20. 魔法
「それで…なんでミアをここに呼んだんですか?」
「ああ、そうだったね。ちょっとお願いがあって……」
エリクさんは手に持っていたコップを静かにテーブルへ置き、真っ直ぐにこちらを見据えた。
妙な緊張感が走り、私はごくりと唾を飲み込む。
「実は僕が管理してるの研究チームがあるんだけど、ミアにもそのメンバーの一員に加わってほしいんだ」
「…研究チーム?」
思わず声が漏れたのは私ではなく、アレンだった。驚きを隠せない様子で、小さくも鋭い声が室内に響く。
「えっと……どうして私なんですか?」
恐る恐る問い返すと、エリクさんは「ちょっと待ってて」と笑みを残し、椅子から立ち上がった。そして、奥の扉を開けて部屋の奥へと消えていく。
その瞬間、アレンが身を乗り出してきた。彼の顔が近づき、耳元で囁かれる。
「……ミア。あいつに“別のところから来た”話したの?」
「ううん、そんな話はしてないけど…」
「……どういうつもりなんだ…」
吐き出すような小さな声。ため息が混じり、彼の眉間には深い皺が刻まれていた。
その時――「お待たせ」と軽やかな声がして、エリクさんが戻ってきた。その腕には、緑の葉を茂らせた植木鉢が抱えられている。
机の上に置かれたそれを、私は思わず覗き込んだ。
土はしっとりとしていて、日々の世話が行き届いているのだろう。どこか生き生きとした気配が漂っていた。
「この花に水あげてみてくれる?」
「え、水ですか?」
「そうそう、この前図書館でやってたみたいに」
突然のお願いに戸惑いながらも、私は記憶をたぐった。
どうやってやったんだっけ――。私は深呼吸をして記憶を探る。
『容器を想像して、その中に水を注ぐイメージ』。
その時の感覚を思い出すように目を閉じ、意識を集中させる。透明な水が器からあふれ出し、やがて大地にしみ込んでいく光景を思い描いた。
「はい、やりましたけど…」
「ありがとう。じゃあ、しばらく見てて」
エリクさんが促すように言う。
植木鉢の土は、私の想像に呼応するかのようにしっとりと潤い、やがて微かに光を帯び始めた。
淡い煌めきは、まるで夜空に散る星屑のよう。 その幻想的な光景に目を奪われていると、土の表面から小さな芽がぽつりと顔を出した。
芽はあっという間に伸び、瑞々しい葉を広げ、蕾をつける。 その動きはあまりに自然で、まるで時間が早送りされているかのようだった。
そして――。
蕾がふくらみ、やわらかな音を立てるかのように花弁が開いていった。藍色の花弁は幾重にも重なり、光を受けて艶やかに揺れる。
「きれい……」
思わず声が漏れた。
ふわりと広がる甘い香りが、部屋全体を優しく包み込む。その優美な姿は、妖精が舞い降りてきたかのように神秘的だった。
エリクさんは満足げに頷き、誇らしげな笑みを浮かべている。
一方のアレンは、わずかに驚いた表情を見せたものの、すぐに険しい顔つきへと戻った。眉間に皺を寄せ、何かを深く考え込むように。
「――やっぱり、僕の目に狂いはなかったようだ」
エリクさんは誇らしげに言葉を口にする。
その声音を聞いた瞬間、アレンの瞳が鋭く細められた。氷の刃のような視線が、まっすぐエリクへと向けられる。
「……というわけで、ミアを借りたいんだけど」
そう言いながら、エリクさんは私の背後に回り、軽く両肩へ手を置いた。その視線は私ではなく、アレンに向けられている。
「駄目です」
アレンの答えは一瞬だった。間髪入れずに放たれたその言葉は、まるで剣を振り下ろすように鋭く、強い拒絶の響きを持っていた。
私は思わず目を見開き、アレンの横顔を凝視する。
その表情はいつになく険しく、誰にも譲るつもりがない強固な意志を宿していた。
「じゃあさ、週に二回か三回だけでもどう?」
さすがにまた拒絶されるのは面白くないと思ったのか、エリクさんは私の肩越しに顔を覗かせてアレンにではなく私に聞いた。
「それなら……」
エリクさんの言葉に、私はついアレンへ視線を送った。
いいよね?――そう問いかけるように。
しかし次の瞬間。
アレンは音もなく距離を詰め、私の腕をぐいっと引き寄せた。そのまま力強く右腕で肩を抱き込む。
「え……っ」
唐突すぎて頭が真っ白になる。
視界の端でエリクさんが、まるで降参を示すかのように軽く両手をあげた。「これ以上は手を出しませんよ」とでも言いたげな仕草だ。
「ごめんごめん」
エリクさんは軽い調子で取り繕うように笑い、こちらへ視線を戻した。
「それより――ミア本人は“いい”みたいだし、どうかな?」
アレンはしばし黙り、じっとエリクさんを睨み付ける。
その後、ふっと視線を私に移し、優しい声音で尋ねてきた。
「……いいの?」
「私はいいよ!」
思わず即答していた。
ここで断ってしまったら、この世界での自分の存在意義を見失ってしまいそうだった。
家事も仕事も、何もする必要がない――そんな環境は日本にいた頃なら夢のように思えたけど、きっと一週間もすれば暇すぎて心が荒れてしまうに違いない。
だから、ここでやれることがあるのなら挑戦してみたいと思った。
「……ミアがそう言うなら」
アレンは僅かに不服そうに眉をひそめながらも、しぶしぶと了承した。その言葉には諦めにも似た響きが混じっていた。
「良かった!」
エリクさんは勢いよくパンッと手を合わせ、子どものように嬉しそうに笑った。
「じゃあ早速――」と弾む声で言葉をつなげる。
「明後日とかどう?」
「大丈夫です」
と答えながらも、思わず横目でアレンを見た。だよね?という確認の気持ちを込めて。
「騎士団の予定は把握してるから、休みは合わせるようにするよ」
「え、あ…はい……」
そんなことまで把握しているのかと驚いた。エリクさんは騎士団と何かしら深い繋がりを持っているのだろうか。アレンのことも知っているようだったし……そう思ったものの、それを尋ねる間もなく話はどんどん進んでいく。
「時間は朝の10時からで、場所は初日に案内するよ。とりあえず、ここに来てもらえる?」
「わかりました」
「これからよろしくね」
「はい!お願いします」
私が軽く頭を下げると、エリクさんは満足そうに微笑んだ。その笑顔はどこか安心感を与えるような穏やかさを持っている。
そしてふと視線をアレンへと移し、「君もね」と柔らかい声をかける。だがアレンはそっけなく、視線を逸らしたまま「どうも」とひと言返すだけだった。
外にいるときのアレンは、私が知っている彼とはまるで別人のように冷たく見えることがある。そんな姿を見るたびに胸がざわつくけれど、私が声をかければすぐに、いつもの優しいアレンに戻ってくれる。その瞬間、胸の奥にふっと灯がともるようで、私はいつもホッと息をついてしまうのだった。
エリクさんと別れて馬車に乗り込むと、ずっと胸の奥で引っかかっていた疑問を、私は思い切って口にした。
「そういえば気になってたんだけど……アレンはエリクさんのこと、知ってたの?」
「まあ……あの人は、国王陛下の甥だから」
「えっ……!? 王族の人なの?」
思わず声が裏返った。頭の中で、先ほどの会話を必死に思い返す。私、無礼なこと言ってなかったかな……?
「入る時に見せた紙には、王家の紋章が入っているんだ」
アレンはそう言いながら、ポケットから手帳のようなものを取り出した。
「これ」
差し出された手帳の表紙には、確かにあの通行証と同じ紋章が刻まれていた。
「ほんとだ……。え、じゃあアレンって、あのお城に出入り自由ってこと?」
「敷地内に騎士団の訓練場があるんだ。だからまあ、出入りは自由かと聞かれたら……そうだね」
アレンは少し気恥ずかしそうに肩をすくめ、苦笑いを浮かべた。
「そうだったんだ……。あ、だったら教えてくれてもよかったのに」
私は小さく頬をふくらませながら言った。
思い返せば、エリクさんは話している間も落ち着いた所作や言葉遣いにどこか気品が漂っていた。けれどまさか、王家に連なる立場の人だなんて夢にも思わなかった。
「あの通行証を見て王家の人からだろうということは予想がついたけど、誰かまでは分からなかったからね…。ミアに敢えて黙っていたんだとしたら勝手に俺から話すのはどうかと思って。」
「なるほど…。」
私は納得して頷く。
「だけど……」
アレンは視線を伏せ、小さく言葉を継いだ。
「こんなことになるなら…」
「なるなら?」
私は首をかしげ、思わず身を乗り出して顔を覗き込む。
するとアレンははっとして、慌ててこちらを振り向いた。目が合った瞬間、無理に取り繕うような笑顔を浮かべる。
「ごめん。なんでもない」
腑に落ちないまま、私はじーっと彼の表情を探った。アレンは気まずそうに視線をそらし、「なに?」とわざとらしく問い返してきた。
「エリクさんは……私のタイプじゃないよ?」
自分でも意外な言葉が口をついて出て、アレンの瞳が大きく見開かれた。すぐに後悔の波が押し寄せてくる。アレンが何を気にしているのか、本当に私の想像通りかどうかも分からないのに。
けれど、その一言にアレンはしっかり反応していた。
「……じゃあ、ミアのタイプって……」
続きを聞こうとしたその瞬間、がちゃりと音を立てて馬車のドアが開いた。
アレンは口を閉ざし、すぐに先に降りた。そして当然のように振り返り、私に手を差し伸べる。
差し伸べられたアレンの手にそっと自分の手を重ねる。彼の掌はしっかりと温かくて、馬車を降りた瞬間の不安定さをやわらげてくれた。
差し伸べられた手は私が地面に立った後も離れなかった。むしろ、自然な流れで私を導くように歩き出す。握られた手のぬくもりが、じんわりと胸の奥に広がり、鼓動のリズムをわずかに速めた。
「あの人、ミアに対して距離感近かったから気をつけてね。何かあったらすぐ俺に教えて」
横に並んだアレンが、少し不機嫌そうな声でぽつりと漏らした。
――あなたも、出会ったときから距離感近すぎでしたけど?
心の中でそう突っ込んだ言葉が口から出そうになるのを堪えた。
心配そうに私を気にかけているアレン。その様子を見ていると、からかいたくなる気持ちよりも、愛おしさの方が勝ってしまった。




