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9. 動き出す景色


 この世界に来てから、私は驚くほど快適な日々を過ごしていた。


 料理はどれも美味しくて、用意してもらう服は可愛らしいものばかり。屋敷で働く人たちは皆優しく、温かく接してくれる。

 ――けれど何よりも、アレンが私を大切に思ってくれていることが、痛いほど伝わってきた。


 毎朝必ず一緒に食卓を囲み、彼は帰宅すれば真っ先に私の部屋を訪れて、私の様子を気にかけてくれていた。

 その優しさが心地よくて、つい甘えてしまいそうになる。けれど同時に、私は彼に何も返せていないのではないかと胸が痛む。彼の存在がどんどん私の中で大きくなり、どう接すればいいのか分からない瞬間すらある。


 医者が言った通り、私の足は二日で完全に治った。走っても跳ねても痛みはなく、昨日までの怪我が幻だったみたいに。

 ポーションと呼ばれる薬は驚くほど効果があり、使い始めた翌日には普通に歩けるようになっていた。それでも、医者の言いつけ通り二日間は安静にして、屋敷の中で過ごした。外に出ていないとはいえ、この家は広すぎて、廊下を歩くだけでもちょっとした散歩気分になれる。


「足の具合はどう?」

朝食の席で、アレンが心配そうに尋ねてきた。


「もうバッチリ! 全然痛くないよ」

「そうか、良かった」


 彼は安心したように微笑み、ほっと息をついた。その表情を見た瞬間、胸の奥が温かくなる。

 ただの礼儀ではない、本気で気遣ってくれている。出会ってまだ三日しか経っていないのに、私はすっかり彼に心を許していた。


「じゃあ、明後日、約束していた町へ出かけようか」

「えっ!本当に? 嬉しい!」


 怪我が治ったら町を案内してくれると約束していたのだ。

 その言葉を糧に、私は二日間の安静にしていた。おかげで足はすっかり元通りになり、外に出たくて仕方がなかった。


 ここに来たとき、馬車に揺られながら窓の外を眺める余裕など一切なかった。不安でいっぱいで、胸が押し潰されそうで、景色はすべて頭の中を素通りしていった。


 この世界は私の住んでいた場所とどう違うのだろう。町並みも、人の表情も、きっと全然違うはずだ。もちろん、「元の場所に帰りたい」という願いは消えてはいない。だから今は、海外に旅行しているような、不思議な浮遊感に身を任せてしまおうと思った。


 それに、この屋敷の中にいたって帰る手がかりは見つからない。

 この二日間、私はこの世界に関する本を手当たり次第に読み漁った。この世界にはどうやら魔法が存在するらしい。

 そして――私がここに来てしまった理由も、もしかしたらその魔法と関係があるのかもしれない、ということが分かった。


 「帰る方法」についてはアレンに尋ねることができなかった。自惚れかもしれないが、彼が悲しんでしまうのではないかと、そう感じていた。


 帰る方法については聞けなかったが、その代わりに、アレンからこの世界の常識を少しずつ教えてもらっていた。

 

 私が「山」だと思っていた場所は、実は“魔物が住む森”だとみんなから恐れられているらしい。あの森に迷い込み、なおかつ生きて帰って来られたこと自体が、本当に奇跡のようなことだった。思い出すたびに、背筋がひやりと冷たくなる。


 また、ポーションと呼ばれる薬が魔法の一端であることも知った。だからこそ、本来なら一週間も二週間もかかる怪我が、たった二日で完治したのだ。理屈ではわかっても、身体の奥に残っている恐怖と安堵は消えない。人ならざるものの力を、こうして自分の身をもって知ったのだから。


 ◇◇


 この世界に来てから、はじめに怒涛のような一日目が過ぎると、そのあとは嘘みたいに穏やかな時間が流れた。嵐のあとに残る静けさのように。


 アレンは騎士団に所属しているらしく、毎日朝から出かけて帰ってくるのが夜になることもあった。

 怪我をしたから安静にしないといけない、ということもあったが、主人であるアレンもいないこの家でやることがなく、手持ちぶさたで、次第に息苦しさを覚えていった。


「私もこの家の手伝いやらせてください」

 そうイーサンに懇願したこともあった。けれど私はあくまで“客人”として扱われていて、彼は首を横に振るばかりだった。


 身体はもう元気なのに、何もできないのが一番辛かった。ポーションのおかげで、二日目には足の痛みがほとんど消えていた。だから午後からは少しだけ、使用人たちに混ざるようにして働かせてもらった。


 ……といっても、大げさなものではない。

 自分の身の回りのことは自分でやる。それだけの話だ。許可が下りたというよりも、私が「自分のことは自分でします」と固辞した結果、彼らの仕事をほんの少し減らした、というだけだった。


 そして、ここに来て3日が経ち、足もすっかり完治した。

 いつまでもここで甘えてばかりはいられない。元の場所に帰れる保証がない以上、少しでも自分にできることを見つけて、この世界で立っていけるようにならなければ。

 アレンに守られてばかりでは、自分がどんどん駄目になってしまう気がした。


 ――けれど、私はこの世界のことをほとんど知らない。知識も経験もなく、思うように行動することができなかった。


「……暇すぎて、死にそう」

 ベッドの上に寝転び、天井を見上げながら思わず本音が漏れる。


 何かしなきゃいけないという思いと、でもどう動けばいいのかわからない葛藤がぐるぐると回る。


 昼食を終えると、また長い暇な時間がやってきて、私はひとり悶えていた。

 もしスマホやテレビがあれば違っただろう。けれどこの世界には、そんな便利なものは存在しない。


「ここの人たちは……何を“娯楽”と呼んでるんだろう」

 ぽつりと呟いた言葉を、意外な人物が拾った。


「……それでは、ベルサール図書館に行かれてみますか?」

 執事のイーサンが、少しだけ口元を緩めて提案してくる。


「ベルサール図書館……?」

「この国で一番の図書館です。ひとつひとつ見て回ろうとすれば、一日では到底足りないほどの広さですよ」

「えっ!行きたいです!」

「であれば、ここから馬車で十分ほどです。お連れいたしましょう」

「ほんとですか……! ありがとうございます!」


 図書館。ずっと行きたいと思っていた場所だ。

 アレンの屋敷にある本では限界がある。元の世界に帰る方法を知るには、もっと多くの情報が必要だ。それに、この世界についても知ることができる。図書館は今の私に最も必要な場所だろう。


「では、馬車を用意して参ります」

 イーサンが軽く頭を下げる。私も慌ててお辞儀を返した。


 丁寧な態度に、どう返すのが正解なのか分からない。居候させてもらっている身なのに、こんなに丁重に扱われていいのだろうか――。

 そんなことを考えているうちに、気づけば私は玄関にたどり着いていた。


「お待たせしました。準備が整いましたので、こちらへどうぞ」


 イーサンは慣れた手つきで御者台に上がり、手綱を握る。


「では、出発いたします」

 その言葉を合図に、馬が軽やかに走り出した。


 思っていたよりも揺れは少なく、風が頬を撫でて心地よい。外の景色を直接感じられるから、屋根なしでむしろ良かったのかもしれない。

 

 この世界の人々にとっては当たり前の移動手段なのだろう。けれど私にとってはすべてが新鮮で、胸が高鳴った。まるでテーマパークのアトラクションに乗っているみたいだ。


「馬車って……意外と快適…」


 思わずこぼれた言葉に、イーサンが笑みを含んだ声で答える。

「遠出の際には、屋根のある立派な馬車を使いますよ。今回は距離も短く、天気もよろしいので、簡易なもので十分かと思います」


 イーサンの言う通り、10分ほど馬車に揺られると、視界の先に巨大な建物が姿を現した。

 まるで古城を思わせる堂々たる石造り。近づくほどに、その存在感が圧をもって迫ってくる。


「もしかしてあれが図書館……?」


 予想通り、馬車はその壮麗な建物の前で静かに停まった。

 ここには、私が求めている答えがあるかもしれない――。そう思うと胸が高鳴った。



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