7. 眠れぬ夜
――コンコン。
優しく扉を叩く音が響き、深呼吸をひとつして扉を開けた。
「お待たせ」
そこにはポットとティーカップをのせたトレイを持ったアレンが立っていた。
「入っていい?」
「え、うん、もちろん」
ここは彼の場所なのに――と、不思議な感覚を覚えながらも答えた。
アレンはトレイをテーブルに置き、ポットからカップへとお茶を注いでくれた。立ちのぼる香りが、ふわりと鼻先をかすめる。
「はい、どうぞ」
差し出されたカップから漂うのは、やさしく落ち着く柑橘系の香りだった。その香りだけで、張りつめていた心が少しずつほぐれていくのを感じる。
そういえば元の世界でも、寝る前にアロマを焚いたりしていた。
「睡眠の質が上がる」とか「リラックスできる」とか、半信半疑で試していたけれど……今なら、あのとき感じた小さな安心の理由が分かる気がした。
ふーっと息を吹きかけてひと口含む。舌の上に広がるやわらかな甘みと、すっきりとした後味。思わず笑みがこぼれた。
「……美味しい!」
思ったよりも声量があり、慌てて唇を押さえる。アレンは、むしろ嬉しそうに目を細めて笑った。
「アレンは飲まないの…?」
「ああ、俺は大丈夫」
「そっか…ありがとう。わざわざ私のために」
こんなふうに誰かが自分を気遣ってくれるのは、やっぱり嬉しい。
胸の奥がじんわりと温かくなる一方で、でも自分には返せるものがなくて、戸惑いが混ざる。
ハーブティーを口に運んでいる間も、アレンの視線がまっすぐに注がれているのが分かる。
落ち着かない。カップを握る手にまで意識が集中してしまい、香りを楽しむ余裕すら薄れていく。
じっと見つめられる瞳に耐えきれず、自然と視線を落とし、頬に熱が上るのを感じながらうつむいた。
「あ、あの……あんまり見ないで」
ただ飲んでいるだけなのに、目線が移動する気配がなく、ついに耐えられなくなって口に出した。
「……だめ?」
「……いや、だめっていうか、単に私が恥ずかしくて」
まさか、【だめ?】なんて疑問系で返ってくるとは思わず、予想外の言葉に驚いた。
「じゃあこれからは気をつけるよ」
「そうしていただけると……」
笑って「気をつける」と言うアレンに、正直あんまり期待はできない。
私が過敏に意識しすぎなのか、これがこの世界では普通の距離感なのかは、まだ来てばかりだからわからないけど…。初対面にしてはやっぱり距離が近い気がする。
私は残り半分残ったカップを手に取り、勢いよくハーブティーを飲み干す。口の中に広がるフルーティーな香りが、少しずつ緊張を溶かしていく。ティーカップをテーブルに戻すと、ほんの少しだけ落ち着いた呼吸が戻ってくる。
「ありがとう、ごちそうさまでした」
「どう?眠れそう?」
「うーん、もう一回横になってみる。付き合わせちゃってごめんなさい」
「じゃあ、眠れるまでそばにいるよ」
「…え?」
またもや予想外の返答が来て、私は一瞬思考が止まった。
“そばにいる”って……まさか、私が眠れるかどうか横で見ているってこと?そんなの恥ずかしすぎる。心臓の鼓動が一気に跳ね上がった。
「ミアが眠るまで本を読んでるから、気にしないで」
落ち着いた声でそう言われても、気になるものは気になるに決まっている。
言葉の端々から本気の気遣いが伝わってきて、下手に断るのが逆に悪いような気がして、結局私は観念した。
アレンはランタンの光を一番小さくすると、部屋の片隅に置かれた椅子へ腰掛け、本を開いた。ランタンの小さな光が彼の横顔を淡く照らし出し、その姿は妙に落ち着いて見えた。
「俺はここにいるから、何かあったら呼んで」
「ありがとう……」
ベッドに横になり、掛け布団を握りしめながら答える。
本当にいいのだろうか。出会ってまだ一日目の私のために、こんなことまでしてくれるなんて。今までの人生でも、ここまで献身的にそばにいてくれた人がいただろうか……。しかも出会って1日目で。
じわりと胸の奥に熱が広がる。恥ずかしいけれど、安心する。
ハーブティーの香りと、すぐ近くに誰かがいるという心地よい気配が、緊張で固くなっていた身体を少しずつ解きほぐしていく。
――もう、考えるのも面倒なくらいにまぶたが重くなっていた。
アレンがページをめくる小さな音を子守唄のように聞きながら、私は気づけば静かに眠りへと落ちていった。




