2. 未知との邂逅
完全に意識が戻り、ゆっくりとまぶたを開ける。視界に飛び込んできたのは、見慣れない景色だった。
どうやら同じ森の中にいることは間違いない。けれど、さっきまでいた場所とはどこか雰囲気が違って見える。木々の色はより濃く、漂う空気は湿り気を帯びながらも妙に重苦しい。
先ほどまでは蒸し暑さに息苦しさを感じていたのに、ここは一転してひんやりとしていて、まるで季節が一瞬で変わったような錯覚すら覚えた。
――ドンッ。
突如、地面が揺れた。
「え……地震?」
反射的にそう呟いたが、すぐに違うと悟る。地震のような細かい震動ではない。一定の間隔を置いて、「ドン、ドン」と地を踏みしめるような音が大気を伝って響いてくる。まるで巨大な何かがこちらへ近づいているかのようだった。
(……待って、もしかして近づいてきてる...?)
背筋を冷たいものが走る。心臓がドクドクと早鐘を打ち、息が詰まりそうになる。嫌な予感は的中し、振動は確実に強く、そして速くなっていた。得体の知れない“何か”が、確実にこちらに向かっている。直感が全力で警告を鳴らした。
震える足に力を込め、私は必死に走り出した。
けれど振動は追いかけてくるように間隔を縮め、背後に迫る。恐怖に煽られながら振り返ったが、木々に遮られて正体は見えない。ただ確かなのは、確実に近づいてきているという事実だけだった。
「追われている」と脳が理解した瞬間、足が急に鉛のように重くなった。必死に足を動かしているのに、うまく前に進めない。
「ーーあっ!」
焦りが祟り、足がもつれてバタリと地面に倒れ込んだ。衝撃が背中に響き、息が詰まる。必死に体勢を立て直して立ち上がろうとするが、左足に重心をかけた途端、鋭い痛みが走った。
ズキリと強い痛みに膝が折れ、そのまま地面に崩れ込んでしまう。どうやら足を捻ってしまったようだ。力を入れようとするたび、ズキズキと鋭い痛みが骨の奥に突き刺さり、立ち上がることができない。
――ドン、ドン。
それでも振動は確実に迫ってきている。恐怖で体は硬直し、呼吸は乱れ、息は上ずるばかり。胸の奥で心臓が暴れ、耳の奥では自分の鼓動が爆音のように響いている。
そして――ついに正体が姿を現した。木々の間を押し分け、巨体が視界に飛び込んでくる。
「――っ!」
私は息を呑んだ。
イノシシに似てはいる。けれど、それとは比べ物にならないほど巨大で、禍々しい。頭には二本の角が突き出し、口の両端からは常識外れの大きさの牙が覗いている。肩幅は人間の倍以上。脚は丸太のように太く、踏み出すたび地面が大きく揺れた。
血走った鋭い目が、まっすぐこちらを射抜いている。狙いを定めた獲物を見失うまいとする肉食獣そのものだ。
ーーーやれれる!
そう思うと恐怖がさらに押し寄せてきて、反射的に目をぎゅっと閉じた。咄嗟に体を縮こめ、右腕で顔を覆う。
すると、シュッという鋭い音が空気を裂いた。直後、それまで体を震わせていた振動がふっと消える。代わりに、地面全体がどしんと揺れる大きな衝撃が伝わってきた。まるで重いものが崩れ落ちたかのように。
恐怖で体が固まり、まだ目を開けられない。ぎゅっと瞼を閉じたまま耳を澄ますと、今度は――カツ、カツ、と人の歩くような軽い足音が近づいてきた。
「怪我は…?」
低く落ち着いた声が頭上から降ってきた。
恐る恐る瞼を開くと、光が視界に差し込み、眩しさに思わず目を細める。しばらくして焦点が合い、一番に飛び込んできたのは、地に伏した巨大な獣の姿だった。
巨大な獣はぴくりとも反応はなく、血が地面を染めている。さっき感じた衝撃は、この獣が倒れたときのものだったのだと理解する。全身の緊張が一気に解け、どっと安心感が芽生えた。
こんな巨大な動物を一体どうやって倒したんだろうか。声の方へと顔を向けると、獣の血が飛び散ったズボンが目に入った。血に濡れた剣があり、彼がこの怪物を倒したのだとすぐにわかった。
ありがとうございます、そう言いたくて口を開くも緊張感からか喉がつっかえて声が上手く出せない。喉を押さえて一度ゴクリを唾を飲み込んだ。
もう一度言葉を発しようとした時、すっと目の前に差し出された大きな手が視界を覆った。
「立てる?」
私が立ち上がれるように、手を差し出してくれていたのだ。
「……あ、はい」
喉がひりついて声は掠れていたけれど、なんとか返事をして、その大きな手に自分の手を重ねる。すると彼は、優しくも確かな力で私を引き上げてくれた。温かく、指先までしっかりとした力強さを感じた。
「あっ!」
次の瞬間、足に鋭い痛みが走り、体がぐらりと揺れる。左足が地面に触れた途端、全身を突き抜けるような衝撃に思わず声が漏れ、再び地面へ座り込んでしまった。
「大丈夫…!?」
彼はすぐさま片膝をつき、真剣な眼差しで私の足を覗き込む。
「少し腫れているな……」
そう言いながら、彼はそっと自分の外套を外して私の足元に敷いてくれた。硬い地面の上に座り込んでいた体がふっと楽になり、そのさりげない気遣いに心が揺れる。
「ひとまず、ここは危険だから……」
顔を上げてそう言いかけた彼の声が、不意に止まった。
初めてしっかりとお互いの目があった。青く透き通る瞳が、木漏れ日の光を受けて一層深みを増していた。その眼差しには驚きと戸惑いが入り混じり、まるで幻を見ているかのように私を凝視している。
急にどうしたんだろうか……。話の途中で突然黙り出した彼の様子に戸惑った。
明らかに私の顔を見て表情を変えていた。まるで信じられないと言わんばかりに驚いた様子で、目を大きく見開いて私の顔をじっと見つめていた。
「……名前、聞いても?」
「あ……、えっと、中原美亜と言います」
しどろもどろになりながらも名乗ると、彼の表情が劇的に変わった。
信じられないものを見つけたかのように目を見開き、次いで今にも泣き出しそうな、しかし喜びを隠せないような複雑な顔。少なくとも初対面の相手に向けるものではない。
まるで私のことを知っているかの様だった。だけどそんなはずはない。はじめて会うどころか、こんな危険生物がいるようなところに初めて来た。
いや、というよりここは私が30分ほど前にいたところーー由美子と訪れたパワースポットである山の中と同じ場所なんだろうか。
初めて会ったはずの人なのに。こんなに強く感情を揺さぶられるような反応をされる理由が、私には一つも思いつかない。
彼の服装もまた異様だった。紺色を基調に金の刺繍が施された西洋風の軍服。銀色のボタンが太陽を反射して眩しく光る。日本の山道を歩く格好としては明らかに浮いていて、コスプレイヤーか舞台俳優のようにすら見える。
だけど……血のついた剣と、倒れた巨大な獣の姿が、それが単なる衣装ではないと強烈に示していた。
「……ミア…会いたかった」
唐突に名前を呼ばれ、心臓が跳ねる。声はかすかで、掠れるほど小さいのに、その一言だけが強烈に胸の奥へ突き刺さった。
「え……どういう……」
問いかけるよりも早く、彼の瞳に涙が滲む。澄んだ青が水を含んで揺れ、吸い込まれるように見入ってしまう。
ぼーっと彼を見つめていると、ゆっくりと右手がこちらに向かって伸びてきた。
この右手はどこに向かうんだろう、とその手のいく先に視線を送っていると、地面にだらんと垂れていた私の左手首を優しく掴みそのまま強く引き寄せた。
「わっ……!」
視界がふっと揺れ、世界が暗くなる。気づけば私は彼の胸の中に抱きしめられていた。
「やっと会えた」
耳元に落ちた声は震えていた。
鼓動が近い。彼の胸から伝わってくる力強い拍動と、私自身の高鳴る心臓の音が重なり合い、やけに大きく耳に響く。
何が起こっているのか理解できず、私はただ呆然と目を瞬かせることしかできなかった。
この先はどうするのが正解だろうか。
こんなに嬉しそうな顔をしている彼に「私はあなたの探している人じゃありません」なんて言えるだろうか。心臓を掴まれるような不安と、目の前の彼が向けてくる強すぎる想いに押されるような感覚が胸の奥をざわつかせる。
彼は、はっきりと「ミア」と私の名前を呼んだ。
ただの思い込みではなく、確信を持った声色だった。私の顔を見て、まるでずっと探していた答えをやっと見つけたかのように、確信を宿した瞳をしていた。
同じ名前で、容姿まで似ている人がこの世界に存在するなんてことが本当にあるのだろうか。偶然……にしてはあまりにも出来すぎている気がする。
「あ、あの……」
抱きしめられたままの体勢に、どうにも落ち着かなくて思わず声を発した。
すると、包み込んでいた彼の腕の力が少しだけ抜け、私の体が解放される。だけど、顔が真正面にきてむしろ近い。ほんの少し視線を上げれば、視界いっぱいに彼の顔が広がっていて、逃げ場を失ってしまう。
「なに?」
彼の声は驚くほど優しかった。私を安心させようとするような、包み込むようなそんな響き。まるで大切な人にだけ向ける声色。初対面のはずなのに、そんなふうに話しかけられると、思わず頬が熱くなる。鼓動が早まっていくのを自覚して、ますます視線を逸らせなくなった。
だけど早く事実を言わないと、時間が経てば経つほど真実を知った時の彼のダメージは大きくなるだろう。こんなに喜んでいる様子なのに、そこに水を差すのは申し訳ない。けれど、嘘を重ねる方がもっと残酷だ。そう思って、私は正直に口を開いた。
「あ、えっと……助けれくれてありがとうございます。……でも、多分別の方と勘違いされてると思います……」
勇気を出して告げた私の言葉に、彼は一瞬驚いたように目を丸くさせた。そして、きょとんとした表情で私をじっと見つめる。
沈黙が落ちる。彼は理解しようと頭の中で何かを組み立てているようだったが、答えに辿り着けないようで、不安そうに眉を寄せて口を開いた。
「……どういうこと?」
その声は、さっきまでの優しい響きに、今は戸惑いと恐れが混ざっているように聞こえた。
「私あなたに会ったのも初めてだし……別のミアって方と勘違いされてないですか……?」
「……え?」
彼の瞳から、ぱっと光が消えるのがわかった。その表情に少し胸が痛む。
「……俺の勘違い……?」
低く漏らした彼の声は震えていた。信じられない、という色を強く滲ませた瞳が、真っ直ぐに私を射抜く。
彼はやがて、諦めきれないようにぽつりと呟く。
「……俺の名前は、アレン。……本当に知らない?」
「…そうですね……。初めて聞きました」
少しでも思い出せるかと考えるふりをしてみたが、アレンなんていう日本人には珍しい名前を耳にしたら忘れるはずがない。私の答えを聞いた彼は、小さく「そうか」と呟いた。その声があまりにも寂しそうで、胸の奥が痛んだ。
きっと彼にとって、“ミア”という人は特別な存在だったのだろう。大切で、大切で、必死に探し続けてきた人。
そして、やっと見つけたと思ったのに――目の前にいる私は、彼の知る“ミア”ではない。
彼の肩から、力がすっと抜けていくのがわかった。その姿は、見ていられないくらいに悲しかった。




