5.プレイヤーとの交流 10
工房から出た廊下で、向かいの裁縫用の工房から、あの見たことがある男が出てきた。男は、前を見てなかったのか最初はこっちに気づかなかったけど、目の前を通り過ぎたあたりで気づいて、こっちを何回も見直した挙句。
「うっ、女神が尊い……」
と呻いてその場に蹲って倒れ伏した。……コイツは何なんだろう。意味が分からないし、とりあえず一般常識に疎いという自覚があるこっちからしてみても奇妙だ。
「……カササギさん。裁縫室から出てきた人が目の前で転がってるんだけど……」
『織夜ェ……。カナくん、ソイツ無視して降りといで~』
「わかった」
さすがにどうしたものかと思ってカササギさんに声をかけると、カササギさんもさすがにあきれ果てた声で答えてくれたので、なんだか横たわったままびくんびくんと痙攣してる気持ち悪い男を無視して、一階につながる階段を下りていく。
「あ、カナカくん! 大丈夫? 織夜になにもされてないかい??」
食堂に足を踏み入れると、先に室内にいた蜩さんがそう声をかけてくる。大丈夫って何がだろう。何を心配されているのかわからなくて、頭の中が疑問符でいっぱいになる。こっちがそんな状態なのに、蜩さんもなんだか不思議そうな顔をしてる。
少しの間二人でお互いに不思議そうな顔をしてたけど、傍から見ていたカササギさんが噴出した音で、そっちに意識が向いた。
「カナくん、織夜と遭遇したときどういう行動取ってた?」
「……? 僕が廊下に出たら、アイツも裁縫の工房から出てきて、最初僕に気づいてなかったけど、僕の前を通り過ぎたと思ったらいきなりその場に蹲って倒れてなんかつぶやいてごろごろし始めた」
カササギさんの問いに答えると、蜩さんの目がすっと据わったのが見えて、変な圧力を感じて体が震える。反射で体が構えそうになったけど、自分に向けられた殺意や害意じゃなかったから、何とか構えずにいられた。
「ん? アンタら何してるんだい。晩御飯にするんだからさっさとお座り」
キッチンから顔を出した真鯛の刺身さんが、こちらを見ていぶかしそうにしながらそういう。両手には何枚も皿が載っていて、それを危なげなく持ったまま食堂に入ってきて、半分準備されてるテーブルに一皿ずつおいていく。
座れと指示されたので、素直にカササギさんの隣に着席する。その前に配膳された皿には、きれいに盛り付けられた……たぶんパスタが載ってる。平たくて中太の麺に、緑のたぶん野菜と、赤い小さな輪っか、焦げ茶色のキノコに、たぶん肉っぽいものも載ってる。
パスタの皿とは別に小さめの深皿に、ほんのりと茶色みのある液体。ワイングラスみたいな、液体を入れるところと台の間が細くなっているグラスに、濁った黄色っぽい液体が入ってる。
たぶんこれが晩御飯なんだと思うんだけど、席についてるのは自分とカササギさんと、奥の方の席でなにか話をしている最中食べたいさんにジンジャーマンクッキーさん。その向かいれるん。さんと四月朔日さんがいて、自分の向かいの席にカチュさん、少しの間じっと座った目でどこかを見てたけど、真鯛の刺身さんに促されて座った蜩さん。
真鯛の刺身さんが端の席に腰を下ろすと、いないのはさっき二階の廊下で蹲っていたあの男だけらしい。ジンジャーマンクッキーさんの隣に空席があるので、そこがその男の席だと思うんだけど、そこの席にも食事は置いてあるけど空席なのに、誰も気にした様子がなく、真鯛の刺身さんも「足りてない皿はあるかい」と声をかけて回ってる。
「よし。織夜のバカタレは無視してさっさと食べるよ、じゃあいただきます」
「「「「「「「「いただきます」」」」」」」」
促されるままに挨拶をして、出されたものを見下ろす。昼食よりは、どうすればいいのかわかる気がする。用意されていたカトラリーは昼と同じでフォークとスプーンが置いてあって、パスタは基本的にフォークで食べるものだという認識はあったから、フォークを手に取る。それから、パスタにフォークを差し入れて、とりあえずフォークをくるくると回すと、フォークの先端にパスタの麵が絡まる。
ちょっと不格好なパスタの塊を口の中に入れる。塩っぽい味と、赤い小さな輪っかを噛んだ直後にピリピリとした刺激が口内いっぱいに広がって、反射的にびくっと体が震えた。ピリピリとしびれるような、痛みに近い刺激に咀嚼が止まってしまう。
「……カナくん? どしたの」
硬直したこちらに気づいたのか、隣のカササギさんが大きく頬を膨らませながらこちらを見てくる。膨らんだ頬がもにもに動いて、ごくんと嚥下する音が聞こえてから、こっちが答えないのに不思議そうにしてる。
口の中の刺激で咀嚼が止まってしまって、咀嚼の再開が怖くなって、咀嚼できないから飲み込めなくて、口の中にソレが入ったままになってるから口も開けなくて。どうしよう、どうしようと頭の中が混乱してしまう。
「カナくん、口の中になんか入ってる?」
こくりと頷く。
「それ、飲み込めないの?」
もう一度こくりと頷く。
「でかいから? ……噛めないから?」
前者は横に、後者に縦に首を振ると、カササギさんはさっぱりなくなってるカササギさんの皿じゃなくて、ほとんど残ってるこちらの皿を見てから「あ~」と何かに気づいたように一つ頷いてから、こちらに指示をしてくれる。
「カナくん、麺だからたぶん行けると思うから、噛まなくていいから飲み込みな」
カササギさんの指示に、口の中に入ったままの麺を飲み込もうとして見る。ほとんど噛んでない状態だったけど、麺は想像よりもするりと喉の奥に流れていく。
「……ぴりぴりする」
口の中に何もなくなったので、カササギさんに状況を訴えれば、カササギさんは「とりあえずこの赤いの口に入れるのは、もうちょっと食べるのに慣れてからね」と言いながら、どこからか取り出した端で、こちらの皿の上に載っているパスタの上の赤い小さな輪っかをひょいひょいと手早く別の皿に避けてくれたけど、ピリピリとした刺激が恐ろしくて、パスタを口に入れようという考えが消え失せてしまっていて、手が動かない。口をつけているのだから、食べなければいけないと思っているのに、フォークを握る手が動かなかった。
「カナくん、赤い奴がぴりぴりの原因だから、赤いの口に入れなきゃ大丈夫だよ」
カササギさんが、自分が握っているフォークをさっと奪い取り、フォークでくるくるとパスタ麺を巻き取って小さな塊を作ると、「ほら、口あけな」とこちらの口元にフォークを差し出してくる。ピリピリという刺激への恐ろしさはあっても、指示があればその通りに動くしかなくて、反射で口が開く。
昼と同じように巻いたパスタを口の中に放り込まれ、ピリピリがいつ来るのかとドキドキしながらかみしめるが、口の中に先ほどのようなピリピリとした刺激は来なかった。
「辛くないでしょ」
「……辛い。ピリピリが、辛い?」
刺激に対する疑問の回答は返ってこなかったが、とりあえずパスタを口に入れて再びピリピリすることはなかったので、そのまま食事を続ける。フォークをくるくるとして、パスタを巻き付けるのは少し楽しいかもしれないし、先ほど知ったが、麺はそこまで噛まなくても飲み込めるのを知った。昼と違って差ほど噛まなくてもいいので、口が疲れない。
おかげで皿にいっぱいあったパスタはすべて腹の中に収め終えられて、深皿に入った茶色みのある液体を、スプーンで救ってみる。パスタを食べるのに少し時間がかかったので、少し冷めているのでもう湯気は出ていない。口の中にスポーンを入れて液体を流し込む。少しトロッとしたそれは飲み込みやすく、塩気がある。でも、それ以上に口の中に広がる何かがあるが、それが何かは相変わらずよくわからない。でも、飲みたくないと思う感覚ではないから、深皿の中の液体をすべて飲み干した。
「ほい、ジュースもお飲み」
「……ジュース」
深皿の中が空になったのを見て、カササギさんが手を付けていなかったグラスを推しっ出してくる。その時に言われた「ジュース」という単語に、これがジュースかと不思議な気がした。
「ジュース」というものがあるのは知っていたし、それが飲み物であるのも知っていた。だが、家にいたころは「ジュース」は口にすることが許されない悪の飲み物と言われていた。それを、今になって口にするのは不思議だなと思った。
グラスを持ち上げて口に含む。口の中にやっぱり不思議な味が広がって、少しだけ口がきゅっとなる味と、広がったらぽわぽわとしたものが体の中に広がるような味がした。
グラスの中身も飲み干したところで、腹部が圧迫されるような感覚があて、腹部に触れるけど、別に圧迫されてはいないように見えて、やっぱり不思議だった。
「ごちそうさまでした」
昼と同じように挨拶をすれば、「はいよ、おそまつさまでした」と真鯛の刺身さんから返事が返ってくる。それになんだが不思議な感じがして、この感覚をどうすればいいかわからないまま椅子から立ち上がろうとすると、向かいに座っていたカチュさんがこちらに声をかけてくる。
「そういえばカナカさん。明日のご予定は決まっていらっしゃいますの?」
「明日」
明日と言われて少し不思議な気持ちになったけど、明日やろうとしていることは決まっていたから、こくりと頷く。素材があれば作ってみるし、なければ採りに行くだけだ。たぶん、その辺を歩けば先ほどむしった花や蔓は見つかるだろう。
「え、何するの? なんか作る?」
カササギさんもこちらを覗き込んでくる。それにもとりあえず頷いて見せると、カチュさんが「どんなものをおつくりになられるのです?」と聞いてくる。どうしようかなと少し考えてから、食事前に描き上げたノートを取り出して見せた。




