12. 花
振り返ると、そこに立っていたのは金糸のように輝くブロンドヘアを持つ青年だった。光を受けてさらりと揺れる髪、その上品な顔立ちに加え、仕立ての良さが一目で分かる服装をしている。素人の私でも、ただ者ではないと直感できるほどの存在感だった。
面白いこと、って……花に水をあげただけなのに?
この世界では花の水やりすら魔法でやってしまうんだろうか。やっぱりすごい世界だな……。
そんなふうに感心していると、彼はゆったりとした仕草で私の前に歩み寄り、口を開いた。
「あれ、どうやったか教えてくれない?」
彼が指差した先を見ると、それは私がひとつ前に水を注いだ花壇だった。
「どうって……ええっ!?」
私は思わず声を上げた。自分の目を疑ったのだ。
ほんの数分前まで固く閉じていたはずの蕾が、今は艶やかに色づき、まるで競い合うように花を咲かせていたからだ。
「な……なんで急に花が……?」
私はただ水を与えただけのつもりだった。なのに、この変化はどう見ても自然ではない。
青年は目を細め、首を傾げた。
「あれ…もしかして無自覚?」
「え、ど、どういうことですか?」
「途中からしか見ていなかったけど、花を咲かせたのは間違いなく君の力だよ」
「わ、私……が?」
信じられない。私がやったのは水を生み出す練習のはず。けれど、もし出したのがただの水ではなく――魔力を帯びた“何か”だったとしたら?
混乱する私を見て取ったように、青年は一歩近づき、今度は落ち着いた声で語りかけてきた。
「君…この国の人じゃないの?」
「え…あ、はい。最近来たばかりで」
「そうか…」
短い返事とともに、青年の瞳が一瞬だけ深く沈む。その色を測りかねて、私は思わず息を呑んだ。
何かまずいことでもやってしまったのだろうか…。沈黙が長引けば長引くほど不安になる。
わずか三秒後、その不安は解消された。
「ここの花は少し特殊な花で、枯れることがないんだ。だけど、咲いているところも滅多に見ることはできない。俺も咲いてるところは初めて見た。君のその様子からして…その能力の存在に気づいていなかったってことかな」
「これ…私の能力なんですか?」
「そうだよ、普通の人は咲かせることなんてできないからね」
そう言いながら、咲いた花に優しく触れる。長い指先が花弁をかすめると、その仕草ひとつさえ絵になるようで、目を奪われてしまう。
そして「綺麗だな」と、私に聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声で呟いた。
その動作ひとつに無駄がなく、自然と周囲の空気を引き締めてしまう。見た目の気さくさとは裏腹に、どこか人を従わせるような不思議な雰囲気を纏っていた。
もしこれが本当に私の力なら――私にも魔法が使えるんだ、そう思うと胸の奥がふわりと温かくなった。
「詳しく話したいんだけど、この後時間ある?」
「あ、えっと…」
そう言われて、私は慌てて時計を確認した。イーサンと約束している時間まで、残り15分ほどしかなかった。
「少しなら…」
「少しってどれくらい?」
「10分くらいですかね…」
彼は、すぐに眉を上げて反応した。
「それは短すぎるね」
その素早いツッコミに肩が跳ね、私もつられて小さく苦笑する。
「じゃあ、別の日に正式に招待したいんだけど、いいかな」
「招待…?」
彼の口元に浮かんだ柔らかな笑みと、真剣な瞳が同時に私を見据える。
「最近この国に来たって言ってたけど、知り合いはいる?」
「あ、はい」
「よかった。じゃあ、その知り合いと一緒にし……」
言葉を途中で止め、彼は軽く咳をした。
「あーっと……俺の家に来てよ」
「え、家ですか…?」
瞬間、頭の中に疑問符が飛び交う。
「駄目かな?」
「あ、いや…ちょっと知り合いに聞いてみないと…」
私はぎこちなく返答した。
知り合ったばかりの人を自宅に招くなんて普通なのだろうか。だけど、なんとなく悪意は感じず、純粋に私の魔法について知りたいという気がした。
「ああ、そうだよね…じゃあひとまず予定だけ決めよう。明日はどう?」
次々と提案が飛び出すたび、私はただ圧倒されるばかりだった。
行くか行かないかを先に決めたい――そう思いながらも、彼の勢いと自然な笑顔に押されて、逆に疑う方が不自然なのかもしれない、と少し疑心暗鬼になってしまった。
ひとまず、この人といつ会うかだけでも決めて、アレンに相談すればいい。アレンがやめておけと言えば断ればいいし、どのみち明日はアレンと町へ出る約束がある日だしひとまず相談しよう。
「すみません、明日も予定があって」
「…じゃあ、明後日は?」
「明後日なら大丈夫です」
「じゃあ明後日で。時間は、そうだな…午後2時くらいでどう?」
「あ、はい、今のところは予定ないですけど…。相談しないといけないですし……確実に行けるとは言えないですが、それでもいいですか?」
「構わないよ、来れそうだったら来て」
“来れそうだったら”…そんなあっさりした約束で本当にいいのだろうか。
もし私が逆の立場なら、色々準備があるから来られない場合は事前に知らせてほしいはずだ。それに、こんな時にスマホがあれば…なんて、つい現実世界の感覚が頭をよぎる。
「じゃあこれを渡しとくよ」
そう言うと、彼は自然な所作で内側の胸ポケットから一枚の紙を取り出し、私に差し出した。
紙には精巧な紋章が描かれているだけで、裏を見ても特に何も書かれていなかった。手に取ると、紙の質感も普通の紙とは少し違い、重みのようなものを感じる。
「これなんですか?」
「ちょっと面倒なんだけど、これがないと門番が通してくれないんだ」
「……なるほど」
この紙切れがないと通れない――どういうことだろうと一瞬疑問が湧いたが、深く追及せず素直に受け取った。
手にした紙の重みと紋章を改めて眺めながら、ただの紙切れではない特別な意味があるのだと感じた。
「あ、そろそろ時間じゃない?」
ふと時計を見ると、約束の時間まで残り5分しかなかった。
まだアレンから借りた本が残っているから今回は借りなくても大丈夫そうだ。図書館の奥の方まで来てしまったことに気づき、出口まで急ぎ足で向かわなければと背筋を伸ばす。
「じゃあ、私はこれで…」
「うん、じゃあ」
彼は片手を軽く上げ、ひらひらと手を振った。その所作には、先ほどの仕立て屋が腕によりをかけた服の品の良さや、自然に目を引く所作の美しさが滲んでいて、思わず視線を奪われる。
「あ、そうだ。明後日はどこに行けばいいんですか?」
「え?あー、それなら、この国の知り合いの人にその紙を見せてみて。すぐ分かると思うから」
この紙だけで済むのか、とツッコミたくなったが、イーサンを待たせる時間も気になり、私は「わかりました」と聞き分けのいい子を演じ、その場を離れた。
背後で彼が残した軽やかな足音が遠ざかるのを聞きながら、紙に込められた意味と、彼の存在感の強さが心にひっそりと残った。
ーーいったい、彼は何者なのだろうか。
あの人自身のことも気になるけれど、何よりも心に残っているのは、彼が口にした言葉だ。
『花を咲かせたのは間違いなく君だよ』
――私に、特別な力があるということなのだろうか。
頭の中でその言葉を何度も反芻しながらも、魔法が使えたという事実にふと笑みがこぼれる。
どんな力なのか、どうして自分にその力があるのか、まだわからないことだらけだけれど、招待してくれたのだから、会ってゆっくり話を聞けば何か手がかりがつかめるはずだ。もちろん、アレンとの都合が合えばだけれど。
そんな思いを抱えながら、私は駆け足で図書館の出入り口へ向かった。
外の光が差し込み、柔らかな風が頬を撫でるたび、胸の奥で小さな期待とわずかな緊張が混ざり合った。
この世界での日常が、少しずつ、だけど確かに色づき始めていることを感じながら――私は一歩一歩、出口へと足を進めた。




