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6. 静寂に溶ける心

 

 再び扉を叩く音が聞こえ、二人同時にピクリと肩を震わせた。思わず手を離し、ぎこちなく距離を取る。


「アレン様、ご飯の準備ができましたが召し上がられますか?」

 扉越しに、門で聞いたのと同じ執事の落ち着いた声が響く。


 アレンが軽く咳払いをして、平静を装うようにこちらを向いた。

「……何か食べられそう?」


 この、どうしていいか分からない甘い空気から抜け出せるなら、どんな質問でも救いに思えた。

「は、はい。大丈夫です」


「よかった」

 そう言って微笑むと「かしこまりました」と声が聞こえた。


「あの…ご馳走になっても良いんですか?」

「もちろん。それより、敬語もいらないからね」

「え?……これも“なんでも言って”って、私が言った要望のひとつですか?」

「はは、そうだな」


 くすっと楽しそうに笑うその声が、部屋の空気を一気に軽やかにしていく。

 ――なんでも言って、なんてやっぱり言うんじゃなかったかな。

 豪邸に住む彼が、一般市民ではないことは明らかだ。馴れ馴れしくしすぎて執事に注意されないか、不安が胸をかすめる。


「そういえば、ミアはさっき言ってたニホンから来たの?」

「え、あ…えっと……」


 全く別の世界に来てしまったことを、正直に“異世界から来た”なんて言っていいんだろうか。いくらアレンが優しくても、変な人認定されて見放されたら……。

 言葉に詰まり、視線を彷徨わせていると、アレンが先に口を開いた。


「うちにいていいよ」

「え?」

「見ての通り、部屋はたくさんあるし。ミアが良ければだけど…」


 ぽかん、と口を開けたまま固まってしまった。

 しばらく住まわせてもらえたら――なんて淡い期待は確かにあった。でも、まさか向こうからこんな提案をされるなんて。


「本当に、いいんですか?」

「…ですか?」

 私の言葉の最後だけを、アレンはいたずらっぽく繰り返す。


「うっ……」思わず言葉に詰まる。

「……いいの?」と、観念したように言い直した。


「いいよ」

 短く、でもほんのり温かさを帯びた声で告げると、アレンはそっと手を伸ばし、私の頭を優しく撫でた。


 ドキッと胸が高鳴る。この数時間でどれだけドキドキさせてくるのだろうか。この世界ではこの距離感が普通なのか…?ここは異世界だから、そう言い聞かせて自分で納得することにした。


 冷静になろうとしても、頬の熱、鼓動の速さ、心のざわめきは止まらない。全部アレンに伝わってしまっているのではないかという予感が、私をさらに緊張させた。


(毎日こんな調子じゃ、身がもたない……。早く帰る方法を見つけないと……)


 息を整えようと深く吸い込むけれど、胸の高鳴りは簡単には治まらなかった。

 頭の奥ではずっと、見慣れない景色と得体の知れない生き物、そして「アレン」という彼の存在がぐるぐると渦を巻いていた。



 ◇◇


 案の定、この世界で迎えた初めての夜は眠れなかった。


 一人で薄暗い部屋に横たわると、巨大な生物に追いかけられた時の記憶が何度もフラッシュバックしてくる。荒い息づかい、土を蹴る重い足音、背中を貫くような殺気――それらが鮮明によみがえり、背筋が冷たくなる。


 それだけではない。そもそも自分はどうしてこんな場所にいるのか。元の世界に帰れるのか。考えれば考えるほど、底なし沼に沈んでいくような不安に飲み込まれていった。


 二時間くらいだろうか。ベッドの上でごろごろと身をよじり、シーツを握りしめ、目を閉じようとしてはすぐ開ける、を繰り返した。疲れているはずなのに、眠気は一向に訪れない。むしろ心臓ばかりがうるさくなり、瞼を閉じるのが怖くなる。


 このままではおかしくなってしまいそうで、とうとう我慢できずベッドから身を起こした。


 サイドテーブルに置かれていた小さなランタンを手に取り、息を潜めるようにドアを開ける。ギィ、と木製の蝶番が鳴る音が、シーンとした中に大きく響いた。


 廊下には小さな照明が等間隔に灯っていたが、メインの明かりは落とされていて薄暗い。石造りの壁がひんやりと冷たく、足音さえ吸い込まれていくように感じる。


 窓から射し込む月明かりが床に筋を描いている。そのおかげで歩けないほどではないけれど、静けさと薄暗さが心をざわつかせた。


 数歩進んでみたものの、もしこの建物の中で迷ってしまったらと思うと足がすくむ。胸の奥がきゅっと縮み、引き返そうと踵を返した。


「……誰かいるのか?」

 低く通る声が、廊下の奥から響いた。


 肩がびくりと跳ね上がり、手に持っていたランタンがカランと音を立てて床に落ちた。金属枠が石に当たり、鈍い響きが廊下に広がる。炎は消えず、揺れる明かりが心臓の鼓動に呼応するようにぱちぱちと踊り、石床に映る影を不気味に伸ばしていった。


 おそらく、私のランタンの光でバレてしまったのだろう。


 それにしても誰だろう、こんな夜中に。コツコツと近づいてくる足音が、やけに大きく響いて恐怖を煽った。

 パッと光が私に向かって差し向けられ、思わず顔をしかめる。


「ミア……?」

 不安そうな声と共に、その人影が走り寄ってきた。


「こんなところでどうしたの……?」

 焦った様子で問いかけてきたのは――アレンだった。その顔を見た瞬間、体中から力が抜け、ほっと胸を撫で下ろす。


 彼は地面に転がったランタンを拾い上げた。


「ごめんなさい……ちょっと眠れなくて」

「あぁ……そういうことか」

 小さく息を吐き、どこか安心したように呟いた。


「温かい飲み物でも飲む?」

「え?」

「よく眠れると評判のハーブティーがあるんだ。持ってくるから、部屋で待ってて」

「え、あ……ありがとう」


 私がそう答えると、ほっとした表情を浮かべ嬉しそうに「先に部屋に戻ってて」と言い残し、ランタンを渡すと暗闇へと消えていった。


 残された私は、しばらくその場に立ち尽くしていた。暗い廊下は相変わらず静かで、心臓の鼓動がやけに耳に響く。ほんの数分前までは、この場所に自分ひとりきりだと思っていた。だからこそ余計に、アレンの存在がありがたく感じられた。


 受け取った灯りを頼りに部屋へと戻る。扉を閉めた途端、張りつめていた気持ちが一気に溢れ出し、膝から力が抜けてベッドの端に腰を下ろした。


 ――帰れないかもしれない。

 その恐怖は頭の中でぐるぐると回り続け、息を吸うたび胸がきゅっと縮む。目を閉じれば、追いかけられたあの怪物の気配がすぐ背後に迫ってくるようで、どうしても落ち着けなかった。


 けれど同時に、「誰かが自分を気にかけてくれている」という事実が、かろうじて私を支えていた。アレンの声も、差し出されたランタンの温もりも――まだこの世界で完全に孤独ではないのだと教えてくれる。


 ありがたい反面、申し訳なさも強くなる。こんなに丁寧にもてなしてくれるのは、この世界では普通のことなのだろうか。それとも、私が彼の探している()()と瓜二つだから――? そう考えると胸がきゅっと締めつけられ、安らぎと罪悪感が同時に押し寄せてきた。


 窓の外には、私の住んでいた町では到底見られないほどの星が散りばめられている。息をのむような光景だった。

 異世界とはいえ、ここもやっぱり地球の延長線上なのだろうか。そう思いながら、丸く浮かぶ月を見上げる。あまりに静かで、あまりに遠くて――思わず、ぽつりと「帰りたい」と呟きそうになった。


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