プロローグ
ガタン、と馬車が大きく揺れた。
「きゃっ──!」
思わず声を上げた瞬間、視界がぐるりとひっくり返る。
車輪が外れたのだろう。
馬の悲鳴と御者の叫び声を最後に、馬車は道を外れ、崖の斜面を転げ落ちていった。
──終わった。
頭の片隅でそう思った瞬間だった。
右手の薬指にはめていた銀の指輪が、ぱきん、と甲高い音を立てて砕け散った。
それは一年前、王宮から「祝福の証」として授かったもの。
「え……?」
胸の奥が急に軽くなった。
絡みついていた見えない鎖がほどけるように、一年間押し込められていたものが一気に解き放たれる。
喉から漏れた声に、自分で驚いた。
「……あ」
指が動く。息ができる。
──私は、私に戻れたのだ。
王立学園に入学してから一年間、私は自分の体を動かせなかった。
意識はあるのに、声も出せず、目の前の光景をただ“見せつけられて”いただけ。
その間、“誰か”が私の体を操り、王太子の寵愛を受ける令嬢として振る舞っていた。
白金色の髪は縦ロールに結い上げられ、真紅のリボンで飾られていた。
氷を閉じ込めたようなアイスブルーの瞳は、笑うたび小悪魔的に光り、頬には濃い紅、唇は鮮血のような赤が塗られていた。
宝石をちりばめた派手なアクセサリーをつけ紺の制服を煌びやかにし、歩くだけで人々の視線を集めた。
――それは、本来のおとなしい私とはかけ離れた姿だった。
王太子の隣に立ち、取り巻きに囲まれ、笑顔を振りまきながら王太子と手を繋ぐ。
本当は、嫌で嫌で仕方なかったのに。
「姉さんっ!」
崖下で泥にまみれながら、必死に体を起こした弟のレオンが、こちらへ駆け寄ってきた。
彼は怪我を押さえながら、驚いた顔で私を見つめる。
「レオン! 大丈夫なの? 怪我してない?」
思わず駆け寄ると、レオンは目を丸くした。
「……え?」
「どこか痛む? 動ける? 手を貸すわ」
私が差し伸べた手を、彼は信じられないものを見るように凝視した。
「……姉さん……」
「なに?」
「いつもと違う……。てっきり“さっさと助けなさいよ!”って言われると思ったのに……」
その言葉に胸が痛んだ。
そう、あの一年間、私はずっとそんな風に振る舞わされていたのだ。
本当は、こんな可愛い弟を突き放す姉じゃないのに──。
「ごめんね、レオン。でも、今は私なの。昔の、あなたの知っている私に戻れたの」
「……!」
レオンの目が大きく揺れる。驚きと戸惑い、そして小さな希望。
「姉さん……」
彼の声が震え、そのまま私に飛び込んできた。
「姉さんっ……!」
力いっぱい抱きしめられる。肩に熱い涙が落ち、胸がじんと熱くなった。
「俺……ずっと姉さんを嫌ってた……! 派手で、偉そうで、王太子に媚びて……そんな姉さんなんか大嫌いだった! でも……今の姉さんは……俺の知ってる、本物の姉さんだ……っ!」
泣きじゃくる弟の背中を、私はそっと抱き返した。
「……ごめんね、レオン。苦しませて」
「違う……俺こそ、ごめん……! これからは、俺が守るから……!」
── 一年間、失われていた絆が。
今ようやく、取り戻されたのだった。
***
私の名前はエレーナ・アルヴィオン。
アルヴィオン伯爵家の長女として生まれ、王立学園に通う身だ。
この春で二年生になる。
本来なら領地に戻って静かな春休みを過ごし、弟レオンの入学を一緒に喜ぶはずだった。
だが、あの事故で──私は、ようやく自分自身を取り戻したのだ。
王立学園の入学式の日。
王宮から「祝福の証」として贈られた銀の指輪を嵌めたその日から、私の人格は奪われた。
意識はあるのに、体は動かせず、声も出せない。
代わりに、別の人格が私を操り始めたのだ。
──王太子、ダリウスの取り巻きとして振る舞う令嬢。
派手なドレスに濃い化粧。媚びるような笑みを浮かべ、彼の腕に絡みつく。
弟を見下し、冷たい言葉を浴びせる。
本当は、嫌で嫌で仕方なかった。
けれど周囲の人にとって、それが“エレーナ・アルヴィオン”だった。
──だから私は、学園で「派手で小悪魔的な伯爵令嬢」として噂される存在になってしまったのだ。
けれど今、指輪は砕けた。
私はようやく、自分の意思で歩き、言葉を口にできる。
***
「……そんなことが……」
両親に真実を告げたとき、母は顔を覆い、父は拳を震わせていた。
テーブルには砕けた銀の破片を並べてある。
それは、五年間の呪縛が本当に解けた証。
「エレーナ……お前が、そんな苦しみを……」
「信じられぬ。王家が……王太子がそんな仕打ちを……」
父の低い声に、胸が詰まる。
私は深く頭を下げた。
「ごめんなさい。伯爵令嬢としての誇りを汚すような振る舞いばかりして……。でも、あれは私ではなかったのです」
「姉さんの言葉、僕は信じたいです」
横からレオンが口を開いた。
「俺がずっと見てきた“姉さんじゃない姉さん”は、確かに……偽物だった」
母は涙を浮かべながら私の手を取る。
「エレーナ、あなたは私たちの娘。何があっても、それは変わらないのよ」
父も頷き、力強く言った。
「二度と同じことを繰り返させはせぬ。お前は伯爵令嬢として、胸を張って生きてゆけばいい」
胸の奥がじんと熱くなる。
一年間失われていたものが、少しずつ戻ってくるのを感じた。
私は涙をこらえながら微笑んだ。
「……伯爵令嬢エレーナ・アルヴィオンは、本当の自分を取り戻しました。
これからは、学園で恥じぬように生きてみせます」
春の光が窓から差し込み、砕けた指輪の破片を照らしていた。
──それは、私の新しい物語の始まりを告げる光だった。
沈黙を破ったのは、レオンだった。
「……でもさ、姉さん。あの派手なドレスと化粧は、もう二度とやめてくれよな。正直、俺、あれを見てると胃が痛くなるんだ」
「ちょっ……レオン!」
母が思わず噴き出し、父も咳払いで笑いを誤魔化す。
私もつい苦笑してしまった。
「ええ、もうしません。……でも、似合ってるって言われたらどうしようかしら」
「絶対似合ってないから安心しろ」
くだらないやりとりに、張り詰めていた空気がようやく緩んでいく。
家族の笑顔に包まれて、私は心の底から安堵を覚えた。




