第10話 公爵令嬢の影
翌朝の学園は、普段よりもざわめきが大きかった。
朝の光が中庭を照らし、廊下の窓から差し込む光が床に長い影を落とす。
生徒たちは足を止め、声を潜めながら同じ方向を見つめている。
「殿下だ……!」
「ドロテア様もご一緒よ」
「カミーユ様まで……三人並ぶと圧巻だわね」
ざわめきの中心にいたのは、王太子ダリウス、その婚約者ドロテア・エストレア、そして取り巻きのカミーユ・カラン男爵令嬢だった。
三人は同じ紺色の学園制服を身につけている。
だが、彼らが歩むと廊下そのものが舞踏会の回廊に変わったかのように錯覚させられる。
ドロテアは金糸の髪を緩やかに揺らし、涼やかな微笑みを湛えていた。
彼女の仕草には隙がなく、一歩一歩が絵画のように整っている。
ただ制服を着て歩いているだけなのに、見ている側が背筋を伸ばさずにはいられない威圧感を纏っていた。
カミーユはその隣で、明るいピンクの髪をふわりと弾ませていた。
大きな宝石が輝くイヤリング、胸元に揺れる大きなリボン。
彼女の笑みはわざとらしいほど華やかで、王太子にぴたりと腕を絡め、まるで自分が婚約者であるかのように振る舞っていた。
派手さと奔放さが彼女の武器であり、周囲の注目を集めることを楽しんでいるのがありありとわかる。
対照的な二人が王太子を挟んで歩く姿は、学園の廊下を舞台に変える。
生徒たちの目には、彼らこそが学園の頂点だと映っているに違いなかった。
「おはようございます、殿下!」
「まあ、今日もドロテア様は本当にお美しい……」
「カミーユ様も華やかで……」
次々と声が飛び、深いお辞儀が繰り返される。
ドロテアは落ち着いた笑みを浮かべ、流れるようにそれを受け止めた。
カミーユは楽しげに笑い、王太子は堂々と腕を組みながら歩みを進める。
私は、その光景から目を逸らすことができなかった。
(……自分も、春休み前まではここにいたのよね。王太子の隣で、くっついて笑って……)
思い出すだけで全身が粟立つ。
あの時の私は、華やかなアクセサリーをつけ、厚い化粧を施し、誰彼かまわず小悪魔のように笑っていた。
王太子の腕に自分の体を絡め、見せつけるように歩いていた――。
(考えると……気持ち悪いわ。あんな仕草も、笑みも、全部“私”のものじゃなかったのに……!)
喉の奥に苦味が込み上げ、手のひらが冷たくなる。
五年間も、私の体は勝手に使われ続けてきた。
その記憶は消せない。
けれど周囲の人々にとっては、それこそが“私”なのだ。
その時、ドロテアの視線がふいにこちらをかすめた。
金糸の髪を輝かせながら、静かに笑みを浮かべている。
けれど瞳だけは、氷のように澄んで冷たく――値踏みするように私を射抜いていた。
「……っ」
思わず息を呑み、背筋が凍る。
まるで「あなたはもう不要」と告げられたように。
「姉さん?」
すぐ隣で、レオンが心配そうに覗き込んだ。
「顔色、悪いよ。大丈夫?」
「……ええ」
私は曖昧に笑ってごまかした。
だが、胸の奥に残ったざらりとした感覚は消えなかった。
ドロテアの完璧な微笑みと、カミーユの奔放な仕草。
それは、私が否応なく思い出したくない過去を突きつける鏡であり――同時に、彼女たちが何かを隠しているのではないかという疑念を呼び起こしていた。
ーー
昼休み。
教室を出た途端、ざわざわとした声が耳に飛び込んできた。
普段の他愛もないお喋りではない。
ひそめた声に混じる、妙な熱っぽさ。
「聞いた? マルセリーヌ様が……」
「試験問題の件でしょう? 掲示板に張り出されていたあれ」
「そうよ。あれを流したのはマルセリーヌ様だって」
思わず足が止まった。
(……マルセリーヌが?)
「だって、今日も来てないし。昨日も姿を見せなかった」
「怪しいわよね。侯爵令嬢だからって許されると思ってるのかしら」
「家の力でどうとでもなるもの」
毒のある囁きが、私の耳に容赦なく突き刺さる。
胸の奥が痛んだ。
マルセリーヌは確かに明るく目立つ性格だけれど、不正を働くような人じゃない。
誰よりも真っ直ぐで、困っている人を見捨てない。
(そんなの……私が一番よく知ってるのに!)
「姉さん……」
隣でレオンが声をかけてきた。
「落ち着いて。まだ噂にすぎないんだ」
「……でも、登校してないのは事実よ」
私は唇を噛む。
「このままじゃ……彼女が本当に犯人扱いされてしまう」
「……」
レオンも俯き、拳を握りしめた。
私は立ち尽くしたまま、廊下のざわめきを聞いていた。
耳に入るのは、彼女を疑う声ばかり。
「性悪エレーナと昔仲良くしてたんだから、同じ穴の狢よね」なんて声まで飛んできて、胸がさらに締め付けられる。
(マルセリーヌ……どうして来ないの? お願いだから、無事でいて……!)
ーー
レオンと食堂でランチを食べていると、どこからかひそひそと囁く声が耳に入ってきた。
「昨日の昼休み、ドロテア様が監督室の前を歩いてたって聞いたわ」
「やっぱり……お父様が校長だから、普通に用事で呼ばれてたんじゃない?」
「でもタイミングがね。試験問題が盗まれたのと同じ日なんでしょ?」
「まさか……」と囁きは小さくなるが、確かにその会話は私の耳に届いた。
(ドロテア様が……監督室の前に?)
心臓がどくんと高鳴る。
父が校長である以上、彼女が監督室に出入りしていても不思議ではない。
だが、あの完璧な笑みと冷たい視線を思い出すと――「偶然」だけで済ませるには胸騒ぎがした。
「姉さん」
横でレオンが小さく囁いた。
「やっぱり、怪しいな。クルール様の証言より、こっちの方がよっぽど核心を突いてる気がする」
私は答えられなかった。
ただ、ドロテアが廊下を歩く姿が脳裏にちらついて離れない。
(……まさか、本当に?)
そう思った瞬間、昼休みのざわめきが一層遠くに感じられた。
疑念だけを残して――次の鐘が鳴った。




