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36. 日食(前半)

 

 隣の部屋にシャワー室があり、ゆっくり湯船に浸かるとすっきりとした気分で部屋へ戻った。髪をタオルで拭きつつ入った私を、アレンはソファに腰掛けたまま、安心したように目を細めて見上げていた。


「すっきりした?」

「うん」

「ここ座って」

 そう言うとアレンは立ち上がり、ドレッサーの前にある椅子を引いて私を座らせた。


「髪、乾かしてあげる」

「えっ!?いいよ、自分でできるから!」

「いいから。ミアはじっとして」


 半ば強引に椅子へ座らせると、アレンは手早くヘアドライヤーを取り出した。温風の音が小さく響き、彼の指先が私の濡れた髪を梳いていく。


「……柔らかいな」

 ぽつりと漏れたその声に、私は思わず肩をすくめた。


 頬がじわじわ熱を帯びる。アレンの手つきは驚くほど丁寧で、まるで大事な宝物を扱うみたいに優しかった。


「……そうだ。アレンの呪いって、もう完全に解けたんだよね?」

 私が恐る恐る問いかけると、彼は少し口角を上げて答える。


「うん。証拠、見る?」

 体に刻まれた呪いが消えたことを見せようとしてくれたのが、服をめくろうとした。いたずらっぽい視線に心臓が跳ねて、私は慌てて首を横に振った。


「い、いい!信じるから!」


 アレンはくすりと笑うと、吹き抜ける風のように柔らかな笑顔を見せた。その表情を見るだけで胸が温かくなる。

 ――十年越しにようやく呪いを解けたのだ。


 これでもう、苦しむ彼を見ずに済む。その事実だけで、込み上げる嬉しさに胸がいっぱいになった。



 髪を乾かし終えると、アレンはドライヤーを静かに置き、ソファへと戻った。さっきまでの柔らかな笑みとは打って変わり、表情には深い影が落ちている。


「どうかしたの…?」

「……実は、まだ言ってなかったことがあるんだけど……」


 重く口を開いた声には、どこかためらいが混じっていた。言葉を探すように口を開いては閉じていて、ついには意を決したのか言葉を発した。


「……今日、この地域で日食が見られるらしいんだ」

「え?今日?」


 耳を疑って思わず声を上げる。呪いのことに必死で、そんな天体現象のことなどすっかり頭から抜け落ちていた。


 日食――それはめったに起こらない特別な現象。

 しかも偶然、いま自分たちがいるこの場所で見られるなんて。奇跡のような巡り合わせだと言っても過言ではないだろう。

 だけど、私はアレンに日食が元の世界に帰れる方法であることを言ったことはなかった。


「どうして、それを……?」

 問いかけると、アレンはどこか罰の悪そうに視線を逸らし、少し顔を歪めて答えた。


「……ミアが過去から戻ってきて、数日後。オリバーが俺のところへ来たんだ」

「えっ、そうだったの?」


 思いもよらない言葉に息を呑む。しかしアレンはそれ以上言葉を続けず、しばし唇を噛んで黙り込んだ。

 やがて、眉を寄せたまま絞り出すように続ける。


「ミアが元の世界に戻るために必要な情報だと分かっていたんだけど……」

「アレン……」


 胸が締め付けられる。彼がそのことでどれだけ悩み、苦しんでいたのかが表情から分かってしまったから。


「……ごめん」

 その声はかすかに震えていた。

 私は慌てて首を振り、笑顔を作る。


「ううん。教えてくれてありがとう」


 それなのに、アレンの顔には安堵ではなく、深い悲しみの影が浮かんでいた。まるで、自分の心を押し殺すような、痛々しい表情。


「……ないで」


 彼が絞り出すようにそう呟いたのは、ほんの小さな声だった。


「自分勝手なのは分かってる。でも……行かないでほしい」

 泣き出しそうなほど切実な声音に、胸が軋んだ。


 こんなにも弱々しいアレンの声を聞いたのは初めてだった。どれだけ彼が私の存在を必要としてくれているのか、その一言にすべてが詰まっている気がした。


「……俺の側にいて、ミア」


 真正面から見つめるその瞳には、必死な祈りのような色が宿っていた。

 その視線を受け止めた瞬間、胸の奥がぎゅっと掴まれるように苦しくなり、私の喉は強張り、言葉が出なくなる。


「元の世界のことは分からないけど、不自由な生活はさせないし……俺が……一生幸せにするから」


 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かが止まったように息が詰まる。

 ――それはまるで、未来を誓う言葉のようだった。


「……一生幸せにしてくれるの?」

 

 頬が熱くなり、思わず唇の端がゆるむ。プロポーズとも取れる言葉に、心がふわりと軽くなった。


「……私もここに残りたい」


 気がつけば、そんな言葉が口から零れていた。

 あんなに帰る方法を探していたのに、この世界に、この場所に、アレンに……思い入れが深くできてしまっていた。

 このまま残ってもいいよ、と、どこかで言ってくれるのを密かに望んでいた自分に気づく。


「え、アレン!?」


 次の瞬間、アレンの眼から透明な雫が頬を伝い、床に落ちた。


「ど、どうしたの?」

 初めて見るアレンの涙に、胸がざわめく。


 私の声で、アレン自身も泣いていることに気づいたらしく、はっとして左腕で慌てて目元を擦った。


「まさか……そう言ってくれると思わなくて……」

 かすれた声でそう言いながら、必死に涙を拭くアレンの姿に胸がきゅんとなる。


 ――まさかそんなに喜んでくれるなんて。その光景に、つられるように私の目頭まで熱くなっていく。


「そういえば、お腹減ったでしょ。なんか持ってくるよ」

 アレンは恥ずかしそうに視線を逸らし、逃げるように部屋を出ていった。


「ふふっ……」

 思わずアレンの可愛さに声が漏れる。誰もいない部屋で、その笑い声が小さく響いた。


 まだ胸の奥がドキドキと鳴りやまない。きっと、日食が起こるタイミングによっては、私は元の世界に帰ろうとしていただろう。

 ――でも今は、その選択肢すら遠いものに感じられた。


 アレンに「側にいてほしい」と告げられた言葉を思い出すたび、胸の奥がじんわりと熱くなる。その熱を持て余すように、ソファに腰をかけたまま、思わず両足をバタバタと揺らしてしまった。

 我ながら落ち着きのない子どものようで、恥ずかしいのに、笑みがこぼれる。


 その時だった。

 窓の外がふっと翳り、部屋の中の明るさがみるみる薄れていった。


「あ……日食」


 思わず立ち上がり、窓辺に駆け寄る。

 雲に隠れたわけではない。空に浮かぶ太陽が、ゆっくりと、しかし確実に黒い影に飲み込まれていく。


「日食って……こんなに暗くなるんだ……」


 目の前の光景は圧倒的だった。

 昼間なのに、まるで夜の帳が一気に降りてきたかのように辺りが闇に包まれていく。世界そのものが息を潜めたように静まり返り、風の音すら遠のいて感じられた。


 ――でも、もう私には関係ない。元の世界へ戻る手がかりだったはずの日食も、今はただの自然現象に過ぎない。

 私は、アレンと共にここで生きるって決めたのだから。


 そう思い直して、ソファに戻ろうと振り返った瞬間だった。


 ――チリン。


 小さな鈴の音が、静寂の中で鮮明に響いた。


「え……?」


 驚いて立ち止まる。音の出どころは、自分のポケットだった。


 着替えた時には気づかなかったけれど……アレンが気遣って入れてくれたのだろうか。

 いつも肌身離さず持っていた鈴。けれど、これまで自然に音が鳴ったことはなかったはず。


 もちろん鈴を揺らしたら音はなるけれど、歩いたりなどの振動で音が鳴ることは今まで一度もなかった。


 不思議に思いながら、私はポケットを押さえる。掌の下で、冷たい金属の感触が確かにそこにあった。それ以上鳴らないよう、息をひそめるようにそっと手で押さえながら、足をソファへと運ぶ。


 ソファに腰を下ろし、窓の外をぼんやりと見つめる。やがて、月に完全に隠れていた太陽がゆっくりと顔を出し、再び光が差し込み始めた。


 ーーその時だった。


 あたりが急に眩しさに満ちて、思わず目を強く閉じる。


「っ…!」


 太陽の光が差し込んだだけ、そう思おうとしたが違う。この感覚は――間違いない。前に過去へ飛ばされたときと同じ。


 鈴はまだ一度しか鳴らしていないのに。


「ミア!」


 バタン! と勢いよく扉が開き、甲高いガシャーンという音が響いた。アレンが手に持っていたトレイを取り落とした音だった。


 アレンは迷うことなくこちらに走り寄り、必死に手を伸ばしてくる。私も反射的にその手を掴もうと腕を伸ばした。


 ――あと少し。指先が触れそうだった。


 けれど、その瞬間。私の身体は白い光に完全に飲み込まれてしまった。



 ◇◇


「……また、ここに来てしまった」

 胸の奥がズキリと痛む。せっかく「帰らない」とアレンに伝えたばかりだったのに。どうして、こんなことに。


 落胆で足が止まりかけたが、すぐに思考が巡る。

 ……過去に飛んだとき、私は足の赴くままに十年前の時代へ行った。ならば――行く場所さえ間違えなければ元の世界へは行かず、アレンの元に戻れるのではないか。


 周囲を見渡す。けれど、広がるのは相変わらずの真っ白な空間。目印どころか、影すら存在しない。どちらへ進むべきかさえ分からない。


 それでも私は、ゆっくりと足を前に踏み出した。


 ふと気づく。

 手の中には、確かにあの鈴が握られていた。


「……なんで、またここに来ちゃったのかな」

 

 小さくつぶやき、鈴を目の高さに持ち上げる。その銀色の表面に映る自分の顔は、不安と戸惑いに揺れていた。ため息が自然と漏れる。


 その時――。

 どこからともなく風が吹き抜け、鈴が小さく揺れて澄んだ音を奏でた。


 チリン――。


 ハッとして風の吹いた方へ顔を向けた瞬間、耳に飛び込んできたのは聞き慣れた声だった。


「じゃあ、そろそろ行こっか」


 この声は…由美子?懐かしい響きに、思わず息を呑む。次の瞬間、さらに別の声が続いた。


「あ、行く前にトイレ行っていい?」

「うん! じゃあ、ここで待ってるね」


 それは、まぎれもなく私自身の声。

 すぐに理解した。――あの時だ。この世界に来る直前、由美子と森を歩いていたときの会話。


 ということは……この先を進めば、元の世界に繋がっているの?


 足元に視線を落とし、思わず一歩引く。

 鮮明に蘇る記憶。森で迷った私が、鈴の音に導かれてたどり着いた一本の巨木。あの時聞こえた鈴の音……それって、もしかして――今、私の手にある、この鈴の音だったのでは?


 だとすれば…!


 頭の中で結論を出すより先に、身体が勝手に動いていた。私は握っていた右手を振りかぶり、声の響く方向へ向かって、鈴を力いっぱい投げ放った。

 

 鈴は放物線を描き、その先の空間に吸い込まれるようにして、音を残して消えた。


「……よし!」

 

 胸の奥で確信が芽生える。あの鈴は過去の私のもとへ届いた。その鈴がきっと過去の私をアレンの元へ連れて行ってくれるだろう。すべてが繋がっていたんだんだと、そう思えた。



 ーーアレンのいる世界へ戻ろう。


 体を反転させ、来た方向へ走り出す。

 白一色の世界に目印などないはずなのに、不思議と足は迷いなく進むべき方角を選び取っていた。鼓動が速さを増すたびに、足も自然と速くなっていった。


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