2.始まりの街 9
ログアウトしてHMDを外すと、また側で様子を見ていたらしい主治医がベッドの隣の椅子に腰掛けてこっちを見てて、若干気持ち悪いなって思った。いや、別に見てなくてもいいでしょ。
「そうは言うが、キミは一応要観察患者だからね~」
「知ってるけど、別に見張られなくても自傷はしないよ」
「俺はわかってるけどね。それよりゲームはどうだい?」
だろうな、と思う。この施設に自分以上にぶっ壊れた人間がいるとは思ってないし、対応に苦慮されてるのも理解してるから、何も言わない。主治医はわかってるだろうけど。
「ん、ゲームの常識がわかんないから困ってるけど、とりあえずHELP見てる」
「ほかのプレイヤーと交流はしてないんだねぇ」
「こうりゅう……。それをする意図は何だろう。なんで交流しないといけない?」
そう問いかけると、主治医が苦笑したのが見えた。どうやら彼の意図をくみ取れなかったらしい。
「こういういろんな人間が同時に接続するようなゲームはね、わからないことがあったら先に遊んでる人に聞いて知識を蓄えることが多いんだよ。こういうゲームにはそうやって始めたばかりの人に教えるのが好きな人も多いからね」
「……報酬はいくらくらいなんだろう」
「うーん、大体は無償っていうか、その場で困ってる人に手を差し伸べただけ、くらいの感覚の人が多いんじゃないかい?」
主治医の言ってることが若干よくわからない。普通、知識とは報酬を払って教授してもらうものだと思うし、そうじゃなければ教本などで調べるものじゃないんだろうか。
こちらの考えていることが想像ついたのか、主治医が苦笑を深めて人の頭に手を伸ばしてくる。伸びてくる少し大きな手、記憶にあるぶくぶくとした毛深くて色黒いかさかさとした手が一瞬重なるが、主治医の手はもっとすらっと指が細長くて、記憶の手よりもすべすべとしてて、色白い。向かってくる手をそのまま受け入れると、主治医は何が楽しいのか少し毛が伸び始めた中途半端な坊主頭を撫でまわしてきた。
何が楽しいんだろうと不思議に思いつつ主治医のやることをぼんやりと眺めていると、主治医が満足したのか撫でまわしは終了して主治医の手が離れていった。
「ま、そのうちわかってくるんじゃないかな。で、困ってることがあるなら今のうちに聞いてもらえれば教えられるよ」
主治医の言葉に、やりたいことに必要ないと思ったアイテムを普通はどうするのかを聞いて、明日のスケジュールを確認してから二度目のログインをする。それを見ていた主治医の目が何だがくすぐったい気がしたのは気のせいだと信じつつ。
ログインすると街の外の壁の近くに立っていたので、壁を背もたれにして入門書をウェストポーチから取り出す。ノートと同じくらいの大きさの冊子は、ノートよりも薄い。読むのにはそこまで時間はかからないだろうと、どこかカラフルな表紙を開いた。
おおよそ三十分ほどかけて読み込んだ入門書は正しく入門書だった。まず最初の数ページである程度の手法に関することを出来上がりの作品写真と合わせて掲載してあった。これはわかりやすいし、イメージしやすい。どんなのを作りたいかってイメージが固まってなくても、これに似た感じのにしたいと思えば、その手法を使えばいいもんね。
で、そのあとは二ページ見開きを使って一つ一つの手法の初歩的なところを簡潔に、写真も使いながら説明してくれているから、ページをめくることなく集中して手元と工程の説明を見比べることができる。手法を学ぶにはこれはいいと思う。人によっては、ページをめくるだけでそれまで何をやっていたかわからなくなってパニックになる人もいるみたいだから。
長く丁寧に説明するのは、手元を一手一手確認しつつ誰かについてもらって教授してもらうときだけでいい。教本で長々と説明されても、一手の形が頭の中で思い浮かばなければ理解が進まないから。
ぼんやりとそんなことを考えながら入門書を眺めつつ、手に入ったエルガー草とミットライド草が素材として使える手法はどれなんだろうとぱらぱらと眺めていると、どちらもマクラメという通常は蝋引き紐を使った、道具を特に使わなくてもできる編み物系のアクセサリーらしい。おばさんに見せてもらった中にも、紐が複雑な形になったアクセサリーがあった。
マクラメを実際にやるにはもう少し素材が必要だけど、先にマクラメの解説ページを開きなおして必要な素材を確認する。マクラメを作るなら、ほかにグロル草、トラウリギケイタ草、ウェアツヴァイフル草があったほうがメリハリができる、らしい。
……ふと思ったけど、この植物たちの名前って現実にあるのかな? 植物についての知識とかないからよく知らないけど、なんか不穏な単語っぽいのがあるんだけど。エルガーとかミットライドってたぶんドイツ語のÄrgerとMitleidだよね。グロル草もたぶんGroll、だし。トラウリギケイタってローマ字読みしてるっぽいけどTraurigkeitでしょ? ウェアツヴァイフルもたぶんVerzweiflungじゃない。いや、めっちゃ不穏……。
大学の第二言語にドイツ語を選択させられてたから何となくそうじゃないかと思ったけど、現実にこんな名前の植物あったら怖いな……。でも、植物って結構そういうのから名前付けられてたりするのかな。うーん、このログインが終わった後、就寝時間までの間図書室にある植物図鑑でも持ってきて眺めてみるかな。
……そういえば、この街の名前も知らないな。まあいいや。とりあえずグロル草とトラウリギケイタ草とウェアツヴァイフル草がないか探してみよう。入門書を閉じてウェストポーチにしまい、その場で立ち上がる。若干土で汚れた気がするお尻のあたりをパタパタと軽く払ってから、もう一度草原に足を踏み入れた。