17. 心の葛藤
アレン目線の話です。
「…アレン?」
ミアの小さな声に、意識が引き戻される。
「え、ごめん…なに?」
「…大丈夫?」
心配そうに覗き込む瞳に、思わず息を呑んだ。慌てて笑顔を作り、取り繕う。だが胸の奥の動揺は収まらない。
本当は、すぐに答えられた。けれど、答えれば——ミアを帰すための手がかりがまたひとつ増えてしまう。それが怖かった。ミアの幸せを願ってここに連れてきたのに、オリバーの言葉を聞けば聞くほど、心は反対の方向へ揺さぶられていく。
鈴。
ミアの口から出たその言葉に、記憶が鋭く抉られる。
——10年前。
あの時も同じ鈴を手にして、ミアは突然現れた。
そして別れの日が来て、二度と会えないのだと思い知らされた。何度願っても、自分から会いに行くことは叶わなかった。ただ、ひたすらに待つしかなかった。
その長い時間がどれほど苦しかったか。ミアを失った空白の10年が、どれほど孤独だったか。あの思いだけは、二度と味わいたくない。
そう思う一方、ミアの悲しむ姿は見たくなくて。
帰る方法を一緒に探そうとは言ったものの、帰ってほしくないと思う自分がどこかにいて、結局、中途半端になってしまう。
時折見せる、ミアの寂しそうな顔を見ると胸が締め付けられて、何とかしてあげたいと思う。
——俺が一生そばにいるから帰らないで。そう言えたら、どんなにいいか。
けれどそれは俺のエゴだ。そんな自分勝手なことは言えない。喉元まで出かかった言葉を、ぐっと飲み込んだ。喉がひどく渇いて、胸の奥が焼けるように痛んだ。
だがミアの「帰りたい」という願いを否定すれば、それこそ彼女を縛ってしまう。だから俺は必死に自分に言い聞かせた。
——ミアの幸せを一番に考えろ。
けれど、その言葉が胸の奥に届く前に、別の声が囁く。本当に帰してしまっていいのか、と。
答えを持たない葛藤だけが、重く心に居座っていた。
「おお、そうじゃお嬢ちゃん。店の入り口近くにカレンダーが貼ってあるから、取って持って来てくれるかの」
「あ、はい!」
ミアはオリバーに言われた通りカレンダーを取りに行った。
無邪気に動くミアは、不自然なオリバーの言動の裏に潜む意図など、まるで気づいていない。
「アレン、いいのか?このまま話を進めても」
「………なにが?」
全てを見透かされたような眼差しに耐えられず、俺は思わず視線を逸らした。
「ずっと探していた子なんじゃろ?素直にならんと」
胸の奥を鋭く抉られたようだった。
十年前、ミアを失ってから、どうにか会える方法はないかと必死に探していた。別の世界の行き方についてオリバーに尋ねたこともあった。
ミアを連れてこの店に来た瞬間から、俺がずっと探していた相手が誰だったのかわかったのだろう。
「素直にって……帰らないでくれって言えとでも?そんなこと言ったって、ミアを困らせるだけだろ……」
言葉は思った以上に強くなっていた。
八つ当たりだとわかっていても、心の中の葛藤をどう扱えばいいのか、自分でもわからなかった。
「別にそういうわけじゃないさ。ただ——アレンがどう思っているか、それだけでも伝えてみるのも悪くはなかろうと思ってな」
オリバーの声音は穏やかで、叱るでもなく、挑発するでもなく、ただ真実を突きつけるように響いた。
「……」
返す言葉が見つからない。胸がざわついて、手のひらがじっとりと汗ばむ。
その時、コツコツと軽やかな足音が近づいてきた。
「持ってきました!」
明るい声に振り返ると、ミアがカレンダーを抱えて戻ってくるところだった。
「ありがとう。……どれどれ」
オリバーはそれを受け取り、じっと見つめる。
古びた紙に記された日付。その傍には、満月や新月といった月の相が細かく刻まれていた。
オリバーは皺だらけの指でゆっくりとなぞりながら、じっと見下ろす。その瞳が一瞬だけ鋭く光り、こちらの心臓を射抜くようだった。
「昔から月、太陽、魔法は近い存在だと言われておっての。……もしかしたら、お嬢ちゃんが来た日と照らし合わせたら何かわかるかもしれんの」
ミアは小さな手を使って日を数え、「5日前に来ました」と答えた。
「ほう……この法則がわかれば、帰る方法があるかもしれんぞ」
「え、ほんとですか!良かった……!」
ミアは安堵の笑みを浮かべた。その頬は明るく染まり、肩の力が抜けていくのがはっきりと分かった。
——その姿を見るたび、またズキンと胸が痛む。
彼女が安心して笑えば笑うほど、自分の心の奥では「帰らないで」と叫ぶ声が大きくなっていく。
「ひとまず、この本を持っていきなさい。暇な時にでも目を通しておくといい。何か役に立つことが書いてあるかもしれん」
分厚い本を差し出すと、ミアは大事そうに両腕でぎゅっと抱え込み、嬉しそうに「はい!」と返事をした。
「それじゃあ……まあ、ここにいても仕方あるまい。せっかくだから町を楽しんでおいで」
そう言って、オリバーは大げさに手を振りながら、まるで追い立てるように俺たちを出口へと向かわせた。
陰気な薄暗い店内を歩き、扉に手をかけようとした時だった。
「……おい、アレン」
背後から、低く押し殺した声が聞こえた。ミアは気づかず、扉の向こうの光を見上げている。振り返ると、オリバーの顔は先ほどまでの陽気さとは打って変わり、真剣そのものだった。
「アレン、お主にとってあの子が大事なのは分かっとる。……だが、どうしてもというなら、この件からわしは手を引こう」
静かな声音に、胸の奥がじんわりと熱を帯びた。その言葉はただの気遣いではなく、長い時間を共にしてきた者にしか向けられない真心だった。
ミアが消えてから、残された俺は三ヶ月くらいオリバーと一緒に暮らしていた。
胸にぽっかりと穴が空いたまま、何をしても満たされず、ただ日々をやり過ごすしかなかった。そんな時に出会ったのがオリバーだった。
住んでいた場所から近いここで彼と会い、色々と教えてもらった。
四ヶ月目には、見習い騎士団に入ることにしたためここを離れることになったが、それでも思い入れのあるこの街にはよく戻ってきていた。
「……ありがとう」
やっとの思いで言葉を絞り出すと、オリバーは片目をぱちりと閉じ、いたずらっぽい笑みを浮かべた。
——まるで「わしはいつでもアレンの味方だ」と、無言で伝えてくれるように。
◇◇
それからオリバーの店を後にし、ミアと初めて出会った頃に住んでいた家へ向かうことにした。
もし彼女が何か記憶を失っているのだとしたら、懐かしい場所に触れることで断片でも思い出せるかもしれない——そんな淡い期待が胸の奥で揺れていた。
家の向かいには、昔から通っていたパン屋がある。
店主のティナには何かと世話になったし、ミアとも顔なじみだった。彼女を連れて行けば、驚くに違いない。
「美味しいパン屋が近くにあるから、明日の朝ごはんに買っていこう」
軽く誘うと、ミアは嬉しそうに微笑んで元気よく頷いた。
ミアとこうして一緒にパン屋のある通りを歩くと、懐かしい気配が胸を締めつける。
ミアと過ごしていた時と比べると店の看板は新しく塗り直され、窓枠も少し変わっていたが、漂う香ばしい匂いは昔と変わらず同じだった。記憶の奥底で眠っていた思い出が次々と呼び覚まされる。
俺たちが暮らしていた家の周りには、季節の花が色鮮やかに咲いていて、窓辺に灯りが見えた。どうやら、人が住んでいるようだ。
「知ってる人でもいたの……?」
不意にミアの声がして、はっと我に返る。
「いや……ただ、昔よく来ていたから懐かしいなって思って」
胸のざわめきを隠すように言って、パン屋の扉を押した。
カラン、と鈴が鳴り、香ばしい匂いが外へ溢れ出す。
「いらっしゃい!あら……アレン!」
カウンターから顔を出したティナが、陽気に声をかけてきた。だが、その視線がミアへ移った瞬間、ぴたりと動きが止まる。
俺は慌てて「彼女はミア」と紹介した。あらかじめ「記憶を失っている」と伝えておいたことを思い出したのか、ティナはすぐに笑顔を取り戻し、「初めまして。この店のオーナーのティナです」と穏やかに挨拶をした。
「アレンがね、12、3くらいの頃かしら。向かいの家に住んでて、毎日のようにパンを買いに来てたのよ」
「へえ、そうだったんですね」
ティナのする俺の過去の話に、ミアは興味深く耳を傾けていた。
しばらく世間話を交わすうちに、ミアは楽しげに笑い合っていたが……思い出すような気配はどこにもなかった。最初から期待しすぎてはいけないと分かっていたのに、それでも心の奥に小さな落胆が広がる。
やがて次の客が入ってきたため、俺たちはパンを選んで会計を済ませ、名残惜しさを胸に店を後にした。




