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26. 月


 ーーある日の夜。


 就寝前、オリバーさんから借りた分厚い本を開いた。もう三周目になる。

 最初は意味がわからなくてただ文字を追っていただけだったけれど、この街で過ごすうちに少しずつ知識を得たことで、今では断片的ながらも内容を理解できるようになっていた。


 そして、繰り返し読むうちにひとつ確信ができた。


 ――私がこの世界に来たとき、偶然拾ったあの鈴。どうやら、それが元の世界に帰るための「鍵」になっているらしい。


 本にはさまざまな伝承や条件が書かれていたが、要約するとこうだ。


【月か太陽が隠れる頃、鈴の音が三度響くとき、時空の空間が開かれる】


 月か太陽が隠れる――それはおそらく、日食か月食を指しているのだろう。調べてみると、この世界でもその現象は確認されているようだ。


 けれど、日食も月食もそう頻繁に訪れるものではない。天候や地域によっては見られないこともある。もし機会を逃したら、次はいつになるかわからない。


 オリバーさんから月が関係あるかもしれない、と言われてから天体に関する本を図書館から借りていた。


 軽い気持ちでその資料をめくった私は、そこで息を呑んだ。

 ――なんと、今夜。この街から月食が観測できると書かれていたのだ。


 開始は深夜一時半頃。あと三十分もない。


「どうしよう……」


 思わず、心の声が口から溢れる。


 成功するかどうかなんてわからない。けれど試さなければ可能性すら掴めない。

 ……そのはずなのに、心の奥底では別の不安が膨らんでいた。


 ――もし、成功してしまったら?


 私はこの世界にいてはいけない存在。帰らなきゃいけない。でも、気づけば「帰りたい」という願いは「帰らなきゃ」という義務に変わっていた。

 それほど、この世界の生活に馴染み、心を満たされてしまったのだ。アレンや皆と過ごす日々を思い返すと、胸の奥がきゅっと切なくなる。


「……そんなに簡単にいくはず、ないよね」

 自分に言い聞かせるように呟いた。


 そもそも、私がこの世界に来たあの日。あの日は月食でも日食でもなかった。


 可能性を一つ潰しとくのも大事だよね……。そう自分に言い聞かせると、私は意を決して立ち上がり、本を片手にベランダへと出た。

 澄みきった空気が肌を撫で、夜空いっぱいに輝く星々が広がっていた。大きな月が淡い光を放ち、今まさにその姿を闇に沈めようとしている。


 ベランダに置かれた椅子に腰掛け、震える指でページを繰りながら時を待つ。部屋の時計をちらりと見やると、針はじわりじわりと進んでいた。


 ――いよいよ、カウントダウンが始まる。


 胸の奥で心臓がどくん、どくんと大きく脈打っているのが自分でもわかる。私はゆっくり立ち上がり、いつも大切に持ち歩いてきた鈴を掌に乗せた。

 その瞬間、月が少しずつ影に覆われていく。銀色の光が薄れて、夜空が静かに赤銅色に染まり始めた。


 (どのタイミングで鳴らせばいいんだろう)


 胸の奥がきゅっと締めつけられるようで、鈴を握る指先に自然と力がこもる。冷たい金属の感触が手汗に混じって、ひどく重たく感じた。

 決めた。月が完全に闇に包まれる、その瞬間まで待とう。


 そう決めたものの、どくどくと耳の奥で響く鼓動が、やけに大きく聞こえる。吐息までが熱く、苦しいほどだった。


 ――今だ。


 月がひときわ綺麗に消えた、その刹那。私はそっと、月に向かって鈴を鳴らした。


 チリン、チリン。


 そして、最後の一回。

 チリン。


 反動で鈴がかすかに揺れ、光を受けて一瞬だけ銀色にきらめく。


「……なんだ」

 はあ、と深く息を吐き出す。胸の奥に詰まっていた緊張がゆるみ、同時に「やっぱりそう簡単にはいかないよね」という諦めと、どこかほっとしたような感覚が入り混じった。


 急に静寂が訪れ、私は崩れるようにベランダの柵にもたれかかった。悲しいような、嬉しいような、なんとも複雑な気持ちが胸の奥で渦巻く。

 それでも――一つの可能性を潰せた、という確かな安堵があった。


 空を見上げ、再び現れつつある月の光をぼんやりと眺める。月食の終わりを静かに楽しもう、そう思ったその時。


 ふ、と視界が揺らいだ。


 意識が遠のきかけ、反射的に顔を上げて目を見開くと、あたりは真っ白な世界に変わっていた。空も地面もなく、境界もない。まるで世界に私ひとりしか存在していないかのような、奇妙な感覚だった。


 ふらふらと足の赴くままに歩き出す。自分の靴音すら吸い込まれるように消え、耳に残るのは自分の呼吸と――


(……誰か、泣いてる……?)


 気のせいかもしれない。けれど、何もないはずの白い空間の奥から、確かにかすかなすすり泣きのような音が聞こえた気がした。


 考えるよりも早く、自然と手が伸びていた。

 その瞬間、見えない何かに腕をつかまれたような感覚が走る。足元がふわりと浮き、体ごと吸い込まれるように、白の向こうへ――。


 ……と思った次の瞬間、私を包んでいた白い空間はふっと消え、目の前には見慣れた“色のある”世界が広がっていた。


「……ここ、どこ……?」


 景色は、知っているような知らないような。だけどその感覚は、最近感じたものだ。目を開いた瞬間、まだ()()()()()()ことにはすぐに気づいた。


 一つ、決定的におかしいことがある。夜だったはずなのに、太陽がまぶしく照りつけていることだ。


 あたりをきょろきょろと見渡すと、遠く反対側に、国の西に広がる「魔獣の森」が見えた。やっぱり元の世界に戻ったわけではなかったのか、と少し安堵するが、すぐにどうしてこんなところにいるんだろうと不安が押し寄せる。


 さっきまで、確かにアレンの家にいたはずなのに。


 私の元いた世界への帰還に失敗して、ただ場所がずれてしまった……?その影響で時間も半日経ってしまったのだろうか。

 そんな考えが頭をよぎる。


 少し不安を抱えつつも、じっとしていても答えは出ないと意を決し、ひとまず森とは逆方向に足を向けることにした。きっと、移動魔法が思わぬ形で発動してしまったんだろう。けれど、どんな魔法が起きたのかまったく見当もつかない。


 ――ひとまず、アレンの家に行こう。


 しかし、歩いていくと周囲の風景にちらほらと違和感を覚える。建物の形、外観の色の濃さ…… 些細なズレが積み重なって、胸騒ぎがじわじわと大きくなっていく。


 やがて、視界の先に街の象徴である時計台が姿を現した。そこで私ははっと息を呑む。


 ――違う。


 目に映る時計台は、私が知っているものではなかった。アレンと街へ出かけた時、彼はこう言っていた。「この時計台は老朽化して、五年前に新しく建て直されたんだ」――と。


 けれど、そこに聳え立つのは、古びた石造りの塔。ところどころにヒビが走り、外壁を這う蔦が時の流れを語っている。まるで“建て直される前”の姿そのまま。


 胸がぎゅっと縮む。私が立っているのは、確かに知っているはずの街のはずなのに、私の記憶とはかけ離れている。


 そう、私の知っている時計台とは違うのだ。


 次第に、胸の奥に冷たい不安が押し寄せた。“この世界に、アレンはいるのだろうか”と。



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