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10. ベルサーユ図書館


「着きました」

 イーサンの声に促され、私は馬車から降り立った。


 てっきり町の中を通るものだと思っていたが、そうではなかった。周囲には商店も民家もなく、視界を占めるのは堂々たる石造りの図書館だけ。まるでこの場所だけが特別に切り取られた世界のようで、私はしばし圧倒されて立ち尽くした。


「こんにちは」

 不意に、聞き慣れない声が背後からかけられる。振り返ると、そこには柔らかな笑みを浮かべた人物が立っていた。どうやらこの図書館の職員のようだった。


「ミア様、私は少し町に用事がございまして、この機に済ませてまいります。三時間ほどで戻ってまいりますが……それでよろしいでしょうか」

「わかりました。大丈夫です!」


「では、後ほど。失礼いたします」

 深々と礼をしてイーサンは馬車を走らせ、やがて視界の向こうへと消えていった。


 一人の方が気兼ねなく調べ物に集中できるし、私に気を遣ってくれたのかもしれない。


 さあ、いよいよ――。

 重厚な扉が目の前にそびえ立つ。その向こうには、まだ知らない知識の海が広がっているのだと思うと、胸が高鳴った。

 

 私は深呼吸をして図書館の扉に足を向ける。その時だった。

 先ほど挨拶してくれた職員が、まだ傍に立っていることに気づいた。


「よろしければ、ご案内いたしましょうか」

「え、あ……いいんですか?」

「もちろんでございます。初めての方は皆さん迷われますので。何かお探しの本はございますか?」

「あ、えっと……」

 差し出された言葉に、私は思わず口ごもる。


 ――異世界に帰る本なんて、正直に言えるわけない。


 変なことを言って厄介な客だと煙たがられるのも避けたい。私はなんて言おうか言葉を探して必死に頭を回転させた。


「えっと、じゃあ……魔法について詳しく書かれている本、ありますか? 初心者でも読めるような……」

「ございますよ。ご案内いたしますね」


 その案内係の人についていき、建物の中へと足を踏み入れた。

 次の瞬間、目に飛び込んできた光景に、私は思わず息を呑んだ。


「……すごい」


 天井まで届くほどの本棚が、見渡す限り整然と並んでいる。

 圧倒的な量の本が壁を覆い尽くし、まるで紙と文字でできた森に迷い込んだかのようだった。


 天井は高く、中央部分はガラス張りになっている。そこから差し込む陽光が大理石の床に反射して、館内全体を柔らかく照らしていた。光が本の背表紙にきらめきを与え、どれも宝石のように見える。

 もちろん壁には灯りも取り付けられていたが、自然光だけで十分に空間を満たしていた。


 整然と並べられた本は、乱れひとつなく隙間もなく、まるで兵士の隊列のように凛としている。そこからは、ただ本を保管しているという以上の厳格さや神聖さすら感じられた。


「こちらです」

 見惚れてぼうっと立ち尽くしていた私に、案内係の人が優しく声をかける。

 その声ではっと我に返り、慌てて足を動かした。


 視線を巡らせると、館内にはちらほらと人影があった。

 本を抱えて机に向かう者、書き写すように熱心に筆を走らせる者。皆が静かに、しかし確かに「知を吸い込む」ことに没頭している。その姿を眺めているだけで、この空間が学びと探究の殿堂であることを実感した。


 適度に人はいるけれど、凛とした空気が漂っている。


「だいたいこの列にあるのは、すべて魔法に関する本です」

 そう案内されて顔を向けた瞬間、言葉を失った。

 彼女が示した“その列”は、視線の届く範囲を軽く越え、遠く霞むほどの長さで続いている。


「え…あの……これ全部……?」

「はい。なにせ、この図書館には国中の本が集まっておりますから」


 彼女の言葉は誇らしげだった。だが私にとっては、目の前の膨大な本の群れが壁のように立ちはだかって見え、思わずため息がこぼれそうになる。

 魔法の知識を求めてはいるものの、どこから手をつければいいのか見当もつかない。


「ですが、魔法の本と申しましても内容は多岐にわたります。入門書から専門書、歴史的記録や理論研究まで……」

 私の戸惑いを感じ取ったのか、近くの棚に歩み寄り、一冊の本を手に取って見せてくれた。


「この辺りにある本は、魔法の基礎知識が中心です。この本などは、ちょうど昨年出版されたばかりで、初学者にも分かりやすいと評判ですよ」

「あ、そうなんですね……!ありがとうございます」


 両手で受け取ったその本を、ぱらぱらとめくる。

 紙の匂いは新しく、指先に伝わるざらりとした感触が心地よい。中身を覗くと、難解な専門用語は少なく、挿絵も豊富で、子どもでも理解できそうな構成になっていた。

 魔法の知識がゼロの私には、まさにぴったりの一冊だろう。


「あちらの島から先は、より専門的な分野になります。……なにか具体的にお探しの分野はございますか?」

「あ、じゃあ……」

 どう答えようか一瞬迷い、喉の奥で言葉を転がす。

 本当は“異世界転移”とか“元の世界に帰る方法”と聞きたい。でもそんなことを正直に言えるわけもなく――。

 少し遠回しに表現してみる。


「移動魔法……みたいなものって、ありますか?」

「ええ、ございますよ。それでしたら、こちらへどうぞ」


 そう言うと彼女はすぐに歩き出した。すぐ近くかと思いきや、どうやら私の考えは甘かったらしい。「こちらです」と言われてから、長い書棚の間を二分、三分と歩き続ける。


 高い天井から差し込む光が、静かな廊下に影を落とす。歩を進めるたびに革表紙や羊皮紙の匂いが漂い、まるで知識の森の奥へ奥へと踏み込んでいくような気分になった。


「移動魔法は、このあたりですね」

「あ、ありがとうございます……」

 やっと辿り着いたものの、気づけば初めに案内された“基礎知識の棚”がどこにあったのか、すっかり分からなくなってしまっていた。まるで迷宮だ。


「よろしければ、こちらのマップをご覧いただくと探しやすいかと思います」


 差し出されたのは、一枚の紙だった。図書館全体の地図ではなく、“魔法関連の書棚だけ”を抜き出して記した簡易マップらしい。

 よく見ると棚番号やジャンルごとに色分けされていて、これなら私一人でも迷わずに探せそうだ。


「ありがとうございます!」

 受け取った瞬間、胸の奥に小さな安心感が広がる。


「私は一階のカウンターにおりますので、ご不明点がありましたら、どうぞお気軽にお声がけくださいませ」

 そう言って案内は終わり、1階へと降りていった。


 広すぎる館内を思えば、案内係が常駐しているのも納得だ。マップがあっても、初めて訪れる者にとっては迷子必至の大迷宮なのだから。

 それにしても、ここまで付きっきりで案内してくれるとは思わなかった。おかげで、ただの巨大な建物ではなく、知識を受け入れてくれる場所としての温かさを感じられた。私の中で、この図書館への信頼感がぐっと増した気がする。


 それから、専門的な分野の本も気にはなって、背表紙に指を滑らせ何冊か手に取ってみた。けれど、目を通すたびに現れる複雑な図表や、難解な専門用語に早々と挫折してしまう。まるで異国語を眺めているかのようで、頭の中を素通りしていった。


 ……いや、ここは異世界なのだから、異国語であること自体は間違っていない。

 それでも不思議なのは、文字がちゃんと理解できてしまうことだった。


 本当は、イーサンが図書館に連れて行ってくれると聞いたとき、一番心配していたのは内容よりも文字だった。もし読めなかったらどうしよう。この年齢で、一から現地の文字を勉強するなんて絶望的すぎる。さらに、そう長くはない数ヶ月の滞在だと考えると、きっと気力が持たないだろう。


 けれど、現実に本を開けば問題なく読み取れる。

 本当に日本語なのか、それとも現地の文字が勝手に日本語に変換されて見えているのか――真相は謎だ。けれど、異世界に飛ばされるくらいなのだ。後者でも何の不思議もないだろう。


 そんなことを考えながら何冊かを手に取り、パラパラとページをめくった。

 そこで改めて痛感する。やっぱり基礎から積み上げないとダメなんだ――。

 そう悟ってからは、初心者向けに紹介してもらった棚へと戻り、今度は腰を落ち着けて本を選んだ。紙の厚みや挿絵の雰囲気を確かめながら、読みやすそうなものを三冊ほど手に取り、机に並べる。


 一冊を開くと、魔法を扱う上での基本的な心構えや歴史、日常で使われる初歩的な呪文について丁寧に書かれていた。

 ふむふむ、と読み進めるうちに、ページの間から紙の匂いがふわりと漂い、指先にはざらりとした感触が残る。その感覚が妙に心地よくて、気づけば没頭していた。


 もちろん理解には時間がかかるだろう。けれど、この広さと本の多さがあるのなら――きっとどこかに、私が探している答えも眠っているはずだ。


 やがて、閉館を知らせる鐘がかすかに鳴り、私はハッと顔を上げた。いつの間にか、約束していた三時間が過ぎていたらしい。慌てて読みかけの本を閉じ、借りたい数冊を抱えてカウンターへと向かう。


 本の重みを両腕に抱きしめながら、私は図書館の大扉を押し開けた。


 外に出た瞬間、柔らかな風が頬を撫で、先ほどまでの静謐な空間との落差に思わず目を細める。けれどその風すら、まるで「またおいで」と背中を押してくれるかのように感じられた。


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何事も学ぶこと大切です…知らぬは一時の恥それを馬鹿にするのもっと恥!っていうね!
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