01 人生退職
「何でこんなに辞めたい奴が多いんだよ……」
その日も俺は、鳴りやまない電話にひたすら対応していた。一本片付けても、すぐ次。焼け石に水どころか、油を注いで火柱が立つ勢いだ。
少子化や経済情勢の影響で、売り手市場の今――退職代行は大人気。入社五年目の俺はいまだ平社員として電話番を続けている。
俺自身、かつては超絶ブラック企業に勤め、退職代行のお世話になった身だ。今の仕事もきついが、あの地獄に比べれば天国だ。何より、あの時「人間関係」を一刀両断できたのは大きかった。
……ただし、やめさせる側になると話は別だ。
大半のケースで相手企業は怒鳴り散らすし、「会社に乗り込むぞ!」と脅す者もいる。実際に来た奴もいた。
やめる方もやめる方で、完全黙秘で退職するから相手も爆発する。人任せ社会の極致ってやつだ。
ちなみに退職代行は再就職の世話まではしない。毎日あれだけ人が辞めて、よく皆また就職できるもんだと感心する。
「あの、聞いてます?」
電話の向こうの気だるげな声に、ハッと我に返った。ぼんやりしてる場合じゃない。俺は再び、意識を放棄して仕事に没頭した。
「あー……」
本当は「疲れた」と言いたかったが、下の句すら出ない。限界を迎えた俺は会社を後にし、コンビニで何か旨いものでも買おうと歩き出した。
その時だった。
「死んでやる!!」
俺の心の声じゃない。遠くでナイフを振り回す男がいた。周囲には野次馬が集まっているが、警察の姿はない。サイレンも聞こえない。
勇敢なおじさんが声をかけている。
「一体何があったんだ、ナイフを置きなさい!」
度胸はあるらしい。ナイフ男は叫ぶ。
「またクビになったんだ! この国は俺を嵌めやがった! いっそ国民ごと道連れに──!」
なぜ急に国単位? まあ気が動転してるんだろう。確かに税金は高いし国への不満は俺もある。
だが、こいつが突き刺そうとしているのは「嫌気」じゃなく「ナイフ」だ。止める必要がある――できれば俺じゃない誰かに。俺はコンビニの方向へ踵を返した。
「きゃああああ!」
悲鳴。振り返ると、おじさんが切られていた。遠目にも血が見える。
「あぁ、くそっ……!」
足が震えたが叩いて無理やり動かす。漢検十級、武道全敗の文武不両道。そんな俺にこいつを止める力はない。それでも、おじさんには生きてほしかった。
気づけば二人の方へ走っていた。どんどん二人へと近づく。
止まろうとしたが、久しく走ってない人間特有の「ブレーキのかけ方を忘れる現象」が発動。俺はつんのめり、そのまま宙に浮いた。
「……あ」
下にはナイフ男、横には驚くおじさん。腹に冷たさと鋭い痛みが走る――俺はナイフに突っ込んでしまった。
「君!」
おじさんが駆け寄る。視界の端でナイフ男が崩れ落ちる。本当は刺す気なんかなかったのかもしれない。
だが、俺が死ねば殺人犯だ。……まあ、もうどうでもいい。視界は光に覆われていく。
走馬灯は出なかった。俺に特筆すべき思い出はないらしい。代わりに飛んでくるのは「死ぬな!」という声と唾。
人体、優先順位を見直せ。なぜ視界より唾の感覚が勝るのか、一生分からないだろう。そんなことを思いながら、俺は目を閉じた。
「ハッ!!」
目を覚ます。長い夢を見ていたようで安心する。だが視界はぼやけ、スマホは見当たらない。代わりに、体全体がチクチクする。
起き上がって理解した。
「なんじゃこりゃあああ!」
芝生の上で全裸だった。服もない。
(公然わいせつ、侵入、無断欠勤……)
嫌な単語が脳裏をよぎる。だが見渡せば森や街らしきものは遠く、周囲は芝生だけ。
(ここ、異世界じゃないか?)
推測というより願望だった。異世界転生ものは腐るほど読んできた。目が覚めるにつれ、確信に変わっていく。
「よっしゃぁあああ!」
裸の男は雄叫びを上げた。さっきの事件も忘れ、異世界ライフの妄想を始める。
「勇者で世界統一もいいし、スローライフも良い。いや、魔王もアリだな!」
こうして俺の異世界生活は幕を開けた。
「あの人、誰だろう」
遠くから誰かがじっとこちらを見つめていた。俺は浮かれて気づいていなかったが。
その視線の主が、後に俺の運命を大きく変えることになるとは――このときの俺は知る由もなかった。
俺はしばらく考え込んだ。小説で学んだ異世界知識が、この世界で通用するとは限らない。というか、ほとんどの主人公は最初から服を着ているじゃないか。
「よし、服を探そう」
大きく頷き、第一歩を踏み出す。……と言っても、芝生しかない平原じゃ身を隠すものすら見つからない。葉っぱすらろくに生えていない。
春らしい気候とはいえ、裸だと肌寒いし食料もない。遠くには森と街らしき影。人がいる街へ向かいたい気持ちはあるが、リスクを考えて森を目指すことにした。
「おっ」
走り出してすぐ、思わず声が漏れる。身体がやけに軽い。これが異世界補正か? 勇者候補が運動音痴なわけないだろうしな。
誰も見ていないので、調子に乗って忍者走りまで試してみる。片手を前、片手を後ろ、足音を殺して影に溶け込む感覚。……楽しい。
三十分もかからず森に到着。まだ夕方にもなっていない。大きめの葉を腰に巻きつけて中へ入る。
こういう場所には大抵魔物が出る。丸腰じゃ勝ち目はないので慎重に進んだ。
やがて川に出た。水だ、飲むしかない。水面を覗き込むと――。
「うわっ!」
思わず飛び退いた。魔物かと思ったが、映っていたのは見知らぬ人間の顔。……いや、転生したんだから顔が違うのは当然だ。
結論から言おう。イケメンではなかった。仕方ない。水だけ飲んで立ち去る。
森を抜け、今度は街を目指す。探索に時間を食い、夕方が迫っている。急がないと。再び忍者走りで――。
「待って!」
突然の声に急ブレーキをかけた。振り返ると、そこには……可愛い美少女。いや、間違ってはいない。五歳くらいの女の子だ。
もちろん俺は紳士だ、変な趣味はない。むしろ動物も見かけない世界で、人間に出会えたことに感動していた。
「あなた、誰?」
「俺は……あ、レイジだ!」
うっかり自分の本名をそのまま言ったが、ギリ異世界風に聞こえるからセーフだろう。
「レイジね。私はサナ。街には行かない方がいいよ、魔物が出るから」
サナと名乗った少女は、森の奥にある自分の家へ案内してくれた。
そこは古びた木造建築。暖炉の火が温かく、スープの香りが漂っている。腹が鳴りそうだ。
中から杖をついた白髪の老人が現れた。背中は曲がっているが、只者ではない雰囲気を纏っている。
「ほぉ……珍しい顔じゃの」
「レイジといいます」
「儂はクランツ。……さて、お前さん。転生者じゃな?」
一発で見抜かれた。やっぱり只者じゃない!
「サナ。暗くなってから外に出るなと、いつも言っとるじゃろう」
「だって……葉っぱ一枚腰に巻いて走ってるレイジさんを見かけたから」
客観的に言われると、とんでもなく怪しいやつにしか見えない。
俺はクランツたちに、夕飯のシチューをご馳走になった。転生前と食べるものが同じで安心する。
「最近は魔物が増えての。ここは元々、魔力が濃い土地じゃ」
「魔力……?」
「この世界には魔力がある。土地にも物にも、人の身体にも宿り、魔物や魔法の源になるものじゃ」
俺は胸を高鳴らせた。やっぱりあったか魔力!
クランツは表情を改め、真剣な声で言う。
「お前さん……自分の魔力を測ってみるか?」
奥の部屋に案内され、魔法陣の上に立たされる。
クランツが低い声で呪文を唱えると、胸の鼓動が速まる。血が沸き立ち、全身が熱を帯びる。結果が出るまでの数分が永遠のように長い。
「結果が出たぞ」
クランツが目を見開き、俺を見据えた。
「お前さんの魔力は……ない」
「え?」
「ない」
「聞こえてますよ」
……待て待て待て。ここまでフラグ立てて魔力ゼロ!?
「嘘じゃないですよね?」
「古い方法じゃが、正確じゃ」
絶望が押し寄せる。だが、勇者なら魔力がなくても身体能力が高ければ――。
ちょうどそこへサナが戻ってきた。
「レイジさん、どうだった?」
「……魔力、なかった」
「そっか。でも魔力がない人もいるよ! 気にしなくていいって!」
サナの笑顔に救われ、少し前向きになる。俺はクランツに言った。
「でも、身体能力なら自信あります!」
「さっき走ってたの見たけど、普通だったよ」
俺は希望を捨てた。
お読みいただきありがとうございます!
本作品は、カクヨムにて上げている小説を更に編集し完全版にしたものになります。
高評価感想を頂けると作者が踊ります。