王妃様に「お飲みなさい」と毒杯を差し出された侯爵令嬢の幸福な死
「ミランダ、これをお飲みなさい」
冷たい声が静まり返った室内に響いた。
呼び出された王妃ジョセフィーヌ様の私室には、他に誰もいない。人払いがされ、常に彼女の側に控えている侍女や護衛すら排除されていた。
「……こ、れは?」
「早くなさい」
有無を言わせぬジョセフィーヌ様の威圧感に、体が竦む。震える手を伸ばし、目の前に置かれた銀色の杯を手に取った。
覗き込んだ杯には澄んだ琥珀色が揺れている。杯の内側が黒く変色していないことに小さく安堵が漏れた。
毒ではない? それとも銀に反応しない新手の毒?
今の私に深く考える余裕はない。
――どちらにしても、拒むことは許されないのだ。
銀杯を口元に運び覚悟を決めて飲み下す。
喉から胸へと液体が通りすぎると、カアッとした熱が追いかけてきた。
「……っぐ、がはっ、ごほっ」
激しく咳き込み、私の手から銀杯が滑り落ちる。残った琥珀色が絨毯に吸い込まれていくのをぼんやりと眺めながら、私の体はその場に崩れ落ちた。
ああ、どうしてこんなことになってしまったの?
ぐらんぐらんと回る視界に思考が過去へと遡る。
すべてはそう、六年前のあの日――
当時十歳だった私は、父親同士の仲がよかった一つ年上のエルヴァンと婚約していた。八年後、私が成人を迎えたら結婚するのだと私も彼もこれっぽっちも疑うことはなかった。
しかし、王家主催の茶会で王子ヘリオスが、エルヴァンと一緒に楽しそうに笑っていた私に『一目惚れした』と言い出したのだ。程なくして王家から我が家へ正式な婚約の申し入れがあった。
王家からの申し入れに両親は『娘が王族に嫁ぐ』と野心を抱き、私の気持ちを無視し二つ返事で了承してしまう。更に、エルヴァンとの婚約を一方的に解消し彼の家族との交流も絶たれたのだ。
こうして私は好きな人と引き裂かれ、王子の婚約者となってしまった。
それから六年。
年々厳しさを増す妃教育のため住まいを王城に移されてから、私の自由はすべて奪われた。気がつけばいつしか笑うことすら忘れ、ただ義務をこなすだけの日々。
六年の間にあどけない少年から精悍な青年へと成長したエルヴァンは新しく伯爵家の令嬢と婚約し、仲睦まじい姿を度々夜会で見かけた。
彼が私以外に向ける柔らかな笑顔に、私以外の名を呼ぶ低い声に、私の初恋は、殺されたのだと悟った。
私に一目惚れをしたはずのヘリオスが、笑顔が消えた私への興味を失くしたのは随分前のこと。そして彼が新たな恋に落ちたのは、最近のことだった。
相手はブルック子爵家のアンジェラ嬢。彼女がひとたび微笑めば周囲に花が咲く。ヘリオス好みの笑顔の少女。
『僕は真実の愛に目覚めたのです。ミランダとの婚約を解消し、新たにブルック子爵家のアンジェラと婚約を結びたい』
玉座の前で真剣な眼差し、大袈裟な身振り手振りで語るヘリオス。その隣には彼にぴたりと寄り添い愛らしい笑顔を浮かべる蜂蜜色の髪と、晴れ渡る空色の瞳のアンジェラの姿があった。
悲しみすら湧かない。私の心にあるのは、虚しさだけ。私の六年間はなんだったのだろう?
あまりに身勝手な物言いと、婚約者の前で令嬢を侍らせる思慮を欠いた行動に居並ぶ大臣たちの間に冷ややかな空気が走った。
陛下の隣に佇むジョセフィーヌ様の揺るがない表情の下で、膝に置かれた扇を握る手に力が込もっているのが見えた。
『ヘリオス、王家が望んだ婚姻を一方的に破棄すれば、我が王家の威信は地に落ち、ミランダの実家であるウィロー侯爵家の派閥から不信を買うことになるとわかっているの?』
『常に隣で笑顔でいてくれるアンジェラこそ、ずっと思い描いていた理想! 僕たちが愛し合う姿を見れば皆もわかるはずだ』
ヘリオスはアンジェラの肩を抱き寄せ、胸を張った。アンジェラもまた、ヘリオスを見上げ頬を染めている。甘く蕩けた視線。まるで、世界に二人だけしかいないかのようだった。
諭すようなジョセフィーヌ様の言葉は、恋に盲目となっているヘリオスにはついに届かなかった。
『……婚約の解消など前代未聞の事態だ。だが王家の信義とヘリオスの想い、どちらも軽々しくは扱えん。結論は急がず、まずは検討しようではないか。何が我が国にとっての最善か、じっくりとな』
一人息子であるヘリオスが幼い頃から彼を甘やかしてきた陛下は、やはりどこまでも親馬鹿なのだ。
『ありがとうございます、父上!』
吹雪が吹き荒ぶような凍てついた場で、ただひとりヘリオスだけが晴れやかな表情を浮かべていた。
婚約解消の結論が出るまでの間、アンジェラも王城で生活することになる。
私の実家であるウィロー侯爵家からは、一通の手紙が送られてきた。
『妃になるのはおまえだ、ミランダ。殿下に捨てられたら価値がなくなる。身体を使ってでも殿下に縋り殿下の婚約者の座を守るのだ。もしも婚約を解消されたら我が家の敷居は跨がせん』
そこに、娘を案じる言葉はひとつもなかった。
私は、誰にも愛されていなかった。
家族からも王家からも道具として扱われ、そんな女だから初恋を踏みにじっても構わないというの?
床に崩れ落ちた体が燃えるように熱くなっていく。
――熱い。体が熱いわ。
これで何もかも終わりにできるのね。
そのまま遠のいていく意識に身を委ね、私は静かに瞳を閉じた。
*
ミランダ・ウィロー侯爵令嬢が急逝した。
そんな噂が城のそこかしこから聞こえてきたのは、アンジェラが王城に滞在し始めてから一月。ミランダの姿が見えなくなってから数週間経った頃だった。
執務の合間に王城の回廊を歩いていた僕の耳に、偶然彼女の名前が飛び込んでくる。
「ミランダ様、最近お姿を見せないと思っていたが、亡くなられたというのは真か?」
「ああ。表向きは急病らしいが、ここだけの話、毒を飲まされたって噂だ」
「毒を? なんでそんな……まさか、あの子爵令嬢を妃にと押す連中の仕業か?」
詰所から休憩中らしい騎士たちの会話が漏れ聞こえ、僕は思わず立ち止まり聞き耳を立てた。
「しっ、声がデカい……! なんでも子爵令嬢が言ったらしいぜ。『ミランダ様は妃教育で得た知識があるから、他国へ嫁いでも困らない』って。で、それを聞いた上層部が青ざめたんだとさ。ミランダ様を城から出したら機密が漏れるってな」
「それじゃあ、あの令嬢の一言が引き金か? 恐ろしい、恐ろしい」
頭を殴られたような衝撃が駆け巡った。
ミランダが毒殺された? それもアンジェラの不用意な発言が原因で? まさか、そんな。あり得ない。
頭の中が真っ白になり、心臓が壊れそうなほど早い鼓動がうるさい。僕は、取り次ぎの手順を無視し矢も盾もたまらず母上の執務室へと押し入った。
「は、母上! ミランダは……ミランダが亡くなったというのは、ほんとうですか!?」
突然部屋に飛び込んだ僕に対し、母上は目を落としていた書類から顔を上げることすらしなかった。羽ペンを紙の上に滑らせる母上は僕の質問に顔色ひとつ変えずに、いっそ冷酷ささえ滲ませて答えた。
「……あら、彼女をいらないと言ったのは貴方でしょう? ヘリオス。役目を終えた道具をどう片付けたかなど、貴方は知らなくていいことです」
「――そんな」
アンジェラへの心変わりが――僕の軽率な言動が、一度は愛したはずの女性を死に追いやったのか?
違う。僕のせいじゃない。悪いのは僕に笑顔を向けなかったミランダの方だ。
笑顔のない陰気なミランダよりも、いつもにこやかで僕の言葉を肯定してくれるアンジェラ。どちらが僕に相応しいかなんてわかりきっている。
――いや、僕はミランダが恐かった。
六年前に婚約者がいた彼女を、僕の一方的な想いで奪った。僕が彼女の幸福も未来も壊したのだと、あの神秘的で艶やかな宵闇色の髪が縁取る深い漆黒の瞳が僕を責めたてていた。
僕が彼女としっかり向き合っていたら……。
違う! すべてはミランダが僕を愛そうとしなかったのが悪いんだ。
僕は悪くない。
――僕がミランダを殺したのか?
ミランダの訃報が正式に公表され、死因は『急な発作』とだけ知らされた。その幕引きは葬儀すら行われない異様なものだった。
王都の外れにある墓地に密かに埋葬されたというミランダの元を訪れ弔ったのは、一度だけ。
数年後。僕とアンジェラは結婚し夫婦となる。しかし、僕たちの関係はとっくに冷えきっていた。
アンジェラの微笑みを見るたびにミランダの姿が浮かんだ。蜂蜜色の髪も淡い空色の瞳も黒い闇に覆い隠されてしまう。
結婚後も続く妃教育に追われるアンジェラから次第に笑顔が消えていく。もうこの世界にいない完璧なミランダと比較される彼女は、まるで心の隙間を埋めるように散財を繰り返し、満たされず持て余している感情を隠そうとしていた。
ミランダの実家、ウィロー侯爵家は娘の死を悲しむ素振りさえなかった。それどころか、ミランダの死を『王家への貸し』と言わんばかりに利用し始めたのだ。表向きは愛娘を失った父親を演じながら、その裏では次々と利権を貪っていく。
華やかだった王城は、いつの間にか殺伐とした静寂と猜疑心に包まれる淀んだ場所へと変わってしまった。
宰相は次々に自分の意とそぐわない臣下や貴族たちを『反逆の疑いあり』と排除し、国政を混乱に陥れていく。そして、父上は混乱に崩壊しかけている現実から目を背け、『歴史に名を残す名君』なのだと思い込み妄想に取り憑かれていた。
何かがおかしい。
アンジェラの護衛騎士は、ミランダの亡霊に怯えて酒に溺れて使い物にならず、有能な騎士たちはひとりまたひとりと職を辞し、姿を消していった。
王家を守る盾であるはずの騎士団は、今や形骸化していた。
――そして、その日は突如として訪れた。
叔父上――王弟であり王族から臣籍降下したダーシー公爵が、腐敗したこの国の体制への危機感から謀反を起こしたのだ。
王族を守るべき盾は機能せず、城門はまるで歓迎するかのように内側から呆気なく開かれた。
玉座の間に集められた王族の中に母上の姿はなかった。
兵を率いて現れた叔父上のすぐ隣。そこに毅然とした態度で並び立つ母上の姿を見つけた瞬間、僕の思考は停止した。
「……は、母上、これは反逆だ! この国の王妃ともあろうお方が、何故……」
全身が震える。実の母が反逆者に荷担していることが信じられない。怒りと恐怖に、力を抜けば腰が抜けてしまいそうだった。
「世継ぎを産み落とすことだけが王妃の務めではない。真の責務は、王家が道を誤った際、その舵を正しい方向へと引き戻すこと。――まさに今がその時よ」
燃えるような緋色の瞳がまっすぐに父上と僕を見据え、言い放った。
この日、王家は失脚しその歴史に終止符が打たれた。
国王である父上は北方の収容所で生涯幽閉され、僕の妻、アンジェラは修道院へ。それから暴走を続けた宰相と盾としての矜持を失った騎士団長は身分を剥奪され炭坑へ送られることとなった。
更には、国王派だったウィロー侯爵家を含む多くの貴族家が癒着や汚職により爵位剥奪の上、取り潰しが決定した。
そして、僕もまた最果ての収容所へと送られる。
おそらく二度と会うことはない別離のとき。父上は、妄想の世界の住人となることを選んだのだろう。虚ろな表情のまま鉄格子で囲われた馬車に乗せられた。アンジェラは声もなくただ涙を流していた。その涙は王子妃の座を失った絶望か、王子妃の重圧から解放された安堵か、僕には知る術はない。
ガタガタと音を立てる馬車が、それぞれの道へと動き出す。僕たちは最後まで互いに目線すら合わせることがなかった。
*
長い長い年月をかけ計画した変革は、予定よりもはるかに早く結した。
わたくしの役目は終わったのだわ。
紋章のない質素な馬車にひとり乗り込み、一度も振り返ることなく城を後にした。馬車は王都を離れ深い森の中を走る。揺れに身を任せながら、わたくしはあの日のできごとを思い返していた。
始まりは、蜂蜜色の髪をした天真爛漫なアンジェラの一言。
城中の至る所にわたくしに忠実な部下を配していた。彼らからの報告は些細なものでも逐一、漏らさずもたらされる。
『ミランダ様はほんとうに凄いと思うの。私と違って王子妃教育を完璧に学ばれたから、例え他国の王族の方に見初められても、通用するでしょうね』
妃教育の場で度々ミランダと比べられてきた彼女は、純粋に自分より優秀なミランダを羨み、護衛騎士についそう溢したのだという。
それは、身分の低い子爵令嬢の他意のない感嘆の言葉のはずだった。しかし、その一言は小さな火種となって侵食していく――
まだ若く経験の浅い護衛騎士は、アンジェラの言葉を思いのほか重く受け止めてしまう。思い悩んだ彼は騎士団長へ報告した。
『王子妃教育で得た知識……他国の王族……ミランダ様が他国に嫁がれたら、我が国の内情も機密も流出するのではないかとアンジェラ様が懸念しております!』
報告を受けた騎士団長は、的外れな憶測に捕らわれ、歪んだ形で宰相へと繋いだ。
『彼女が他国の王族と縁付くことは、我が国の外交的優位性を失わせる可能性が考えられます。そうなれば国家を揺るがす由々しき事態となりましょう』
その言葉を受けた宰相は、王家をひいては己の保身のため最悪の進言を陛下に吹き込んだのだ。
『陛下、ミランダ殿を城から出すわけには参りません。彼女は長きに渡る妃教育を通して国家の機密に深く触れている恐れが……すでに、敵国の王族が婚姻を企てているとの噂まであるのです。永久に管理下に置くか、あるいは――処分、も検討すべきかと』
実際には、そんな事実などどこにもなかった。ただ、城内に飛び交う噂が独り歩きし、国を支える宰相さえもが、実体のない恐怖に惑わされたに過ぎない。
王家から望んだ婚約を一方的に破棄する。この前例のない事態に関しての規定がないため、誰も正解がわからず、体面と機密漏洩の恐怖だけが膨らんでいった。そして、あまりにも身勝手な結論を導き出した。
『我が王家が彼女を望んだ結果が、ヘリオスに捨てられ国からも存在を抹消されるのか。なんという悲劇か――せめて、苦しまぬ毒を用意せよ』
なんて滑稽なのでしょう。
勝手な妄想に取り憑かれ、ひとりの少女の命を軽んじる国に未来などない。
悲しみにくれる高潔な王を気取り、殺害を命じた夫の愚かしさにわたくしは、心の底に冷笑を隠して歩み出た。
『陛下、そのお役目わたくしに――』
国を正しい方向へ導く。
そしてミランダを狂った世界から救い、この腐った王家を終わらせるために。
『毒を呷り苦しみに歪んだ顔を晒すのはあまりに忍びなく……わたくしが最期を看取り、適切に処理いたしました』
『苦労をかけたな、ジョセフィーヌ』
婚約者がいる令嬢を、権力を用いて横から攫うような真似を王家がするべきではない。
王家が望み婚約者として迎えたミランダに相応の敬意を持ち労りなさい。
わたくしの至極真っ当な進言は、陛下にも息子にもついぞ聞き入れられることはなかった。
――ならば、王妃としてわたくしが成すべきことは何か。
そのあまりにも重い覚悟を、一瞬たりとも迷うことはなく決断した。わたくしはこの手で、腐りきった王家を終わらせる決意を固めたのだ。
深い森を抜けたどり着いたのは、王国の外れにあるわたくしの祖父母がかつて暮らしたこじんまりした屋敷。最低限の使用人だけを連れてやって来た小鳥の囀りが響く穏やかな、わたくしの安息の地だ。
新たな国王がこの国をより良い方向へと導いていくだろう。
わたくしは、ただ静かにその行く末を見守るだけ。
――のちに、この鮮やかな政変の背後には、ひとりの協力者がいたと噂されることになる。
新国王ニコライル・ダーシーの陰に、前王妃ジョセフィーヌの策略があったのではないか、と。
彼女は密かに騎士団から優秀な人材を王弟側へと引き入れ、宰相によって排除された有能な臣下たちを他国へ逃がした。それだけではない。あえて夫や息子の愚行を止めず、王家が内側から自壊するよう舵を操っていたのだ。
*
『さあ、あなたはたった今、死にました』
床に崩れ落ちた私の前に跪いて肩にそっと手を置いたジョセフィーヌ様が囁いた。
「……?」
未だ喉に残る焼け付くような熱さ。けれど、苦しさは次第に消えていく。
……もしかして、私が飲んだのは毒ではなかった?
肩に置かれた手が、優しく慈しむように私の頬を撫でると、床に転がった銀杯を拾い上げた。
『ふふふ。ミランダ、あなたお酒に弱いのね』
ジョセフィーヌ様は、まるで子供をあやすような優しい声で微笑む。その瞳は、実の母からも向けられたことのない慈愛に満ちていた。
『この毒を飲んだミランダ・ウィローは死んだの。ほんとうに、長い間辛い思いをさせてしまいました……今まで、よく耐えてきましたね。これからは、自由に生きるのです』
国境を越えたはるか彼方にある街。
宵闇の髪が日差しを浴びて、深い藍色の煌めきを放つ。
私は、今日もこの街で笑顔で暮らしている。
最後までお読みいただきありがとうございます。
おかげさまで日間ハイファンタジー、すべてと短編3位にランクインしました。
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