18. 思い出の場所
アレンに昔よく通っていたというパン屋を紹介してもらったあとは、街を気ままに歩き回った。
石畳の道に並ぶ建物、行き交う人々の声、露店から漂う甘い匂い……そのひとつひとつが、私にとっては新鮮で心が弾む。まるで海外旅行に来た観光客みたいで、ただ街を眺めているだけでも十分に楽しい。
アレンにとっては見慣れた街並みだから退屈じゃないかな、と少し気にしたけれど——
「ミアと一緒なら、どこを歩いても楽しい」
そう笑ってくれた彼の言葉に、胸がじんわりと温かくなった。素直にその気持ちに甘えることにした。
気がつけば、太陽はだいぶ傾き、街に長い影を落としていた。
ちょうどそのとき、鐘の音が鳴り響いた。澄んだ音色が空に広がり、夕方の五時を告げている。街の中心にそびえる大きな時計台からの鐘だった。白い石で造られたその塔は、この街のシンボルらしく、遠く離れた場所からでもはっきりと見える。道に迷ったら、あの時計台を目印にすればいいと子供の頃に教えられるんだとか。
空はすでにオレンジ色に染まり始めていて、淡い光が街を柔らかく包み込んでいる。
「そろそろ帰ろうか」
「うん。今日はありがとね」
自然に口をついて出たお礼に、アレンは少しだけ間を置いて、どこか不安げに問いかけた。
「……楽しかった?」
服を買ってもらったことも、私の帰る手がかりを一緒に探してくれたことも、こうして街を案内してくれたことも。ひとつ残らず嬉しくて、胸の奥がいっぱいになっていた。
「すっごく楽しかったよ!」
そう答えると、アレンの肩がふっと緩んだ。
「そうか……よかった」
安堵を浮かべて微笑む顔が優しくて、思わずこちらまで笑顔になる。
「ほんとにありがとね」
その顔をもう少し見たくて、少し背伸びして覗き込むようにお礼を重ねた。
「ミアのためなら、お安い御用だよ」
そう言って照れたように笑うアレンの横顔に、胸がキュンと鳴った。鼓動が少し早まって、思わず視線を逸らしてしまう。
馬車の停留所へ向かうために橋を渡っていると、ふいに川辺の方から賑やかな笑い声が響いてきた。
楽しげなざわめきに耳を傾けたその瞬間——
混じって聞こえた声が、まるで自分の名を呼んでいるように思えて思わず足を止め、橋の欄干から川辺を覗き込んだ。
「ミアちゃーん!」
視線の先にいたのは、昼間顔を合わせた騎士団の人たちだった。川辺で焚き火を囲み、食事をしているようで、彼らの輪の中には見覚えのない三人ほどの姿も混じっている。そのうちのひとり、ライアンさんがこちらを見上げて手を振りながら声を張り上げていた。
その声に気づいたアレンも、私の隣で橋の下を覗き込む。
「お二人さん、デート楽しんでる?」
冗談めかしたライアンさんの言葉が響いた瞬間、川辺にいた仲間たちが「デート!?」と一斉にざわめいた。
途端に、私の頬が熱くなる。
……デート?
正直、デートだなんて一ミリも思っていなかった。
この世界に来てから、私はずっとアレンの家に身を寄せていて、彼以外に知り合いも友達もいない。だから一緒に出かけるのは自然なことで、それが「特別な意味を持つ時間」だなんて思ってもみなかった。
けれど——「デート」と名づけられてしまった途端、胸の奥に不思議な緊張が走る。アレンは、今日のことをそう思っていたのだろうか。
「気にしなくていいから」
アレンが短くそう言って歩き出す。私は慌ててぺこりと会釈だけして、返事をしないまま彼の後を追った。
……でも、気にするなと言われても、心は落ち着いてくれない。
胸の奥に「デート」という言葉が残像のようにこびりつき、妙にアレンの横顔を意識してしまう。
そのときだった。
「あ、おーい!」
ライアンさんが川辺から階段を駆け上がり、橋の上に姿を現した。さらにその後ろから、さっき川辺にいた騎士団のメンバーがぞろぞろとついてくる。
「え、あの人がアレンさんの彼女っすか?」
「ライアンさんさん、知り合いなんですか?」
まだ距離があるせいで言葉はところどころ途切れがちだったが、はっきりと「アレンの彼女」という単語だけは耳に届いてしまった。
まだ距離があるためはっきりとは聞こえないが、私がアレンのなんなのかという会話が聞こえてきた。
「……はぁ」
ため息混じりの声。顔を向けると、アレンはなんとも言えない面倒そうな表情を浮かべていた。
「…逃げようか」
「え?」
戸惑う間もなく、アレンは私の手を掴み、来た道を逆に駆け出した。
「ちょっ、待っ……!」
状況が飲み込めないまま、掴まれた手に引っ張られる形で私も必死に走る。 背後から慌てた声が飛んできたが、アレンは一度も振り返らず、ただ迷いなく足を進めていく。
石畳を打つ靴音、肩越しに感じる風、握られた手の温もり。全部が混じり合って、胸の鼓動はどんどん速くなる。
ようやく細い路地に入り、アレンが立ち止まった。狭い路地の影に隠れるようにして、彼は振り返り、息を整えながら言った。
「……ここまで来れば大丈夫だろう」
「な、なんで逃げたの?」
肩で息をしながら問いかけると、アレンは少し考えるように間を置いてから、苦笑を浮かべた。
「邪魔されたくなくて」
軽く言ったその一言に、心臓がまた跳ねた。
彼の言う「邪魔されたくない」が意味するものを考えれば考えるほど、胸の奥がじんわりと熱くなり、息が詰まる。
そのとき、乾いた石畳を叩くような足音が近づいてきた。軽いリズムではあるが、それはひとりではなく、複数のもの。まるでこちらを追いかけるように、少しずつ距離を詰めてくる。
「こっちきて」
アレンが低く囁き、繋いだままの手を強く引いた。建物の隙間の影に身体を押し込み、狭い空間の中に二人並んで隠れる。
背後には冷たい石壁、正面にはアレンの胸板。ほんの少し顔を上げれば、彼の横顔が手に取るように見えるほどの距離だった。
今までにない近さに息を呑む。通りを見張る鋭い視線。その横顔の端正さに、気づけば私はぼんやりと見とれていた。
「……あのさ、照れるから、あんまり見つめないで」
不意に、彼が目線を逸らしたまま口を開いた。視線が合っていなかったから気づかれていないと思っていたのに、どうやらずっと感じ取られていたらしい。
「ご、ごめん……」
慌てて視線を落とし、けれども無意識に瞳だけを上に向けてしまう。ちらりと覗いたその横顔。
ほんのり赤く染まった耳が目に入って、胸がきゅっと締めつけられる。照れた顔をしたアレンに愛おしさがあふれた。
やがて、ぱちりと目が合う。
「あ……」
見ないでと言われていたのに、また見つめてしまっていたことに気づき、思わず声が漏れた。
その直後、大きな手がすっと頭上に来る。撫でるように髪をすべり、後頭部を包み込むと、そのままアレンの胸元へ引き寄せられた。
「見ないでって言ったのに」
低い声が耳元で囁かれ、ぞくりと全身を駆け抜ける。胸の奥で鼓動が爆発するように速まり、走ったあとの息切れさえかき消すほどだ。膝がわずかに震え、腰から力が抜けそうになる。
「あれ、こっちに来たと思ったのにな……」
遠くからライアンさんの声が響き、はっと現実に引き戻された。気づけばすぐ近くまで騎士団の仲間たちが来ていたらしい。
「えー、アレンさんのデレてる姿見たかったです」
「残念だな」
そんな言葉と共に、足音が遠ざかっていく。どうやら、もう追ってはこないようだった。
「も、もうそろそろ良いんじゃない?」
小声で促すと、アレンはわずかに首を横に振る。
「……あともう少しだけ」
たしかにまだ声は微かに届いていたが、かなりの距離はあるように思えた。大きな音を立てなければ戻ってくることもないだろうと思ったけど、用心深いのかアレンは力を緩めなかった。
その腕の力はむしろ強まっていく。掴んでいた手を放したかと思えば、空いた手がそっと私の背に回され、まるで抱きしめるように包み込まれた。
一瞬止まりかけた思考が、熱に浮かされたように空回りする。何を考えればいいのか分からず、ただ置かれた状況を理解しようと目をぱちぱちさせるばかりだった。
「ミア……」
名前を呼ばれる。柔らかい声色が胸に染み込み、思わず顔を上げた。
夕陽が差し込む薄暗い路地。建物の隙間から射し込むオレンジの光が、まるでスポットライトのように二人を照らす。
光の中に浮かぶアレンの顔は、頬がほんのりと赤く染まっている。きっと私も同じだ。頬にこもる熱が、自分でもはっきりわかるほどだった。
アレンはしばらく黙り込んだまま、私をじっと見つめていた。何か言いたいことがあるのだとわかる。でも言葉にならない、ーーそんなもどかしさを映すような瞳。
やがて彼は小さく息を吐き、困ったように目を伏せると、
「……ごめん、なんでもない」
そう呟き、いつもの柔らかな笑顔を無理やり作ってみせた。
「もう大丈夫だろう。いきなり走らせてごめんね」
「あ……ううん」
その笑顔に違和感を覚えながらも、私は何も言えなかった。問いただせば、きっと本心を聞ける。だけど、口を開く勇気が出なかった。
いや、言えなかったのだ。
アレンが抱えている不安にうっすらと察しがついていたから。
私が元の世界に戻れば、もう二度とアレンには会えないかもしれない。私の生活の軸はあくまであちらにあって、それをアレンも理解しているから……だから彼は、言えないのだろう。




