逃げたのは、誰?
断罪する側にかなりの無理筋があった話
「エルンスト様が……逃げた?」
朝のティータイム中、使用人が駆け込んできて放ったその一言に、私はティーカップを取り落としそうになった。
「……は?」
思わず聞き返したのも無理はない。
だってエルンスト・クライン侯爵家嫡男、私の“婚約者”は、昨夜まで私の屋敷にいたのだ。次月の結婚式の打ち合わせをするために。
それが突然、屋敷からも実家からも姿を消したという。
しかも──
「置き手紙に、『クラリッサとの婚約は無かったことにしてほしい』と……」
おかしいのは、それだけじゃなかった。
翌日、私──クラリッサ・ヴェルデン男爵令嬢──は、近隣貴族を集めたお披露目の場で、なぜか「断罪」される立場に立たされていたのだ。
「クラリッサ・ヴェルデン、お前は婚約者であるエルンスト様の子を……中絶したそうだな?」
「なんと恐ろしい……」
「これが男爵家のやり口か……」
──え? 何言ってるの、この人たち。
先に子供を作れ、と言ったのは双方の家の取り決めだった。
未婚の令嬢がそんなこが公になれば、再嫁先はなくなる。相手の家がクラリッサを絶対にのがすまいとする作戦だった。
クラリッサは相手の家に嫁ぐつもりでいたし、子供を持つことも覚悟していた。
だが、未婚の状態は…
何度もクラインに確認をした。しかし、相手は子供をとにかく作って欲しいとの一点張りで話にならなかった。
そしてクラインはある日、無理やりクラリッサを手篭めにした。
クラリッサは日に日に大きくなるお腹を抱えながらも、クラインとの子供を堕す気はなかった。
これがもし暴漢の子供であったなら、間違いなく堕胎しているが、大事な婚約者の子供である。
だが、寝ている間に謎の薬を飲まされた。
子供は流れてしまった。
自分の意思とは無関係にーー
「そのような事実はありません」
私がそう否定しても、周囲は聞く耳を持たない。
まるで筋書きがすでに出来上がっていたかのように、クライン侯爵家の者たちは一方的に私を糾弾し、
「だからエルンスト様は身を引いたのだ」
「婚約破棄は当然だ」
などと好き勝手に言い募った。
ふざけないで。
子供を望まなかった覚えも、もちろん自分から中絶などした覚えも──一切ない。
じゃあ、どうしてこんなことに?
私は静かに目を伏せ、深く息を吐く。
わかってる。
これは“偶然”じゃない。
私に罪をなすりつけ、社会的に抹消しようとする、周到な罠。
そして──
「……逃げたのは、私ではなく、そちらの方では?」
私は首を傾げ、微笑む。
その瞬間、会場に緊張が走った。
そう。逃げたのは私ではない。
罪を犯し、私との関係を無かったことにしようとしているのは、クライン侯爵家の方だ。