プロローグ
「真夜中髪を洗っている間に、3回鐘の音が聞こえると死ぬ」
夏のじっとりとした空気がまとわりつき、恐怖が背筋をむしばむ。
見えないものの気配を感じるとき、鐘が鳴る。
シャンプーの泡を嫌って、必要以上に目を固く閉じる。
1人きりの風呂場のはずが、研ぎ澄まされた感覚によって途端にさまざまな気配を感じとる。
換気扇の音も、シャワーの音も、髪と泡とが自分の手によってかき乱される音も、すべての音が置き去りにされたように感じる。
それほどまでに「何か」の気配は、うるさいくらいの音たちを押しのけてそこかしこに感じられるのだ。
―あぁ、気味が悪い。
いつも味わうこの感覚に、今日は輪をかけてじっとりとした不快感がまとわりつく。
「真夜中髪を洗っている間に、3回鐘の音が聞こえると死ぬ」
そんなうわさを隣の席の真代から聞いたのは、ほんの12時間前。
鐘?なにそれ、意味わかんないよ。それ考えたの小学生でしょ。
なんて馬鹿にしながらも、やはり夜も更け丑三つ時が近づく頃になると、なぜか空気が恐怖で武装する。
まるでこの夏の気配すべてがお化け役のお化け屋敷にいるようで、驚かされる前提の施設なのにいつまで経っても襲ってこないことが逆に自分の心の警戒を加速度的に強めていく。
「嘘じゃないよ、私、ほんとに聞いたのよ。ほら、隣のクラスの山田っていたじゃない。あの入学式に倒れたやつ。本格的に授業が始まって1週間したら学校休み始めたらしいんだけどさ、その山田が最後登校した日に急に周りの子に話し始めたらしいのよ。昨日は2回目まで聞いちゃったから、今日はもう駄目なんだって、すごいギラギラした目でつば飛ばしながら喚いてたんだって。」
聞くと真代は、同じ部活の悪友たちからそのうわさを仕入れてきたらしい。
山田なんて生徒がいたかどうかも覚えていないが、確かに同じ学年で入学早々不登校になった子がいるという話はなんとなく聞いたことがある。
でも中学の時にも学校生活になじめず保健室に通っていた子がいたし、いろんな動画を見ていても、不登校をネタにたくさんの視聴数を数えている子は目にしていた。
特段珍しいことでもないのだろうと、自分の生活とは切り離して考えていたため、その生徒の具体的な情報は気づけばシャットアウトしており、ただ単に同じ学年に不登校の子がいるというひどく他人事な情報だけが残っているのだった。
昔から、怖いものの類は好きではなかった。
肝試しやお化け屋敷など、死者を冒涜しているような不快感や、自分の身に何か起きたらどうするのだという過剰ともいえる防衛本能で無意識的にも意識的にも避けてきた。
ホラー映画や怪談のアニメでさえ、平然を装いながら目に入れないようにしていた。
だから、高校生の今でも耐性が付いておらずそういったものは怖いのだ。
お化けが見えるわけでも、スピリチュアルな何か特別な力を持っているわけでもないからこそ、存在しないはずの見えない何かに極端におびえる。
そのくせ、「怖がりすぎたり意識しすぎると逆によってきてしまう」なんていう手も足も出なくなるような情報だけは耳に入ってしまうので、もうどうすればいいのか分からなくなってしまうのだ。
特にこの季節は周りが待ってましたと言わんばかりにホラームードを作り出す。
納涼などといえば聞こえはいいが、本来の目的が分からずつい探ってしまう。
これは何かの陰謀なのでは?
行き過ぎた想像力は妄想となり、やがては強迫観念のように恐怖につなぐ鎖となる。
ぎりぎり泡が残っていないと判断し、ざっと顔に水を浴びて一気に目を開ける。
じわじわ目を開けていた時もあったが、そんなことをしては恐怖に栄養を与えるだけだと気が付いた。
どうせ何もいないとわかっているはずではあるものの、自分の目で確かめて初めて真実となるのだ。
今日も何事もなかったことに安堵しつつ、再び真代との会話を思い出す。
「山田、その2、3日前から様子がおかしかったらしくてさ。まぁもともと、陰キャで太ってるし、急にぶひぶひ笑い出したりして相当キモがられてたみたいなんだけど、それとは違うやばさがあったらしくて。目がぎょろついてて、すごい鼻息で震えだしたと思ったら、一人で大声で「こんなはずじゃなかった」って叫んだらしくて。美咲と羅々がキモ過ぎたからめちゃくちゃ切れたらしいの。そしたら、「真夜中髪を洗っている間に、3回鐘の音が聞こえるともう二度と帰れなくなる」っていって失神したんだって。やばすぎない?」
真代はうわさについてまったく本気にしていない様子で、ただただ山田という生徒の異常性と、閉鎖された学校という檻の中でその時一番スキャンダラスでショッキングな話題の一つとして扱っているようだった。
それを証拠に、「っていうかこの前知ったんだけど、佐々木さんと倉田って付き合ってるらしいよ。マジでなんでそこ行ったって感じじゃない?」と新たなスキャンダルを口にする。
内容はなんだっていいのだ。
自分以外の誰かの話で、こき下ろせればそれだけで自分の優位性と安全性が担保される。
高校生である私たちはしばしばそうやって自分の立ち位置を守り、同時に確かめる。
自分はまだ大丈夫なのか、同じ身分のみんなよりも劣っていないか、上の身分の誰かに目をつけられていないか、下の身分の誰かに出し抜かれたりしていないか。
うわさをしているようなふりをして、その実こうやって自分を確かめているのだ。
次に傷つくのが自分以外の誰かということへの一さじの罪悪感を犠牲にして、ターゲットはまだ自分ではないという風呂おけいっぱいの安堵を浴びることができる。
これでまた、次に乾くまでは生きていけるのだ。
そんなことをとりとめなく考えながら、手早く体を洗い、流す。
一刻も早く風呂場を出たいがために、いつもすすぎは適当になってしまう。
扉に手をかけ開けたと同時に、耳の奥に響く「カーン」というかすかな音を聞いた。