たぶん、また言います。私、自分に」
視界が滲んだ。
「そうしたら、次に気づく時、40歳かもしれない」
ラファエル様の顔を見られなくなった。
「それでも私、たぶん……幸せなんですよ。あなたの隣にいれば」
言ってしまった瞬間、涙が落ちた。
「それが嫌なんです……!」
声が震えた。
「幸せだから離れられないなんて、そんなの……どうしたらいいんですか」
「エルザ……」
「好きだったんです」
一度こぼれたら、もう取り繕えなかった。
「ずっと、好きでした。だから残ったんです。あなたに必要とされたかったし、役に立つのが嬉しかった。名前を呼ばれるだけで……今日もいてよかったって、何度も思った」
涙を拭った。
「でも、もう嫌なんです。あなたが嫌なんじゃない。ここが嫌なわけでもない。私が……私のことを、ずっと後回しにするのが嫌なんです」
ラファエル様は何も言わなかった。
「あなたが好きでした。でも、あなたの隣にいたら私は一生『あなたの補佐官』なんです」
今度の声は、不思議なくらい小さかった。
「私、自分の名前で何か作りたいんです」
工房の中には、魔導炉の冷却音だけが残った。
ラファエル様は手の中の鍵を見ていた。しばらくして、その鍵を握り直した。
「私は……君が辞めたあと、困らないようにしてやりたかったんだ」
声は低かった。
「店を探して、金を貯めて、道具を揃えて……そんなことをしているうちに、また何年も過ぎるかもしれないだろう。それなら最初から用意してしまえば、君は作りたいものだけ作れる。私は、本当にそれでいいと思っていた」
何も言えずにいると、ラファエル様は新しい魔導炉へ目を向けた。
「この前、君の設計に口を出しかけただろう。あれで分かったつもりになったんだ。作るものに触らなければいい。場所を用意するだけなら、君の邪魔にはならないって」
少しだけ自嘲するように笑った。
「……全然、分かってなかったな」
「ラファエル様」
「残ってほしかったんだ」
その言葉に、今度は私が黙った。
「仕事が重いなら減らせばいい。工房が必要なら用意する。何か足りないなら、それを足せばいい。そうやって一つずつ辞める理由をなくせば、まだここにいてくれるんじゃないかって……そんなことばかり考えてた」
ラファエル様はポケットへ鍵をしまった。
「でも、そういう話じゃなかったんだな」
「……はい」
その返事をするのが、思っていたより苦しかった。
「この工房は君には渡さない。客も金も、こっちからは何も出さない。君が本当に困って、自分から頼んできた時だけ手を貸す。それでいいか?」
「ありがとうございます」
「……それを言われると、腹が立つな」
泣いていたのに、少し笑ってしまった。
「そこは我慢してください」
「我慢することばかり増えるな」
「例えば?」
「君が困っているのを知っていて、何もしないことだ。今までなら、困っていると分かった時点で勝手に手を出していた」
少し考えてから、ラファエル様は息を吐いた。
「たぶん、そういうところから直した方がいいんだろうな」
「全部が悪かったわけじゃありません。ただ……今回は、自分でやってみたいんです。失敗するところまで」
「分かった。いや……また分かったつもりになるのはやめておく。とりあえず、手は出さない」
それから、しばらく誰も話さなかった。
「エルザ」
「はい」
ラファエル様は私を見た。
「君がいなくなるのは嫌だ」
胸が詰まった。
「正直、まだ引き留めたい。今でも、何か言えば考え直すんじゃないかって思ってる」
そこで少し苦い顔をした。
「でも、今ここで何を言っても、君を引き留めるために言ってるように聞こえるだろう」
「ラファエル様」
「だから……今は、やめておく」
一度口を閉じてから、今度は少し言いにくそうに続けた。
「ただ、一つだけ聞いていいか」
「はい」
「辞めても、また会ってくれるか」
また涙が出そうになった。
残れと言われたら断れた。工房を受け取れと言われても断れた。でも、それは違った。
「……はい」
その返事だけは、迷わなかった。
◇
退職の日は、驚くほど普通に来た。
私はいつもの時間に執務室へ入り、最後の仕事を終えた。ミアはもう大半の仕事を覚え、ラファエル様も王宮へ出す書類なら自分で書けるようになっている。
「ちゃんと『何に使う魔法か』まで書いてありますね」
「さすがに覚えた。昨日は財務官への説明も自分でやったぞ」
「ミアさん?」
「2回だけ助けました」
横から答えたミアに、ラファエル様が不満そうな顔をした。
「2回だぞ。ほとんど自分でやったようなものだろう」
「前なら私が全部やってましたから。大進歩ですよ」
「最後だからといって好き放題言うな」
私は笑いながら、机の鍵をミアへ渡した。
「全部、私と同じにする必要はありません。ミアさんのやり方でやってください。それから、何でも先回りしすぎないこと。やりすぎると10年後、書類の使い道すら書かない筆頭魔術師が完成します」
「そこまでにはしません」
「本人の前で完成品扱いするな」
ミアが吹き出し、私も笑った。
その声が収まると、10年間使った机が急に他人のものに見えた。毎朝開けた窓も、本を戻してきた棚も、明日から私が触る理由はない。
「それでは、これで失礼いたします。10年間、お世話になりました」
頭を下げ、扉へ向かった。
「エルザ」
呼び止められて足が止まった。戻れと言われても断る。それでいいはずなのに、振り返るまでの一瞬だけ、別の言葉を期待した。
ラファエル様はしばらく私を見たあと、小さく息を吐いた。
「……10年間、ありがとう。君がやっていたこと、たぶん私は半分も分かってなかった」
「半分どころじゃないと思いますけど」
「最後くらい少しは甘く見てくれ」
笑ってから、私は頭を下げた。
「こちらこそ。本当に、お世話になりました」
それ以上は話さず、部屋を出た。廊下の角を曲がり、執務室の扉が見えなくなってから壁に背中を預けた。
涙が出たが、今度は拭かなかった。
◇
半年後。
「エルザさん、これも見てもらえるかい?」
「もちろんです。そこへ置いてください」
老婆が抱えてきた古い湯沸かし器を作業台へ載せる。裏蓋を開けると、魔石を支える金具が焦げていた。
「金具を替えればまだ使えます。明日の夕方には返せますよ」
「よかったよ。パン屋の奥さんがね、『エルザさんの店なら古い物でも直してくれる』って教えてくれたんだ」
手にしていた工具が一瞬止まった。
「そうですか。ありがとうございます」
老婆を送り出したあと、入口を見る。
《エルザ魔導具工房》
自分で書いた看板は、半年経っても少し右上がりのままだった。
店は王都の中心から外れた裏通りにある。魔導炉は中古で、作業台には前の持ち主が残した傷がある。材料棚は開店した頃には半分も埋まっていなかったが、今は金具や魔石の箱が少しずつ増えていた。
開店初日は客が1人も来ず、3日目に入ってきた人は道を聞いただけだった。最初の仕事は、近所のパン屋が持ち込んだ壊れた保温器の修理だった。
それを返した時、おかみさんから「こういうの、新しく作れないかね」と頼まれた。私は12年前の設計図を出した。
1個目は熱くなりすぎた。2個目は魔力を使いすぎ、3個目は一晩動かしたら底板が歪んだ。4個目をパン屋へ持っていき、数日試してもらった。
『エルザさん、これ便利だねえ』
その夜は店を閉めても、しばらく作業台を離れられなかった。来週、その改良版を正式な商品として初めて納める。
店を開いた日、私はラファエル様にも手紙を送った。
『今日、工房を開きました。王都西区の鐘楼通りを入ったところです。看板は少し曲がりましたが、なんとか始められそうです』
返事は翌日に届いた。
『開店おめでとう。手紙を読んで安心した。無理だけはするなよ』
短い手紙だったけれど、あの人らしいと思って笑った。それから3か月、一度も店には来なかった。
夕方、最後の修理品を棚へ戻していると、入口のベルが鳴った。
「いらっしゃいませ……っ」
その人を見た瞬間、続きが出てこなかった。
ラファエル様だった。
半年ぶりだった。銀色の髪が少し乱れているところも、外套の留め具を1つ掛け違えているところも変わっていない。
「……久しぶりだな」
「お久しぶりです」
ようやくそれだけ返すと、ラファエル様の表情が少し緩んだ。
「元気そうだな。安心した」
「おかげさまで。今日はどうされたんですか?」
ラファエル様は鞄から小さな魔力測定器を取り出し、作業台へ置いた。
「これを見てほしい。3日前から測定値が安定しないんだ。自分で開けようとも思ったんだが……途中でやめた」
「珍しいですね」
「勝手に触るな、と君に怒られる気がしてな」
受け取って裏返すと、角に新しい傷がついていた。
「落としましたね?」
「落としてはいない。机の端から床へ移動しただけだ」
「それを落としたと言うんです」
「半年ぶりに会って、最初にそこを責めるのか」
思わず笑った。こんなやり取りをするのも久しぶりなのに、不思議なくらいすぐ昔の調子に戻れた。
「30分くらいで直せます。待ちますか?」
「待ってもいいか? せっかく来たのに、置いて帰るのも何だしな。邪魔はしないから」
ラファエル様は壁際の椅子へ座った。
作業を始めてしばらくすると、視線を感じた。顔を上げると、ラファエル様がこちらを見ている。
「……見たいんですか?」
「見たい。かなり」
「そんなにですか」
「ただ、近づいていいのかが分からない」
思わず手が止まった。
「手を出さないなら、近くで見てもいいですよ」
「本当に?」
「はい」
ラファエル様は立ち上がったものの、作業台からきっちり1歩離れたところで止まった。
「そんなに離れなくても大丈夫です」
「前は近づいた時点で勝手に口を出していたからな。このくらいが安全かと思って」
「極端ですね」
「自覚はある」
また笑ってしまった。
測定器を開くと、衝撃で曲がった金具が魔石をわずかにずらしていた。部品を交換し、ついでに揺れに強い形へ替える。ラファエル様は本当に手を出さず、少し離れたところから黙って見ていた。
「できました。銀貨4枚です」
ラファエル様は測定器を受け取り、魔力を流した。表示された数値を何度か確かめてから、小さく眉を上げる。
「前より安定してるな」
「金具を替えました。前より少し衝撃にも強くしてあります」
「それなら、次に床へ移動しても」
「落とさないでください」
「……分かった。気をつける」
鞄へしまう前に、ラファエル様はもう1度測定器を眺めた。
「良い仕事だ」
返事をするまでに、ほんの少し時間がかかった。
「ありがとうございます」
銀貨4枚を受け取り、領収書を渡した。
これで、客としての用事は終わりだった。
ラファエル様は領収書を鞄へしまったものの、すぐには帰ろうとしなかった。私も何となく次の客を待つふりをして、工具を片づける。
その沈黙の中で、ずっと気になっていたことを思い出した。
「そういえば、ラファエル様」
「何だ?」
「開店した時の手紙、届いてましたよね」
「ああ。ちゃんと読んだよ」
「場所も書きました」
「……書いてあったな」
ラファエル様が少しだけ目を逸らした。
「じゃあ、なんで3か月も来なかったんですか?」
「……それは」
珍しく、すぐに答えが返ってこなかった。
「何度か来ようとはしたんだ。手紙をもらった時も、次の休日には見に行こうと思ってた」
「だったら来ればよかったじゃないですか」
「私もそう思う」
ラファエル様は困ったように眉を寄せた。
「でも、あの時、君が自分で工房を持つまでは何もしないと言っただろう。店を開いたなら、もう顔を出してもいいのか。それとも、それも余計なのか……考えてるうちに、妙に来づらくなった」
「それで3か月?」
「……3か月だな」
「考えすぎです」
「それは今、かなり反省してる」
あまりに真面目な顔で言うので、とうとう吹き出した。
「それで、今日は測定器が壊れたから来たんですか?」
「ああ。壊れた時、最初に君の店が浮かんだ。修理を頼む客なら、さすがに来てもいいだろうと思って」
「まさか、わざと壊してませんよね?」
「そこまで情けないことはしてない」
ラファエル様は少し間を置いた。
「ただ、壊れた時に……少し助かったとは思った」
「もう」
笑いながら呆れると、ラファエル様も少し笑った。
それから今度こそ鞄を持ち、扉へ向かう。
「エルザ」
振り返ったラファエル様が、少しだけ言いにくそうに口を開いた。
「今度、食事に行かないか?」
一瞬、返事が遅れた。
「……いいですよ」
「本当か?」
「はい。ただし、お店は私が決めます」
「ああ。任せる」
「それから、私はもう補佐官じゃないので、遅刻したら置いていきますからね」
「それは困るな。今度はちゃんと自分で予定を確認しておく」
ラファエル様が扉を開ける。
その背中を見て、私は呼び止めた。
「ラファエル様」
「何だ?」
「次は、壊れた物がなくても来ていいですよ」
言ってから少し恥ずかしくなった。でも、取り消す気にはならなかった。
ラファエル様は一瞬だけ黙って、それから笑った。
「ああ。そうする」
ベルが鳴り、扉が閉まった。
私は《営業中》の札を裏返してから、作業台へ戻った。来週パン屋へ納める保温器が、布の上に置いてある。
仕上げに、底面へ小さな刻印を入れる。
《エルザ》




