19. 新たな出会い
その夜は、目を閉じても昼間の出来事が次々と脳裏をよぎり、なかなか眠りにつくことができなかった。
アレンが手を引いてくれたこと。背中に回された腕。耳元で囁かれた声。思い出すたびに胸が熱くなり、ドクン、ドクンと心臓が早鐘を打つ。
どうしても寝付けず、ベッドから身を起こす。カーテンをわずかに開いて外をのぞくと、澄んだ夜空に三日月が浮かんでいた。
雲ひとつない漆黒の空に、月の輪郭だけがくっきりと浮かび上がっている。
その光景に、私はふと思い出した。
——月と太陽。私が元の世界に戻れるかもしれない、唯一の鍵。
異世界に来てからも、太陽は朝に昇り、夜には沈み、月が浮かぶ。地球と同じように宇宙があって、当たり前のように繰り返される日常の景色がここにも存在する。
その「当たり前」が、この世界でも変わらずあるのだと気づくと、不思議な縁に導かれてここに来たのだと改めて思わされた。
ベッドの横に置いてある小さな引き出しを開け、鈴を取り出す。そっと揺らすと、澄んだ音が夜の静寂に広がった。心を落ち着かせてくれるような音色は、変わらず美しい。
——帰れるかどうかは、まだわからない。
けれど、もし帰れるとしたら。アレンと会えなくなると考えるだけで、胸がぎゅっと苦しくなる。それでも、このまま異世界に留まる覚悟は今の私にはない。
アレンは、私のことをどう思っているのだろう。大切にしてくれていることは、普段の態度から十分に伝わってくる。初めて会ったときから、どこか私を知っているような目をしていたのも印象的だった。
ふと脳裏に浮かんだのは、オリバーさんと話していたときのアレンの横顔だった。あの時の彼は、ほんの一瞬だけ、笑顔の奥に陰りを落としていたように見えた。
お店を出てしまえば、いつもの穏やかで明るいアレンに戻っていたから、私は深く考えず、そのまま気に留めなかった。
——だけど、今になって思う。アレンは、私の気持ちを尊重して、ただ協力してくれていただけなのかもしれない。そう考えると、自惚れにすぎないのかもしれないが、「もしかして」という言葉が頭をかすめて胸をざわつかせた。
私は、アレンの気持ちなんて一度も考えずに、ただ「帰れるかもしれない」という可能性が見えたことに浮かれてしまっていた。そのことを思い出すと、じわじわと後悔が胸を締めつけた。
私ははっきりと「異世界から来た」と口にしたわけではない。
けれど、状況を断片的に語っていたから、アレンもきっと気づいているだろう。私が本来この世界の人間ではないことを。そして——【帰る】という言葉の意味が、元の世界に戻ることを指していることも。
つまり、帰ったその先には、二度とアレンと会えなくなる未来が待っている。アレンもそれを理解したうえで、それでも私のために帰る道を探してくれているのだ。
だから、私はずっと思い込んでいた。アレンは優しさで動いているだけで、私に特別な感情なんて抱いていないのだと。けれど冷静になって今までを振り返ると、その行動の端々に「ただの優しさ」では片づけられないものを感じてしまう。
——でも。
この世界にいるべき存在じゃない私にとって、もしアレンが私を好きでいてくれたとしても、その気持ちに応えることはできない。どうか私の自惚れであってほしいと願う気持ちの反面で、私はもう、自分の心にも嘘をつけなくなっていた。
私の中で、アレンが特別な存在になっていた。
頭の中で思考がぐるぐると回り、感情が渦を巻いて止まらなかった。気づけば夜はとっくに更け、東の空が白み始めていた。鳥のさえずりが聞こえ、私はほとんど眠れぬまま新しい朝を迎えていた。
◇◇
アレンの家を初めて見た時、その大きさと豪華さに息を呑んだが――今日はそれ以上だった。目の前に現れた建物は、もはや「家」と呼ぶのがためらわれるほどの規模と威容を誇っていた。私の口はあんぐりと開き、ただただ見上げることしかできなかった。
眠気と、胸の奥に渦巻く複雑な気持ちを抱えたまま馬車を降りると、その光景に一気に目が覚める。
(……あの人、一体何者なの?)
お城――そう表現するほうがしっくりくる。ファンタジーの絵本や映画で見たような、夢の中の建築物が現実となって目の前にそびえ立っていた。高い塔、手入れの行き届いた庭園、そしてどこまでも続く石畳の道。まるで一国を統べる領主の居城のようだ。
そういえばここに着く数分前、大きな門を通ってきた。今思えば、あの瞬間からすでにこの場所の敷地内だったのだろう。どうりで図書館で渡された紙を提示する必要があったわけだ。
ーー数分前のこと。
馬車は迷うことなく一直線に進んでいった。まるで渡された紙が行き先を指し示しているかのように。
揺れる馬車の窓から見えたのは、立派な装飾が施された重厚な門。人の背丈の何倍もあるその扉の前には、甲冑姿の門番が二人、鋭い視線を光らせていた。
「ミア、もらった紙持ってる?」
「あ、うん」
慌ててポケットを探り、図書館で渡されたあの紙を取り出す。門番に差し出すと、彼はちらりと目を落とし、すぐに「どうぞ」と無駄のない声で答えた。
ただの紙切れにしか見えないのに、それだけで簡単に通れるなんて。高級住宅街への入場許可証なのか、それとも国境を越えるための通行証なのか……。
ただ、こんな紙切れで門を通してくれるなんて、と少し不安を覚えた。お札にみたいに複雑な模様はなさそうで、簡単に複製できそうだった。
じっと紙を見つめて首をかしげていると、隣のアレンが気づいたように口を開く。
「その紙には微量の魔法がかけられているんだ」
「……魔法?」
「保護魔法だよ。複製や偽造ができないように施されてるんだ」
「へえ……そうなんだ」
なるほど、私の世界でいう特殊な偽造防止技術と同じようなものなのだろう。ただ、ここではそれが「科学」ではなく「魔法」によって成り立っている。違和感があるはずなのに、不思議と納得してしまうのは、この世界に少しずつ馴染んできたからかもしれない。
やがて馬車は広大な敷地の奥へと進み、石畳を抜けた先に現れたのが、目の前の豪奢な建物だった。
「着いたよ」
アレンの言葉に我に返り馬車を降りると、改めて理解する。
門をくぐってから馬車に揺られていたあの長い道のり。まさかあれすべてがこの屋敷の敷地だったなんて……。
馬車から降りて目の前に広がる光景に息を呑んだ。
「ミア?」
あまりの迫力に圧倒されてぼうっと突っ立っていると、アレンが身を屈めて覗き込んできた。
「あ、ごめん」
「緊張してるの?」
からかうように笑うアレンに、私はぶんぶんと勢いよく首を横に振った。
「これって……家なの?」
正直な疑問が口から漏れる。私の言葉の意図が伝わらなかったのか、アレンは小首を傾げる。
「どういう意味?」
「いや……こんな場所に人が住んでいるのかなって」
「んー、少なくともここで働いている人たちは住んでるんじゃないかな」
「なるほど……」
納得したような、していないような返事をする私に、アレンはふっと微笑んだ。
「行こうか」
唖然と立ち尽くしている私の手を優しく取ると、そのまま歩き出す。
建物の入り口には、この城にふさわしい背の高い門番が二人、無表情に立っていた。近くまで行くと、彼らは柔らかな笑顔を浮かべて「どうぞ」と声をかけ、私の背丈の何倍もある巨大な扉を押し開けてくれた。
「すごい……」
ため息のように感嘆がこぼれる。中へ足を踏み入れた瞬間、視界に広がったのは、まるでホテルのロビーのように高い天井と煌びやかなシャンデリア、整然と敷かれた赤い絨毯。とても「家」と呼べるものではなかった。
一歩進むごとに、自分がおとぎ話の世界に迷い込んだような感覚になる。豪奢な空間に包まれて、まるでお姫様にでもなった気分だった。
「使用人が何人いても足りないな」
アレンはこの豪邸に特に驚く様子もなく、皮肉めいた口調でそう呟いた。
確かに、この広さを維持するだけで莫大な労力とお金がかかるだろう。だが私の胸は、憧れの気持ちでいっぱいだった。たとえ一週間でもいいから、こんな家に住んでみたい。
もちろん、一生となればきっと大変なことの方が多いのだろうけれど。
私が目を輝かせている一方で、アレンは平然とした表情を崩さない。まるで見慣れているかのように。もしかすると、ここに来たことがあるのかもしれない。
「ねえ、アレン」
気になって問いかけようとした、その瞬間――
「おーい!」
爽やかな声が高い天井に響き渡った。反射的に振り返ると、そこには図書館で私をここへ招待してくれた男性が立っていた。彼は片手を軽くあげ、にこやかに出迎えてくれる。
「来てくれてありがとう」
和やかな笑顔と共に近づいてきたその姿に、胸の奥が少し緩む。図書館で会ったのはほんの数分だったのに、知り合いに再び会えたような安心感を覚えた。
「こちらこそ、招待していただきありがとうございます」
「そういえば、名前を聞いてなかったね」
「あ、ミアと言います」
「へえ、かわいい名前だね。僕はエリク。よろしく」
彼は自然な仕草で手を差し出してきた。私は戸惑いながらもその手を握り返す。白く整った指先に、細やかな気遣いのある動作。まるで絵本に登場する王子様のように気品が漂っていた。
(……王子様?)
冗談のような考えが脳裏をかすめる。いや、あながち冗談でもないのかもしれない。どう見ても使用人には見えないし、身につけている服も質が良く、装飾品もさりげなく豪華だ。けれど本当に王子であれば、護衛もつけずに一人で図書館に現れるだろうか……。
そんな疑問を抱いていると、エリクさんが不思議そうに首をかしげ、覗き込んできた。
「どうかした?」
「い、いえ……」
本当は「あなたはいったい何者ですか」と聞きたかったが、まだ二度目の対面でそんなことを口にするのは憚られ、慌てて誤魔化した。
するとエリクの視線が私の後ろにいるアレンへと移った。
「あれ、君……もしかして騎士団に所属してる?」
「……そうです」
アレンは低い声でぶっきらぼうに答える。その声音は、普段の彼からは想像できないほど硬かった。
「やっぱり!君が“アレン”か」
名を呼ばれた瞬間、アレンの肩がピクリと揺れた。
「ミアの知り合いがまさか騎士団にいたとはね。驚いたよ」
「あはは……」
本来なら自慢げに胸を張りたいところだが、当の本人が渋い顔をしているせいで、私は気まずく笑うしかできなかった。
「こんなところで立ち話もなんだし、中に入ろうか」
エリクさんは爽やかに笑みを浮かべ、私たちを先導するように歩き出した。
その背を追いながら、私はアレンに小さく囁いた。
「あの人のこと、知ってるの?」
「……まあね」
アレンは少し困ったように目を逸らして答えた。
不思議に思ったけれど、それ以上彼が言葉を続けることはなかった。きっと、触れられたくないこともあるのだろう。そう思って、私もそれ以上は聞かないことにした。
「ここまで来るの、疲れただろう? 軽食を用意してあるから、座りながらゆっくり話そう」
案内された部屋に入った瞬間、思わず目を見張った。
テーブルの上にはホテルのアフタヌーンティーのように色とりどりのお菓子が並べられていて、甘い香りがふわりと漂ってくる。無意識に、ごくりと唾を飲み込んだ。
「どうぞ、こちらに」
すすめられた椅子はふかふかで、沈み込むように柔らかい。座った瞬間、立ち上がるのが嫌になりそうな心地よさだ。
その間に、女性がコップに飲み物を注ぎ、私の前へ差し出してくれる。
淡い色合いの液体からは上品な香りが立ちのぼった。
「宜しければ、ミルクもございます」
テーブルの中央に小さなミルクポットが置かれる。エリクさんはそれを注ぎ、アレンは何も入れずに口をつけた。
懐かしい香りがしたけれど、説明はなく、正体はわからない。とりあえず私も同じようにストレートで口にしてみる。
「あっ……これ、ブレックファストティーですね!」
一口飲んだ瞬間、はっきりと分かった。日本にいた頃、よく口にしていた紅茶だ。
コクがありながら渋みは少なく、ミルクティーでもストレートでも楽しめる万能な味。カフェインが多いと聞いていたから、日中の眠気覚ましによく近所のカフェで買っていた。
「そうだよ。すごいね、すぐ分かるなんて」
「よく飲んでましたから」
思わず胸を張るように答える。日本で馴染んでいた飲み物を、この世界でも味わえるなんて、それだけでほっとする。
「あまり紅茶を嗜む人はいないから、こうして共通の話題ができるのは嬉しいよ」
「え、人気ないんですか? こんなに美味しいのに」
馴染みのある紅茶に出会えた嬉しさに、私は心が弾んでいた。隣でアレンが険しい表情をしていることにも気づかないほどに。
「それで…なんでミアをここに呼んだんですか?」
低く押さえた声。アレンが眉をひそめて問いかける。その声音に、部屋の空気が一瞬ぴりりと張り詰めた。




