13. 街(前編)
図書館へ通うようになってからは少し気が紛れるようになったものの、それまでは退屈な毎日が続いていた。だからこそ、今日は思いっきり楽しみたい。あの日に約束してからというもの、実はずっと心の中でこの日を待ちわびていたのだ。
アレンは日中ほとんど家にいないから、普段会えるのは朝と夜くらい。昨晩も夕食の時間に戻らず、私は一人きりで広い食卓に座っていた。整えられた食器の音だけが響く静かな時間は、やっぱり少し寂しい。だからこそ、今日は余計に特別に感じられた。
そのせいか、今朝は興奮して普段よりずっと早くに目が覚めてしまった。
着替えを済ませ、読書でもしながら彼を待とうと本を抱えて食堂へ足を運ぶと――
「おはよう」
「あっ、おはよう。どうしたの、早いね」
すでにアレンが席に着いていた。窓から差し込む柔らかな朝の光を受けながら、長い指先でカップを傾ける仕草は、まるで絵画の中の人物のように優雅だ。
「ミアと出かけるのが楽しみで、早くに目が覚めたんだ」
あまりにもさらりと告げられ、胸の奥が一瞬で熱くなる。
「そ、そうなんだ…」
顔が熱くなるのを誤魔化すように視線を泳がせていると、ちょうどイーサンが割って入った。
「では、朝食をお持ちしてもよろしいですか」
「ああ、頼む」
そのやりとりの間に、私はこっそり深呼吸をして気持ちを落ち着ける。
けれど、時折こうして不意に訪れる甘い空気には、どうしても慣れることができなかった。アレンにとっては自然な一言なのかもしれないけれど、私に少し強烈で――どうしても慣れることができない。
「昨日も図書館へ行ってたの?」
アレンの視線が、私の手に抱えた本へと向けられる。
「うん。…あっ、そうだ!」
彼の言葉に引っ張られるように、昨夜渡そうと思っていた紙の存在を思い出した。慌てて本の間から取り出す。
「昨日、図書館で知らない人に声をかけられて…」
「知らない人?」
アレンがすぐさま食い気味に聞いてくる。声色には警戒がにじんでいた。
「あ、でも別に怪しい人とかじゃなくて! その…話をしたら少し仲良くなって、『よかったら招待する』って、この紙を渡されたの」
差し出した紙を見ながら、自分で言葉にしてみると、やっぱり十分怪しい気もする。けれどそれを口にする勇気はなく、私は曖昧な笑みでごまかした。
「この国に住んでいる人にこの紙を見せたらすぐ分かるって言ってたんだけど、なんのことか分かる?」
私は胸ポケットから例の紙を取り出し、アレンの前に差し出した。すると彼は一瞬、息を呑んだように目を大きく見開き、驚愕の表情を浮かべた。
「その人の名前は聞いた?」
低い声。さっきまでの穏やかな響きが、急に鋭く変わっている。
「あ……そういえば、お互い名乗るのを忘れてた」
「……そうか」
アレンはそれ以上何も言わず、紙から視線を外すと黙り込んでしまった。
重苦しい沈黙。何か、とんでもないものを見せてしまったのだろうか。
じわりと背中に汗がにじむ。あの紋章のようなマーク……もしかして、ギャングか何かの印?
この国の人間なら誰でも知っている、とあの人は言っていた。だとしたら――全国的に名を馳せる犯罪組織の象徴?
想像がどんどん悪い方向に転がっていき、胃のあたりがきゅっと縮んだ。
「ど、どうしよう……私、もしかして何か悪いことに巻き込まれちゃった……?」
恐る恐る声をかけると、アレンはぽかんとした顔で「え?」と返した。
その反応があまりに拍子抜けで、私も思わず「え?」と間抜けな声を上げてしまった。
「これは王家が持つ紋章だよ」
「……へ?」
頭の中でカチリと何かが外れるような音がした。まったく想像していなかった言葉に、思考が止まる。
「はあー……まずいな。見なかったことにして、今すぐ捨てるか……」
「ええ?」
「……冗談だよ」
アレンは口元だけで笑ったが、目は笑っていないように感じた。困っているような、そんな目をしていた。
「招待って、具体的に日時を言われた?」
「う、うん。明日の午後二時って……。それで、この国にいる知り合いと一緒に来てもいいって言われたの。でも、アレンの予定が分からなかったから『行けるか分からない』って答えたら、予定が合わなかったら来なくてもいいって……」
「なるほど。この国にいる人なら紋章の意味を把握しているから、都合をつけてでも来るだろうって分かっててそう言ったんだろうな」
アレンは深く息を吐き、眉間に皺を寄せた。まるで面倒な問題を抱え込んだように、苦い顔をしている。
そんなアレンの様子を見て、私は慌てて口を開いた。
「あっ、別に無理に予定を空けてくれなくても大丈夫だよ!場所さえ分かれば、私ひとりでも行けるし」
もちろん、不安はある。けれど、嫌そうにしているアレンを無理に巻き込みたくはなかった。
「いや、大丈夫。ミアを一人で行かせる方が心配だし。明日一緒に行こう」
アレンは軽く肩をすくめながら、私を安心させるようにやわらかな笑みを浮かべた。
「ごめんね……付き合わせちゃって」
申し訳なさを口にすると、彼はほんの少し首を横に振って、穏やかな声で続けた。
「俺は嬉しいよ。明日もミアと一緒にいられるんだから」
言葉が頭に届くのと同時に、頬から耳まで一気に熱が広がる。まるで顔全体に火がついたみたいに。
イケメンにそんな台詞を真正面から言われるなんて、漫画やドラマの中の出来事だと思っていた。現実でそんなことを言われると、どう反応していいか分からない。
――やばい、絶対顔真っ赤になってる。
心の中で必死に平静を装おうとするけれど、視線を合わせることすら難しくて、思わず俯いてしまった。
「お待たせしました」
その瞬間、まるで気を利かせたかのような絶妙なタイミングで、イーサンが料理を運んでやってきた。
アレンと視線を合わせないようにしながら、目の前に置かれた皿にフォークを伸ばす。
味をきちんと感じる余裕もないまま、ひと口、またひと口と必死にご飯を口へ運んだ。何事もなかったかのように振る舞うことで、火照った気持ちを隠そうとする。
食事を終え、少しの休憩を挟んでから私たちは家を出た。
きっと馬車で移動するのだろうと思い込んでいた私は、用意されていた馬が一頭だけなのを見て目を瞬いた。
「え、馬、一つ…?」
戸惑う私に、アレンは当たり前のように手を差し伸べてきた。
「一緒に乗ろう。大丈夫、落としたりしないから」
そう言われると断る理由もなく、私は少し戸惑いながらもその大きな手を取った。
馬にまたがると、当然のように背後からアレンの腕が回り、手綱を握る。ぐっと身体が近づき、背中越しに彼の温もりをはっきりと感じてしまう。
この世界に来てすぐにアレンの馬に一緒に乗ったけど、その時とは違う緊張を感じた。
――こんなに密着してたっけ…?
胸の奥が落ち着かず、心臓が暴れるみたいに早鐘を打つ。今にもドクドクという音が伝わってしまいそうで、私は必死に何も考えないよう無心になっていた。
「着いたよ」
不意に声をかけられて、ハッと我に返った。アレンは軽やかに馬から飛び降り、手綱を片手に振り返る。どうやらここから先は歩いて行くらしい。
そして、彼はまるで「飛び込んでこい」とでも言わんばかりに両腕を大きく広げた。
ここから飛び込んだら抱きつきに行くようなものだ。
逡巡する私の気持ちを知ってか知らずか、アレンはにこりと笑って「いいよ」と短く告げる。その一言で、彼の姿が陽光に照らされてキラキラと輝いて見えた。
――こんなシチュエーション、現実でそう何度も経験できるものじゃない。
「えいっ」と心の中で気合を入れ、私は思い切ってアレンの胸に向かって飛び込んだ。
ふわっと身体が浮き上がり、驚くほど軽々と受け止められる。数センチ先にあるアレンの顔に、思わず息を飲んだ。太陽の光を映した瞳はいつもよりも鮮やかに青く輝き、見惚れてしまいそうになる。
「あ、ありがとう…」
消え入りそうな声で礼を告げると、アレンは優しく私を地面へと降ろしてくれた。
「じゃあ、行こうか」
穏やかに言う彼の背中を追いながら、私はまだドキドキの余韻が胸の奥に響いているのを隠せず、少し距離を置いてその後ろを歩いた。
この世界に来て、こんなにも人が行き交う光景を目にするのは初めてだった。
広場には屋台が並び、香ばしい匂いや甘い匂いが風に乗って流れてくる。人々の笑い声や呼び込みの声が重なり合い、足を踏み出すだけで胸が弾む。まるで初めて海外旅行に来たときのような、不思議で高揚する感覚だ。
建物はマンションのように高くそびえるものは少なく、二階建てや三階建てほどの家がほとんど。街並み全体に統一感があり、落ち着いた色合いの壁に、ところどころ鮮やかな色が差し込まれていて、まるで絵本の中に迷い込んだかのように可愛らしい。
「ここ、入ろうか」
「あ、うん」
アレンが扉を押すと、頭上の小さなベルが「カラン」と澄んだ音を立てた。




