31. 過去と未来
その夜――。
眠りについたレンくんを寝室に運び、私も簡単に片付けを済ませてベッドに横になっていた時だった。静かな闇に包まれた部屋で、うとうととまどろんでいた私の耳に、突然――
ドンドンッ!
玄関の扉を乱暴に叩く音が響いた。
胸がぎゅっと縮む。こんな夜更けに、一体誰が……?もし怪しい人だったらどうしよう。心臓が早鐘を打つ。
「……は、はい」
扉は開けず、恐る恐る声を返した。
「ミア!わしじゃ」
聞き覚えのある声に安堵が広がる。帰ったはずのオリバーさんだった。慌てて扉を開けると、息を弾ませた彼が立っていた。表情はただ事ではない。
「ど、どうしたんですか……?」
「今夜、月食じゃ!」
思わず言葉を失う。
「え……?」
どういうこと?私は頭を傾かせた。
「この星の動きが変わっていたようだ!」
頭を傾げる私に、オリバーさんは焦ったように叫んだ。
「とりあえず、鈴を持って来い!」
その迫力に押され、私も慌てて寝室へ駆け込む。机の上に置いてあった鈴を掴み、急いで戻った。
「これです!」
「うむ、よし……」
けれど疑問が膨らむばかりだった。
「あの……星の動きが変わったって、どういうことですか?」
「ほれ、見てみい」
オリバーさんが指差した夜空を仰ぐと、そこには欠け始めた月があった。白銀の円が、ゆっくりと闇に食われていく。
「……もうすでに月食は始まっておる」
「そ、そんな……!」
しばらく見上げている間にも、月はみるみる形を変えていく。オリバーさんの言葉は間違いではなかった。
レンくんが寝ている2階を見つめる。
まだ何も話せていないのに。出会ってまだ一か月。けれど、彼が私に心を開いてくれているのはわかっていた。
せめてもーー。私は駆け足で部屋に戻り、鍵のかかった引き出しを開けて小切手を取り出した。
「私、未来では王室の研究所に勤めていたんです。そのときにいただいたお給料の一部なんですけど……レンくんの騎士団の入学金とか、いろいろこれから必要になると思うので、使ってください」
学校に説明を聞きに行ったとき、必要な費用のおおよそは把握していた。養成所と名はついているものの、学費そのものはほとんどかからない。けれど、道具や装備、生活に必要なものはこれから必ず出てくるはずだ。
アレンと共に暮らしていた頃、必要なものはいつも彼が揃えてくれた。街に出かければ、私が少しでも「いいな」と足を止めると、当然のようにプレゼントしてくれた。だから、私はほとんどお金を使うことがなかった。
ーー今、私ができることはこれくらいだ。
オリバーさんは一瞬、目を瞬かせて戸惑ったように見えた。けれど、私が頑なに差し出すのを見て、最後には小さくため息をつき、諦めたようにそれを受け取った。
「全く……君は律儀すぎるな」
そう言いながらも、その表情はどこか優しかった。
「オリバーさん!」
「ん?」
勢いよく名前を呼ぶと、オリバーさんが目を丸くして私を見た。その視線に一瞬たじろぎながらも、胸の奥からあふれる言葉を止められなかった。
「レンくんに……私のこと、探さないでって伝えてください」
レンくん――私の見立てが誤りでなければ、彼は未来のアレンだ。
あの時、アレンは“ずっと探してやっと見つけた”と語っていた。少しでも、その重荷を減らしたい。ただそれだけだった。
「10年後……会えるのを楽しみに待ってるって」
私の声は震えていた。オリバーさんは、言葉の意味を測るように私をじっと見つめ、それからゆっくりと頷いた。
「わかった」
低く、真剣なその声に胸がじんわりと温かくなる。
夜空を見上げると、月はほとんどその姿を失っていた。世界がひっそりと息を潜めたように静まり返る中、私は鈴を両手で包み、胸元に寄せた。
チリン、チリン、チリン。
小さな鈴の音が、冷たい空気を震わせながら夜に溶けていく。その響きが、何かを呼び覚ます合図のように感じられた。
「あ、そうだ……」
思わず振り返り、もう一つ頼み事を口にする。
「10年後、オリバーさんを訪ねて、元の世界に帰る方法を聞かれると思います。その時……もし知っていたとしても、いい感じに誤魔化してください。……アレンの過去が変わっちゃうので」
「わかっちょるよ」
オリバーさんは口元を緩め、優しく微笑んだ。
その顔は不思議と未来の面影と重なり、胸の奥に安心が広がる。
「未来のわしが、ちゃんとメッセージを残してくれておったからの」
そう言って、彼は片目をぱちんと閉じてウィンクした。
その瞬間、私の視界がまばゆい白光に包まれる。私は「ありがとうございます!」と10年前のオリバーさんに言葉を残した。
――あれは、あの本の最後にあった殴り書きのメモ。
私にもアレンにも読めなかった、あの乱雑な文字は、過去のオリバーさんに宛てた未来からの手紙だったのか。
白い光の中で、私の足は自然に動き出す。
自分の意思で歩いているのに、何かに導かれるような感覚。頭で考えるよりも先に、心が「行くべき場所」を知っているかのようだった。
足がふと止まる。
その瞬間、胸の奥に確信が芽生えた。
――10年前に行ったことが、なぜアレンの呪いの進行を遅らせたのか、やっと謎がわかった。これで、彼を救えるかもしれない。
強くそう思い、一歩を踏み出す。
白い光がゆっくりと溶けていく。闇に閉ざされていた世界が、少しずつ色を取り戻し、目の前に鮮やかな景色が広がっていった――。
◇◇
目を開けると、目の前に見慣れた天井と壁が広がっていた。すぐにわかる。ここは、アレンの家だ。私は、自分の部屋のベランダに立っていた。
(帰ってこれたんだ)
胸の奥がじんわりと温かくなりながらも、頭の片隅には不安がよぎる。
――私が過去に行っている間、この世界ではどれくらいの時間が経っていたのだろうか。
ひんやりとした風が頬を撫で、カーテンを揺らしていく。外はすっかり昼間の光。少なくとも、夜は明けた後のようだ。
不安に駆られ、私は足早に部屋を出て、大広間へと向かおうとした。廊下に響く自分の足音が、妙に心臓の鼓動と重なって落ち着かない。
「……ミア様?」
背後から聞き慣れた声が響いた。振り返ると、イーサンが驚いたようにこちらを見て立ち尽くしていた。
その目が私の顔を確かめるなり、イーサンは弾かれたように駆け寄ってきた。
「い、今までどこに……!」
息を荒げながらの問いかけ。私の胸に、ずしんと重いものが落ちる。
――もしかして、この世界でも一か月近く経っていたのだろうか。
「……すみません」
消え入りそうな声で謝ると、イーサンははっとしたように目を瞬かせ、「ちょっとお待ちください!」と短く言い残して、来た道を走って戻っていった。
その慌てた様子が、かえって胸に痛い。アレンにも心配をかけたに違いない。
勝手にいなくなって、またふらっと戻ってきて……。合わせる顔がない。
事情があるとはいえ、住まわせてもらっている立場で、何も告げずに消え、そして一か月後に何事もなかったかのように帰ってきて――。ほんと自分勝手だ。
胸の奥で後悔と罪悪感が渦を巻き、指先が落ち着かず、服の裾をぎゅっと握りしめる。
そのとき、遠くから足音が響いてきた。その足音はすぐに大きくなった。
足音のする方向を眺めていると、廊下の奥にあの姿が見えた。久しぶりに見る、アレンの背の高いシルエット。胸が一瞬だけ高鳴り、息を呑む。
アレンは、私を見つけた瞬間に足を止めることなく、真っ直ぐにこちらへ向かって走ってきた。
「あ……アレン……」
思わず名前を呼ぶが、視線を合わせることができない。足音だけがどんどん近づいてきて、心臓の鼓動も速くなる。
謝ろう――そう思っていたのに、言葉を発するよりも前に私はふわりと温かなものに包み込まれていた。




