14. 街(後編)
「いらっしゃいませ、スコット様」
店員の声に顔を上げると、すぐに丁寧なお辞儀が返ってきた。その言葉を聞いた瞬間――アレン・スコット、というのが彼の名なのだと初めて知る。
店内は衣類店らしく、壁や棚には整然と畳まれた服が並び、鮮やかな布地が目に飛び込んでくる。木製の床には陽の光が差し込み、柔らかく反射して洋服たちをさらに美しく見せていた。
「本日はどのようなお召し物をお探しでしょうか」
「彼女の服を何着か見繕ってもらいたい」
「かしこまりました。では奥へご案内いたします」
「え、私の服?」
思わず間の抜けた声が出た。
「そう。ずっと準備してあげなきゃって思ってたんだ」
「い、いや、でも…! 今借りてる服でも十分素敵だし!」
「俺が買いたいだけだから」
アレンはいつものように穏やかな笑みを浮かべる。その笑顔を見た瞬間、断ろうとしていた言葉が喉の奥で止まってしまった。
――迷わずこの店に入ったってことは、最初から私の服を買うつもりで連れてきてくれたんだ。
けれど私は、これまでも十分すぎるほどのものを与えてもらっている。これ以上甘えてしまっていいのだろうか。何も返せていない自分が情けなくなり、胸がきゅっと締めつけられる。
「あら、スコット様、お久しぶりです」
奥から現れたのは、首にサルトメジャーを掛けた背の高い女性だった。姿勢がよく、すらりとした体躯からは職人らしい自信が漂っている。
先ほど案内してくれた店員がその女性に何事かを耳打ちすると、彼女は大きく頷き「彼女様に似合う洋服ですね。お任せください」と快活に答えた。
彼女は目を輝かせながらハンガーにかかった服を手に取り、次から次へと私の前へ差し出してくる。その姿はまるで宝物を探す子供のようで、ただ見ているだけでも胸が躍った。
「華奢だけど背が高いから、こういうIラインをしっかりと見せてくれる服がおすすめです!こんなのはいかがですか?」
女性はすぐに鏡の前まで私を連れて行き、選んだ服を上から合わせてくれた。鮮やかな布地が私の体の前で揺れると、不思議と少し大人びた自分になったような気がした。
「可愛い…」
思わず口から言葉がこぼれ落ちる。
「でしょ!一度着てみてください」
女性は弾む声で言うと、半ば強引に私をフィッティングルームへと押し込んだ。
カーテンの内側で服を抱きしめる。
これ、いくらくらいするんだろう。買ってくれるとは言ってくれたけど、あんまり高いものはやっぱり申し訳ない。
名前で出迎えてくれるようなお店だ。きっと高級店に違いない。それに、この服の生地の質感――柔らかいのにしっかりしていて、普段私が着ている服とはまるで別物だ。
「とりあえず……着るか」
小さく息を吐いて、用意してくれた服を手に取り着替え始めた。
柔らかな布地が肌に触れた瞬間、心地よいひんやり感が走る。袖を通し、裾を整えるたびに胸の奥がドキドキと高鳴っていく。布が体に沿ったとき、自然と背筋が伸び、鏡の中の自分と視線が合った。
――すごい、素敵だ。
そこに立っていたのは、私が知っているはずの自分であって、でもどこか違う人のように見える。
思わず口元が緩み、鏡の前でニヤけてしまった。さすがは洋服店の店員。私の体型を一目で見抜き、似合う服を選んできてくれただけのことはある。
白いニットに、淡いオレンジのロングスカート。
ふわっとした柔らかな印象を与え、顔色まで明るく見える気がした。いつもの地味で無難な服しか着てこなかった私が、こんなにも柔らかく華やかに見えるなんて。
「いかがですか?」
カーテン越しに店員さんの弾んだ声が聞こえた。
素敵だと思っているけれど、問題はアレンがどう思うか。
とりあえず見せなければ、そう思って、少し恥ずかしさを抱えつつカーテンを開け、フィッティングルームから一歩を踏み出した。
「とてもお似合いです! どうですか、スコット様」
店員さんは満足そうに私の両腕をそっと掴み、そのままアレンの前へと押し出した。
真正面に立たされ、息を呑む。アレンの視線が、まっすぐに私へ注がれている。
しばしの沈黙のあと、彼の口からぽつりと声が漏れた。
「……かわいい」
低く、けれど真剣な響きを含んだその一言に、心臓の鼓動が一気に速くなるのを感じた。思わず目を逸らしたくなるほど凝視され、頬が熱でじんわりと赤く染まっていく。
その様子に気づいた店員さんが、後ろから「まあ!」と嬉しそうに声を弾ませた。場が一気に華やいで、私はますます居たたまれなくなる。
「あ、ありがとう……」
なんとか言葉を発してお礼を言ったけれど、アレンの視線は変わることなく、だけど何も発しず、二人の間になんとも言えない空気が流れた。
「……」
「……」
いたたまれない私を救うように、店員さんが明るい声で場を切り替えた。
「さ!では、次着てみましょう!」
なにも言葉を発しない私たちを見かねて、再び私はフィッティングルームへと押し戻される。
「次はこちらをお願いします!」
「え、まだ着るんですか?」
「もちろんです! いろんなお洋服を試していただかないと!」
「ええぇ……」
次から次へと差し出される服に袖を通す。
――気づけば、すでに十着近くを試しただろうか。鏡の前で回るたびに別人になったようで楽しい反面、体力も気力もじわじわ削られていく。
その間アレンは、ただ黙って椅子に腰掛け、私が着替え終わるたびに視線を外さずに見守っていた。
……正直、着替える私はへとへとだ。けれど同時に、アレンが私に向ける視線に、胸の鼓動は落ち着く暇もなく鳴り続けていた。
「では、次は……」
「い、いえ!もう大丈夫ですので!ね、アレン!」
さすがに根負けした私は、フィッティングルームから顔を出し、助けを求めるようにアレンを見やった。長時間アレンを待たせるのも申し訳ないし、これ以上は体力も心も持たない。
「そうだね……じゃあ、ミアが着た服、まとめて送っておいてくれる?」
「承知しました! ありがとうございます」
店員さんは満足げに深く頭を下げた。
「え、ちょっと待って。もしかしてだけど、全部買ってくれるつもり?」
「そうだよ」
アレンはあくまで平然としていて、まるで「何か問題でもあるのか?」とでも言いたげな表情をしている。
「いやいや、こんなに要らないよ! それに、ここの服ちょっと高そうだし……」
私は慌てて小声で訴えた。店員さんに聞こえたら困るから、声を潜めるのに必死だ。
「大丈夫だよ。さっきも言ったけど、俺が買いたいだけだから」
「でも……」
その真剣な目に見つめられると、これ以上拒むのは逆に失礼な気がしてしまう。与えてもらってばかりで心苦しいけれど、アレンの好意を無下にするのも違う。
「ありがとう」
ようやくそう告げると、アレンは安心したように、柔らかく微笑んだ。
その笑みを見た瞬間、胸の奥のこわばりがほどけるようで、私までつられて小さく笑ってしまった。
◇◇
「疲れたでしょ。ちょっと休憩しようか」
アレンがそう言って、自然に私の手を取った。その手の温かさに一瞬どきりとしつつ、引かれるまま歩き出した。
「ここのカフェ美味しいって評判らしいから、入ってみよう」
「あ、うん」
正直、服を脱いでは着てを繰り返すうちに、足も腕も重くなっていた。だからアレンが気遣うように休憩を提案してくれて、心からほっとする。
カフェの扉を開けると、ふわっと甘い香りが鼻をくすぐった。焼きたてのパンケーキとコーヒーの香ばしい香りが混ざり合って、思わずお腹が鳴りそうになる。
店内は明るく、天井が高いおかげで開放感があり、外の賑やかな通りとは対照的に落ち着いた空気が流れていた。年齢層も幅広く、親子連れから年配の夫婦まで、皆が穏やかな時間を楽しんでいる。
案内されたのは窓際にある丸型のテーブル。四人がけの席に、私とアレンが向かい合って座ると、不思議とその空間が特別なものに感じられた。
「好きなの頼んでいいよ」
アレンは自分がメニューを開く前に、先に私へと差し出してくれた。
こういう紳士的なことを、さらっとやってのけちゃうから……また乙女心をくすぐられてしまう。
軽く食事をするつもりでここに入ったのか、それとも飲み物だけのつもりだったのか。
アレンなら、私が何を頼んでも文句は言わないだろう。でも、自分だけ食べるのはちょっと気が引ける。そんなことを考えながら、私はメニュー越しにアレンをちらりと覗いた。
ぱっと視線がぶつかって、慌てて目をメニューへ戻す。
(そうだよね、私が早く決めないと、アレンはメニューを見られないんだから)
とりあえず候補を二つほど決め、アレンにメニューを返した。
するとアレンは、ほとんどメニューを確認もせずに店員さんを呼ぶ。
「コーヒーを一つと…ミアは?」
「あ、私はアイスミルクティーをお願いします」
「なにも食べないの?」
「え、あ、うん…」
実はパンケーキセットも気になっていたけれど、アレンが飲み物だけなら私も合わせようと思っていた。
「ここのパンケーキ、美味しいって評判らしいんだ。せっかくだし、食べてみたら?」
「え、いいの?」
アレンがにこりと笑って頷く。その笑顔に背中を押されるように、私は甘えてケーキセットを頼んだ。
「もしかして、あんまりお腹空いてなかった?」
「ううん。ただ、アレンが食べないなら、私一人で食べるのも悪いかなって思って……」
「そんなこと、気にしなくていいのに」
アレンは軽やかに笑った。その声が、カフェの柔らかな空気と混ざり合って、心まであたたかくなっていく。
「お待たせしました」
しばらくして、テーブルに私が注文したパンケーキセットと、アレンのコーヒーが並べられた。
「わあ……美味しそう」
目の前に置かれたパンケーキは、白いお皿の上で綺麗に盛り付けられていた。しっとりとした生地の横には、鮮やかな赤のいちごと、深い青のブルーベリー。そしてふんわりと盛られた生クリーム。整えられた彩りに、思わず見惚れてしまう。
私はフォークを取ると、ためらいがちにパンケーキへナイフを入れた。すっと刃が沈み、甘い香りがふわりと広がる。
「アレンも食べない?」
「ん?俺はいいよ」
「でも、パンケーキ好きでしょ?」
前に食後のデザートでパンケーキが出てきたとき、アレンが美味しそうに平らげていた姿を覚えている。あの時の表情が頭に浮かんで、自然と口にしていた。
「まあ、好きだけど…」
アレンが少し照れくさそうに目を逸らす。
私は半分に切ったパンケーキを取り皿にのせ、そっとアレンの前へ差し出した。余計なお世話かな、と一瞬迷ったけれど、同じものを一緒に食べられたら嬉しいし。
「せっかくだし、一緒に食べようよ。あ、でも……要らないなら無理に食べなくていいからね」
少し不格好に切れてしまったパンケーキを見つめ、アレンはふっと笑った。
「……そうだな。せっかくだし、俺もいただくよ」
その一言に、胸の奥がじんわりと温まる。
異世界で初めて味わった外食のひととき――その甘さも温かさも、深く心の奥に刻み込まれた。




