22. 熱(前半)
それから、私はアレンとの約束通り、週に三度は研究所に足を運ぶようになった。
そこでは魔法の特訓を重ねたり、呪いにまつわる知識を少しずつ教わったりした。最初は不安でいっぱいだったけれど、エリクさんもヨルくんも忍耐強く付き合ってくれた。
研究所に行かない日は、城の図書館にこもり、オリバーさんに勧められた本を読みふけった。難解な専門書に眉を寄せ、分からない言葉を別の本で調べ、時には夜更けまでページをめくり続ける。そうして少しずつ、知識が自分の中に積み重なっていく感覚を味わった。
そうして日々を積み重ねるうちに、ここに来たばかりの頃のように「何をすればいいのだろう」と手持ち無沙汰に悩むことはなくなっていた。
アレンやエリクさんのおかげで、毎日が驚きと学びに満ちていく。――気づけば私は、この世界での暮らしを心から楽しめるようになっていた。
◇◇
そんな日々の中。
その朝も、私はアレンと向かい合って食卓を囲んでいた。窓から差し込む光が白いクロスを照らし、湯気の立つスープの香りが漂う。いつもと変わらぬはずの朝食の風景――けれど、どこか違和感を覚えた。
「……アレン、なんだか今日、顔色が悪くない?」
パンを口に運びかけていたアレンは、わずかに動きを止め、すぐに笑みを作った。
「え?そんなことないよ」
その笑顔は柔らかいけれど、目元に滲む疲れを隠しきれていなかった。
「今日は図書館に行くの?」
私が怪しむようにじっと見つめていたせいだろう、彼は慌てて話題を変えようとした。
「うん……そのつもりだけど」
「そっか」
わずかに震えた声。やはり様子がおかしい。私はスープの味も分からぬまま、アレンの表情を見つめ続けていた。
「じゃあ行ってくるね」
やがて朝食を終え、アレンが席を立つ。外套を羽織り、いつものように玄関へ向かうその背を、私はとっさに右手で引き止めた。
「アレン、待って」
掴んだ手首から、じわりと伝わってきたのは異様な熱。
「……熱い!」
思わず声をあげると、アレンが振り返り、驚いたように目を丸くする。
私は彼の額に手を当てた。触れた瞬間、はっきりとした熱が掌に広がる。素人の私でも分かるほどの高熱。
「アレン、やっぱり熱があるんじゃない?」
掴んだ手首を離せずに、思わず声を震わせる。もし私が気づかなければ、この状態で仕事に行こうとしていたなんて……。
胸の奥に不安がせり上がり、握る力は自然と強まっていた。
「大丈夫でございますか!」
慌てた声が背後から響き、イーサンが駆け寄ってきた。目に見えて狼狽している。
「ああ、平気だよ」
アレンは小さく笑って答え、けれどすぐに視線を伏せて続けた。
「でも……今日は部屋で寝とくよ」
その言葉を聞いた瞬間、心の奥がほどけるように安堵した。
「ミアは気にせず、図書館に行ってきていいよ」
弱った声で、それでも私を気遣うようにアレンが言う。
優しさに胸が締めつけられる。ずっとアレンに助けられてばかりの私だ。今度こそ支えたいのに、まるで「気にしないで」と突き放されたようで、切なさが込み上げてくる。
――結局、私は図書館になど行けず、アレンの部屋の前を行ったり来たりしながら、どうすべきか答えを探す。
休ませてあげたいのに、何をすればいいか分からない。押しかければ迷惑かもしれないし、黙って離れればそれはそれで後悔する。落ち着かない足取りのまま、廊下を往復し続けていた。
そのとき、奥から一人のメイドが盆を手にして現れた。銀の水差しとグラスが揺れ、淡い光を反射している。
チャンスだ――そう思った私は、勢いのまま駆け寄り、彼女の前に立ちはだかった。
「あの!それ、アレンに持っていくんですよね?」
「えっ……はい、そうですけど」
困惑したように目を瞬かせる彼女に私は思い切って踏み込んだ。
「私が持っていったら……だめですか?」
「え?」
言った後すぐに冷静になった。勝手にこんなことを言って、もし叱られるのは彼女の方だとしたら? そう思い、私は慌てて一歩後ろへ下がった。
「やっぱり、ダメで……」
言いかけたその瞬間。
「アレン様も、きっとお喜びになると思います」
私の言葉を遮るように、思いがけない返事が重なった。
「ただ……熱が出られた時はお休みになっていて、呼びかけても返事をなさらないことが多いのです。ですから、いつもは入ってすぐ右側のテーブルに置くようにしています。もし、アレン様から何かご要望を承りましたら、どうぞ私にお伝えください」
「わかりました。ありがとうございます!」
丁寧に一礼され、慌てて私も頭を下げる。するとメイドは安心したように微笑みを残し、静かに去っていった。
預かったトレイを両手で持ち直し、そっと扉の前に立つ。右手で軽くノックをするが――返事はない。
言われた通りだ、と胸の奥で小さく呟き、「失礼します」と声をかけてから、音を立てないように扉を押し開けた。
部屋の中は静まり返り、薄いカーテン越しの光が淡く差し込んでいる。右側のテーブルにトレイを置くと、私はためらいがちにベッドへと足を向けた。
――そして目に入ったのは、苦しげに眠るアレンの姿。
額に汗が滲み、髪が少し額に張り付いている。寝息も浅く、見るからにしんどそうで胸が痛んだ。
私は急いで部屋を出て、キッチンへ向かった。氷水を入れたボウルと清潔なタオルを受け取り、再び部屋へ戻る。
ベッド脇の椅子に腰を下ろし、タオルを丁寧に絞ってアレンの顔を優しく拭った。額からこめかみ、頬へとゆっくり滑らせる。彼の体温の高さが手に伝わり、ますます心配になる。
もう一枚のタオルを氷水に浸して冷やし、軽く絞ってから彼の額にそっと乗せた。
「……少しでも、楽になりますように」
この世界には、熱の時に額を冷やす習慣はないのだろうか。それだけでずいぶん気持ちが楽になるのに――。アレンが目を覚ましたとき、少しでも安らぎを感じてくれたらいい。そう願いながら、タオルを押さえる。
「……ん」
微かな声がして、ゆっくりとアレンがまぶたを開いた。
「あ、ごめんね。起こしちゃった?」
慌てて声をかけると、彼は私の顔を確認した途端、安心したように柔らかく笑った。
「いや……ミアの顔を見られて、嬉しい」
「え、えっと……なにか欲しいものとかある?」
思いがけないストレートな言葉に胸が熱くなり、私は慌てて話題を逸らすように尋ねた。
「……水、ある?」
「あるよ!ちょっと待ってね」
入り口横のトレイに置いた水差しからコップへ注ぎ、振り返ると、アレンがゆっくりと上半身を起こしていた。その拍子に、額に乗せていたタオルがはらりと落ちる。
「これは……?」
「冷たいもので冷やすと気持ちいいかなと思って。……邪魔だった?」
「いや……ありがとう」
タオルを見つめる彼の口元に、かすかな笑みが浮かぶ。その様子に私もようやく胸を撫で下ろし、コップを差し出した。
アレンは喉が渇いていたのか、ためらいなく一気に水を飲み干した。
「おかわりいる?まだあるよ」
「ううん、平気。ありがとう」
私が空いたコップをテーブルへ置きに行ったその時、背後で布の擦れる音がした。振り向くと、アレンがベッドを離れ、クローゼットの方へと歩いていた。
「欲しいものがあるなら、私が取るのに……!」
慌てて駆け寄ると、彼は振り向き、少し照れたように笑った。
「これくらい、自分でできるよ」
そう言って、クローゼットから新しい服を取り出すアレン。その笑顔は相変わらず穏やかで――けれど額ににじむ汗や、時折見せるわずかな息苦しさを目にすると、どうしても心配の気持ちは拭い去れなかった。
「汗かいたし、着替えるよ」
「あ、うん」
そう返事をしたものの、アレンは服を手に持ったまま、しばらくその場から動こうとしない。私は不思議に思って、首をかしげた。
「……着替えてもいい?」
「え、あっ!ご、ごめん!」
慌てふためく私を見て、アレンはくすくすと笑い、わざとらしく肩をすくめた。
「俺は別に構わないけど?」
冗談めかした声音に、頬が一気に熱くなる。
「す、すぐ出ていくから!」
ドタバタと部屋を飛び出そうとした時、不意に背後から呼び止められた。
「――助かったよ。ありがとう」
その声はかすれていたのに、振り返った彼の笑顔は、やはりいつもの優しいものだった。胸の奥がきゅうっと締め付けられる。しんどいはずなのに、どうしてこんな時まで人に気を遣えるんだろう。
「また来るね」
小さく告げて、扉の方へ向かう。ふと目に入ったのは、テーブルの上の空になったコップ。思わずそれを手に取り、隣に伏せてあった新しいコップにも視線を落とした。あとで戻ってくる時には、水と一緒に持ってこよう――そう心に決める。
――ちょうど扉を閉めようとした瞬間。
視界の端に、服を脱ごうとするアレンの背中が映った。思わず目を逸らそうとしたのに、ほんの一瞬だけ、腰のあたりに黒い模様が覗いた。
それは、ただの影ではなかった。かすかに形を持った線が、彼の白い肌に鮮やかに浮かんでいる。
傷跡にしては整いすぎている。装飾のようにも見えて――私はそれをタトゥーだと認識した。
(……アレン、タトゥーをしてるんだ)
意外な光景に胸がどきりと跳ねる。
彼の体に、そんな秘密めいた印が刻まれているなんて、思ってもみなかった。まだまだアレンの知らない一面が潜んでいたことに、不思議な動揺を覚える。
熱で苦しそうなアレンを見るのは辛い。けれど、その弱った姿や、自分の知らなかった新しい一面を垣間見て、どこか目が離せない気持ちになる。
――早く良くなりますように。
扉を閉める指先に力をこめ、胸の奥で強く願う。静かに響く扉の音を背に、私はそっと部屋を後にした。




