30. 未来の欠片
事前に体験入学ができる、というのを知り、レンくんはまる二日家を空けた。
レンくんが体験入学に出かけている間、私はふと一人の人物を思い出していた。
――オリバーさん。
ティナさんに偶然出会えたのなら、オリバーさんにだって会えるかもしれない。未来で出会うはずの人だから、当然私のことを知っているはずはない。それでも、どうしても会ってみたいという気持ちが胸の奥で膨らんでいった。
アレンに連れられて訪れた時の記憶を必死に辿りながら、私はひとりで街の路地を進む。細い石畳の道を抜けた先、目に飛び込んできた懐かしい看板。
「ここだ……」
胸の奥がじんわり熱くなる。店の外観は新しい装飾が施されてはいるものの、全体の雰囲気はほとんど変わっていなかった。
思わず胸を撫で下ろし、深呼吸をしてから扉に手をかける。
「こんにちは……」
恐る恐る声をかけながら扉を開けると、カランと小さな鈴の音が響いた。中は相変わらず薄暗く、木の匂いとインクの匂いが混じり合った独特の空気が漂っている。
――そういえば、あの時ここで躓いて、アレンに支えられたんだっけ。
アレンとの記憶に心が揺れる中、店の奥から人影が現れた。
「おー、いらっしゃい」
現れたのはオリバーさんだった。少し若々しく、しかし目元や仕草は確かにあのオリバーさんそのもの。胸の奥が一気に熱くなり、言葉が喉に詰まりそうになる。
「あ……あの、私ミアって言います」
「ふむ?」
一瞬ためらったものの、ここでごまかすことはできなかった。今この時代で、私が頼れるのはオリバーさんしかいない。
「信じてもらえないかもしれないんですけど……実は、未来から来ていて」
一気に吐き出すように、私は本題を切り出した。
未来でアレンに連れてこられ、この店を訪れたこと。その時に移動魔法や空間の歪みについて教えてもらったこと。思い出せる限りの出来事を、ひとつ残らず語っていく。
オリバーさんは驚いた様子も見せず、ただ真剣に耳を傾けていた。頷きながら、時折「ふむ」と短く声を漏らす。
「その時、わしが渡したという本はあるか?」
唐突に問われ、私ははっとカバンを探った。
「あ、あります!」
やっぱり持ってきてよかった。私は大事に包んでいたその本を差し出す。
「ほぉ、これが……」
オリバーさんは分厚い本を受け取ると、ゆっくりページをめくり始めた。
どうやらこの時のオリバーさんはまだ自身では読んだことがなかったらしく、指先で丁寧に紙を繰り、じっくりと目を走らせていく。
ページを追ううちに、その目が次第に細められていく。そして最後のページをめくった瞬間、オリバーさんは動きを止め、何かを考え込むように黙り込んだ。
「……どうかしたんですか?」
思わず問いかけると、オリバーさんは顔を上げ、わずかに首を振った。
「いや……」
それ以上言葉を続けることなく、深く沈思するように黙り込む。その沈黙に、私は胸の奥がざわつくのを抑えられなかった。
――いったい、この本の中に何を見つけたのだろう。
しばらくして、オリバーさんがぽつりと呟いた。
「この文字……これはどうやら、わしが書いたようじゃの」
彼の指先が止まった場所を覗き込むと、そこにはかつてアレンが「字が汚い」とぼやいていたあの箇所があった。
「あ……そうですね。当時のオリバーさんも、自分で書いたって確か仰ってました」
「ふむ」
短く相槌を打ったあと、私は問いかける。
「……で、なんて書いてあるんですか?」
「……未来の自分が書いたといえど、流石にこれは字が汚すぎるの」
オリバーさんはそう言って、豪快に笑い声を響かせた。
「えぇ……本人にも読めない字ってどういうこと……」
肩の力が抜ける。せっかく何かの手掛かりを掴めるかもしれないと胸を高鳴らせていた分、落胆もひとしおだった。
それから私たちは、時を忘れて語り合った。私がこの世界に来た時の状況。未来でアレンと共に訪れた時の記憶。そしてオリバーさんが持つ豊富な知識。言葉を交わすたびに、新しい線と線が繋がっていく感覚があった。
そんな中で――私はふと、忘れていた記憶を思い出す。
「……そういえば」
脳裏に蘇ったのは、未来のオリバーさんが口にしたある言葉。
「月と太陽……」
「ほう?」とオリバーさんが目を細める。
思い返す。あの日、私がこの時代ーー過去へ来てしまったのは月食の夜だった。
つまり、月食は過去や未来に行き来するための重要な鍵なのかもしれない。そう考えると、日食は……異世界を行き来する鍵なのではないだろうか。
新しい仮説に、背筋がぞくりと震えた。
「月食と日食の正確な時期を知りたいんです」
私の願いに、オリバーさんは真剣な面持ちでうなずき、天文の資料を取り出してくれた。
そして――月食は、ちょうど二週間後に訪れると告げられた。
二週間後。
おそらく前回と同じやり方をすれば、私は未来に帰ることができる。
けれど、胸の奥にひとつの棘が残る。
――レンくんの存在だ。
寮生活に入るのは三ヶ月後。もし私が二週間後に帰ってしまえば、その間レンくんは独りぼっちになる。小さな子供をひとり残して帰るなんて……どうしても気が引けてしまう。
私の迷いを感じ取ったのか、オリバーさんが静かに尋ねてきた。
「……何か、気がかりなことでもあるのかい?」
私はレンくんのことを話した。どういう状況で彼と出会ったのか。そしてどうして今一緒にいるのかを全て。
そして言葉を聞き終えると、オリバーさんはにかっと笑みを浮かべた。
「なんだ、そんなことか。寮に入るまでの間なら、わしが面倒を見てやろう」
「えっ……!」
思わず声が漏れた。
「子供ひとりくらい、なんてことないさ」
その言葉は不思議な温かさを持って胸に沁みた。強さと優しさが同居する響きに、胸の奥がじんと熱を帯び、危うく涙が零れそうになる。未来でも二人は中良さそうだったし――この人に任せることができるなら願ってもないことだ。
あとはレンくんに説明して、納得してもらうだけ。けれど、彼にはまだ肝心なこと――私が未来から来たという真実を話していない。そこから切り出さなければならない。
未来のレンくん、ーーつまり、アレンには確実に会えるが、この世界のレンくんとはもう二度と会えない。そう考えると、胸の奥がきゅっと締め付けられた。
オリバーさんは、早速「一緒に顔を合わせよう」と次の日私の家に来てくれることになった。
体験入学を終えたレンくんを迎えに行き、二人で帰宅すると、私は意を決してレンくんに黙ってきたことを言おうとした。
そう。私は未来の人間で、過去に帰らなければいけないと。
だけど、どうやら初めての体験入学で相当疲れていたらしく、家に着いてシャワーを浴びると、夕飯を食べる前にソファに身を沈め、そのまま眠り込んでしまった。
静かな寝息が部屋に溶けていく。
明日オリバーさんと顔を合わせた時に伝えよう。そう思って話すことは諦めた。




