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4. 異界の門をくぐって


 ――次の瞬間、目に飛び込んできた景色に息を呑む。


「……っ!」


 言葉が喉に詰まり、息すら止まった。


 そこに広がっていたのは、明らかに私がいた世界とは違う光景だった。茶色いレンガ屋根がずらりと並び、ところどころには塔のように高くそびえる建物が見える。窓枠や扉はカラフルに彩られ、どこか絵本の中で見たような、異国の街並み。観光雑誌でしか見たことのない、ヨーロッパの古い町を思わせる景色が目の前に広がっていた。


「……ここ、どこ?」

 発した言葉が震えているのがわかる。


「…ん?どういうこと?」

 彼は首をかしげ、まるで私の問いの意味が分からない、とでも言うように返す。


「日本じゃないよね?」

 縋るように問いかけると、彼はさらに眉を寄せた。


「ニホン…?初めて聞く地名だな…」

 その言葉を耳にした瞬間、頭を鈍器で殴られたような衝撃が走った。


 うっすらと感じていたことが現実となって私を襲ってくる。

 見たこともない服装の人たち、あり得ない生き物、そして馴染みのない景色――。


 はっきりした。ここは私の知っている世界ではない。

 辻褄が合わなかったのは当然だ。私は――全く違う場所に来てしまったのだ。


 理解した途端、全身の力が抜ける。冷たいものが背筋を駆け抜け、胸の奥に不安と絶望がじわじわ広がっていく。


 あの生き物だって、この世界では日常の一部なのかもしれない。私にとっては怪物でも、彼らにとっては「森でよく見る獣」程度なのだろう。そう思った瞬間、血の気が引いていく。


 頭の中が真っ白になり、何も考えられない。ただ、目の前に広がる異世界の光景を呆然と眺めていた。瞬きをすることすら忘れ、目が乾いて痛むのに、視線を外すことができない。


(……帰れるの……?本当に……?)


 最悪の未来ばかりが頭をよぎり、息が浅くなる。今ここで気を抜いたら、泣き崩れてしまいそうだった。


「友達と来てた場所って……ここのこと?」


 不意にかけられた低い声に、意識を引き戻される。彼の視線の先には、広場のような場所が広がっていた。芝生の上にシートを敷き、食事を楽しむ人々。子どもたちが駆け回り、大人たちが笑顔で見守っている。まるでピクニック会場のように賑わっていた。


 けれど――そこは私の知っている広場ではなかった。

 必死に首を横に振ると、彼は静かに息をつき、周囲を見渡した。


「そうか……。じゃあ、他に該当しそうな場所は……」

 

 低く呟く声は、どこか真剣で、私の不安を少しでも和らげようとしているのが伝わってきた。彼は私の言葉を信じ、必死に次の候補を頭の中で探してくれているのだ。


 ――だけど胸の奥では、不安と恐怖がまだ渦巻いている。唯一の支えは、助けてくれる人がそばにいたこと。それだけだった。


 しかし、考えれば考えるほど現実は残酷だった。

 この場所は私が知っている世界ではない。どれだけ探したところで「知っている場所」に辿り着けるはずもない。それを分かっていながらも、私は彼に何も言えずにいた。


 彼はそんな私を心配そうに見つめた後、ふと周囲の人々へと視線を向け馬から降りた。すると、近くにいた家族連れに歩み寄り短く言葉を交わしていた。


 私は慌てて声をかける。

「あの……すみません、もう大丈夫です。ここには……いないと思うので」


 自分の顔がどんな表情をしていたのか分からない。けれど彼は、深く心配するような眼差しをこちらに向けていた。


「……そうか。じゃあ、ひとまず足の手当てをしに家に行こうか」

「ご迷惑おかけしてすみません」


 この世界に、頼れる人などいない。今の私にとって彼の存在が唯一の救いだった。


 ――けれど、不安は消えない。

 この先どうなるのか。帰れる保証のない場所で、生きていけるのだろうか。そんな暗い思考に押し潰されそうになりながらも、彼に導かれるまま馬に揺られていた。


 不安を拭えないまま、気がつけば馬の足が止まっていた。

 そして、視界に現れたのは――。


「え……ここ?」

「そうだよ」


 豪邸、という表現では足りない。もはや“お屋敷”と呼ぶべき規模だった。


 堂々と構える高い門の奥には、見渡す限りの庭園が広がっていた。手入れの行き届いた芝生に、色鮮やかな花々。噴水の水音さえ澄んで聞こえる。


 ギィーと金属が擦れる音を立て、重厚な門がゆっくりと開いていく。まるで別世界の扉が開かれていくようで、私の鼓動は速まった。

 何事もないかのように、彼は馬を進める。パカパカと響く蹄の音が、石畳に反響し、静寂を切り裂いていった。


 やがて玄関前に差しかかると、そこには一人の男性が立っていた。年の頃は四十代か五十代ほど。深い色合いの正装を纏い、背筋を真っ直ぐに伸ばしている。その佇まいはまさしく執事と呼ぶのにふさわしい品格を漂わせていた。


「おかえりなさいませ、アレン様」


 耳に残った「アレン様」という呼び方に、思わず胸がざわついた。


「そちらの方は…?」

「ミアだ。足を怪我しているようだから、医者を頼む」

「かしこまりました」


 落ち着いた声で答えると、執事らしき男性はすぐに建物の中へと姿を消した。

 ――医者を“呼ぶ”って、まさかここまで来てもらうつもりなのだろうか。そんな贅沢なこと、私の常識では考えられない。


「手を」

 気づけば、彼はすでに馬から降り、私の方へ手を差し伸べていた。


「え、ここから降りるんですか……?」

 見下ろすと、意外と地面までの高さがある。着地の瞬間に足へ衝撃が走ることを想像し、不安が胸をよぎった。


「大丈夫、俺が支えるから」


 短く言い切る声は不思議な力を帯びていて、その表情を見た瞬間、心配は一気に消え去った。

 ――この人ならきっと、何があっても私を助けてくれる。なぜかそんな確信が胸の奥に灯る。


 私はそっと差し出された手を握り、体を預けるように彼の胸へ飛び込んだ。ふわりと体が宙に浮く感覚。次の瞬間には、彼の力強い腕の中にすっぽりと収まっていた。


 その抱き上げ方は、あまりにも自然で、あまりにも鮮やかで――思わず彼の顔を見上げる。すると、彼は嬉しそうに、そしてどこか楽しげに微笑んでいた。


 そのまま彼はお姫様抱っこをした状態で歩き出した。森の中で助け出された時に続き、これで二度目だ。慣れるはずがない。胸の奥が熱くなり、耳の先まで赤くなっていくのが自分でも分かった。


 彼は私を抱えたまま、一切のためらいもなく堂々と正門をくぐり抜けた。腕の中で揺れる自分が恥ずかしくて仕方がないのに、彼の歩みはあまりにも自然で揺るぎない。その姿からは「これが当然だ」とでも言うような自信が漂い、私の羞恥心など気にも留めていないようだった。


 石畳に響く靴音が屋敷に近づくたび、胸の鼓動は早まるばかり。やがて扉が開かれ、視界いっぱいに広がったのは息をのむような大広間だった。


 高くそびえる天井からは豪奢なシャンデリアが眩い光を放ち、磨き上げられた床は鏡のように二人の姿を映し出している。真紅の絨毯はまっすぐ奥へと延び、両側の壁には緻密な装飾や絵画が整然と飾られていた。


 圧倒的な空間の中で、私はただ呆然と彼の胸に抱かれていた。周囲にはすでに数人の使用人らしき人々が姿を現し、揃って一礼する。異様なその光景にさらに心臓が跳ねた。


「馬を小屋にお願い」

「かしこまりました」


 当然のように指示を出すと、一人の使用人が静かに頷き、馬の手綱を取って去っていった。

 心の奥で驚きと戸惑いが渦巻く。けれど、彼の背筋の伸びた姿勢や落ち着いた態度に、気づけば目を奪われていた。


 広い屋敷の中は迷路のようで、幾つもの部屋が並んでいる。それでも彼は迷うことなく奥へと歩を進め、その間も私はずっとお姫様抱っこのままだった。羞恥心が募る一方で、不思議と彼の腕からは逃れたいと思えなかった。


 やがて重厚な装飾が施された大きな扉の前に立つと、彼は私を支えたまま左手を伸ばし、音もなくそれを押し開いた。


 中に広がったのは落ち着いた雰囲気の部屋。シックな色合いでまとめられ、大きな窓からは柔らかな陽光が差し込み、電気を灯さなくても十分に明るい。壁際には一人で眠るには大きすぎるほどのベッドが置かれており、その存在感に思わず息を呑んだ。


やっと私は彼の腕から解放されてソファーに下ろしてくれた。


「ありがとうございます、重かったですよね」


 申し訳なさからそう口にすると、彼は少し驚いたように目を細め、楽しそうに笑った。

「重いわけないだろう?一日中だって抱えてられるよ」

「い、一日中…?」


 そんな私の反応を楽しむかのように、にこやかに「冗談だよ」と言い添えた。その笑顔があまりにも自然で、気づけば胸の奥が温かくなるのを感じていた。


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― 新着の感想 ―
元夫は100キロ位なら簡単だ、とか言ってたのに50キロの私をお姫様抱っこを3歩、歩いて落としそうになってた〜嘘つきでした!お姫様抱っこ難しいのかな…
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