8. 再会の痛みと喜び
アレン目線の話です。
まさか、ずっと探していた人が、こんな形で目の前に現れるなんて――。
静かな寝息を立てて眠るミアの横顔を見つめながら、胸が抑えきれないほどに高鳴っていた。布団の端から覗く白い指先、穏やかな寝顔。その一つひとつを見逃すまいと目を奪われる。
夢のようで、幻を見ているのではないかと疑いたくなる。
彼女が突然姿を消してから、会いたくて会いたくて、必死に探し続けてきた。もう二度と会えないのではないかと諦めかけたこともあった。
そんな彼女の存在が今、こうして俺のすぐ隣で眠っている。再び会えるなんて、いまだに自分の目が信じられなかった。
……あの日から、もう十年も経ったのか。
初めてミアと出会ったのは、まだ少年の頃だった。
当時、この国は隣国との戦争に勝利したものの、その代償はあまりに大きかった。街は荒れ、民は飢え、子供たちの泣き声が至るところに響いていた。
俺はとある家族に養子として迎え入れられていた。だが、その家も戦の被害から逃れられず、財産を失い、やがて生活に困窮していった。
やがて俺は「養子」ではなく「売り物」として見られるようになり――その事実に気づいた瞬間、屋敷から飛び出した。
勘づいたその家の主人はすぐに護衛を差し向けた。追われる恐怖に駆られて必死に走り続け、気づけば深い森の中へと足を踏み入れていた。
そこからは、あまり記憶がない。森の魔獣から必死に逃げたことは覚えている。獣の叫びと自分の荒い息、喉が焼けるように乾き、呼吸は荒れ、胸が苦しい感覚は覚えていた。
必死に戦いながら逃げていた。けれど体力が奪われ、怪我の出血も激しく、だんだんと瞼が重くなって視界が暗く染まっていく。必死に抗おうとしても、もう体が言うことをきかない。
あの時の感覚は今でも覚えている。
もう駄目だと思ったその時だった。
かすかに、人の声が聞こえた気がした。幻聴かもしれない。けれど、確かに優しく震えるような声で――俺の名前を呼んでいるように思えた。
(……誰かが、いる……?)
視界の端に、誰かの影が飛び込んでくる。ぼやけた輪郭が揺れて、やがてひとりの女性の姿が浮かんだ。
彼女は俺の顔を覗き込み、目が開いたことに気づくと、安堵の色を浮かべた。その瞬間、頬にひとしずくの温かい感触が落ちる。
もしかして泣いているんだろうか。確認しようにも、もう瞼を持ち上げておく力すら残っていない。視界は滲み、顔の輪郭さえ掴めない。
けれど、その声だけは、不思議と鮮明に届いた。
「待ってね!今助けるから!」
ーーそう。あの時助けてくれたのが、ミアだった。だからこうして今生きているのは、ミアのおかげだ。
血に塗れたあの森で、死にかけていた俺に差し伸べられたのは、迷いのない温かな手だった。
震えていたはずなのに、その温もりは確かに俺を生に繋ぎ止めてくれた。必死に名前を呼び、涙を流しながらも助けようとしてくれた姿は、今も心に焼きついて離れない。思い返すたび、胸の奥が痛むようで、それでいて不思議と温かい――あの瞬間、あの出来事が、間違いなく俺を救ったのだ。
彼女が俺の中でかけがえのない存在となっていった。だからこそ、彼女を失ったときは絶望だった。
必死に探した。町から町へと渡り歩き、行商人や旅人から話を聞き、夜は宿で地図を睨みつけては翌日の行き先を考える。時には怪しげな噂や根拠のない情報にすら耳を傾け、足を運んだ。けれど、どれだけ歩いても、どれだけ声を枯らして探しても、何ひとつ手がかりは得られなかった。
そう。まるで、この世界に存在していないかのように。
それでも立ち止まれなかったのは、あの時の温もりを忘れられなかったからだ。記憶の中の彼女は、いつだって俺の心を奮い立たせた。
次会った時、どんな困難からでも彼女を守れるように、強くならなければならないと、自分に言い聞かせ続けた。必死に剣術の鍛錬を重ねたのはすべて――再会した時に胸を張れる自分であるためだ。
いつかまた会える。そう信じて今まで生きてきた。
十年も経っていたが、森で彼女の顔を見た瞬間、すぐに自分が探し続けていたミアだと確認した。あの頃の記憶が昨日のように鮮明に蘇る。
探し続けていた人がもう一度目の前に現れるなんて、嬉しさと驚きで言葉が出なかった。
何度瞬きをしても幻ではない。目の前にいるのは、紛れもなくミアだ。
まさか、この世で誰よりも会いたかった人が、こんなにも唐突に目の前に現れるなんて。胸の奥が強く打ち震え、息が詰まるほどの衝撃が全身を駆け巡った。
……だが。彼女の反応は、俺の想像とはあまりに違っていた。
恐怖に怯え、俺から身を引き、そして――。「知らない」と告げた。
その一言に、天から地へと突き落とされた。ずっと探し続けてきた人が、自分のことを覚えていない。その衝撃は刃のように胸を抉り、思考を奪った。
魔物にも随分驚いているようだった。まるでこんな世界は知らない、とでも言うかのように。十年探し続けてきたのに、ようやく巡り会えた瞬間に突きつけられた現実は、あまりに残酷で理不尽だった。
だが、少し冷静になって考えると、違和感はすぐに見えてきた。
――十年という時間が、彼女には存在していない。
最後に会ったのは十年前。それなのに、目の前のミアは記憶にある姿と何ひとつ変わらない。成長の痕跡すらなく、まるで時間を飛び越えてきたかのように。
恐怖と戸惑いを浮かべる彼女の表情は、本物だった。揶揄いでも虚言でもない。彼女が嘘をつける状態でないことは明らかだった。
ならば――この人は一体、何者なのか。
容姿、声、名。そのすべてが記憶のミアと寸分違わない。名前も姿も同じなのに、自分だけが彼女を知っている。頭が混乱していた。
しかし――。
ある出来事をきっかけに、俺は確信することになる。この人こそ、ずっと探し続けてきたミアなのだ、と。
ーーチャリン。
聞き覚えのある音が、かすかに近くで響いた。思わず音のする方へ目線を向ける。
その目線の先に転がっていたものを見て、俺は再び息を呑んだ。
小さく、透明感のある青色の鈴――。それは、十年前、ミアがいつも大切に持っていたものだった。
自然と胸の奥が熱くなる。鈴の存在が、長年の探し続けた日々に区切りをつけ、確信をもたらした。
彼女はやっぱり、ミアだったんだ。
疑いようのない事実に、体中の力が抜けていくのを感じる。
だけどそれと同時に、目の前にいるのは、最愛の人なのに、彼女は何も覚えていないという事実に胸が痛くなる。顔を見つめることすら、少しだけ切なくて苦しい。
けれど、今はそれを受け入れるしかない。
なぜミアは十年前と同じ姿なのか、なぜこの世界のことーー俺のことを覚えていないのか。
その答えは、今すぐでなくていい。ひとまず、ミアと出会えたんだ。また1から関係を気づくことから始めればいい。
あのときの思い出は、彼女の中では存在していない。記憶を共有できないことが、これほどまでに苦しいのかと知った。
再び会えた歓喜と、記憶がないという現実。その両極の感情が胸の内でぶつかり合い、どうしようもなく揺さぶられる。
喜びに抱きしめられたいのに、痛みによって突き放される――そんな矛盾が、刃のように胸を往復する。
けれど、それでも。今は受け入れるしかない。
なぜミアは十年前と同じ姿なのか。なぜこの世界のことーー俺のことを覚えていないのか。
その答えは、今すぐでなくていい。
ひとまず、ミアと出会えたんだ。また1から関係を築くことから始めればいい。今はただ、ずっと探していた人が目の前にいる。その事実だけで十分だ。
十年越しにあった彼女に、あの時は抱いていなかった気持ちが湧き上がる。心臓が高鳴るこの気持ち。それはかつての憧れや感謝ではなく、もっと強くて揺るぎないものだった。
アレン、とミアにそう呼ばれた時、確信した。
そっと、寝ている彼女の頭に手を添える。柔らかい髪が指の間に滑り込む感触が、胸にじんわりと温かさをもたらした。まるで時間が止まったかのように、ただこの瞬間に集中する。
ーーもう二度と、ミアを失ってたまるものか。
心の奥底で誓い、握った拳をそっとほどく。
彼女を守る。それだけを胸に刻み込みながら、俺は静かにその場に座り込んだ。




