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麻酔薬と睡魔のポーションによって、サズの意識は深い闇の中へと沈んでゆく。
まるで波ひとつない、光の届かぬ湖の中でゆらゆらと浮かんでいるような、心地よい感覚に包まれた。
瞼を閉じて身を委ねていると、凪いでいた湖に流れが生じた。
それは始めはゆったりとしたものだったが、徐々に徐々に加速してゆく。
そして、暗闇だった視界は少しずつ明るさを帯びてゆき、サズに過去の光景を見せ始めた。
◆
急に視界が明るくなったと思ったら、昨日の賢者の森で遭遇した騒ぎの光景を見せられた。
我ながらずいぶんと鮮やかに賊ゴーレムを仕留めたものだな、とぼんやり考える。
こちらを向いたセリーナさんがフードを外す。
ああ、やっぱりこの人、かなりの美人さんだよな……。
次に見えたのは、かつてのパーティーメンバーたちだった。
盾役のジョー、斥候のアンジュ、そして魔術師のニース。
視界に映るのは、あいつらとの別れの場面。
パーティー解散の話が出てから、最後までお互いに目を合わせて話すことができなかった。
あの時なぜ感情が爆発しなかったのか、今でも不思議に思うことがある。
そうなっていたとしても、何も変わってはいなかっただろうけれど。
『もしもう一度会えたら、ちゃんと目を見て謝らなきゃな……』
視界が移り変わり、再び賢者の森。
ただしこちらは二年前、オーガに襲われた時のものだ。
あのとき、一瞬でも槍で防御するのが遅れていたとしたら。
パーティーの解散どうこう以前に、みんなあそこで死に別れになっていたかもしれない。
……あ、オーガに殴り飛ばされた。
あの時ってこんな視界だったんだな、面白いようにグルグル回る。
一瞬暗転したのち、視界が回復した。
ただし、目の前は真っ赤だった。
その状態で起き上がるとオーガに向かって高速で移動して……うわぁ、目の前でオーガの顔面がぐしゃぐしゃに殴られていく。
これはちょっと、あまり気持ちのいい光景ではないな……。
そのあとも、俺の視界は次々と移っていった。
冒険者になった日の思い出や元パーティーメンバーとの出会い、初めての魔獣討伐。
小さな町の孤児院を出て、カタリスにたどり着くまでの道のり。
孤児院の仲間たちやシスター、施設長との思い出。
だんだんと時代をさかのぼっていき、俺の視界は再び暗転した。
◆
少し長く続いた暗闇が、急に開けた。
何やら、集落のようなところが襲撃を受けているようだ。
これは……孤児院に居た頃よりも前の記憶?
急に俺の小さな両肩がつかまれ、体の向きが無理やり変えられる。
視界いっぱいに映ったのは背の低い女性と、体格のいい男性の顔だった。
この人たちは、まさか、俺の両親か?
そう実感した次の瞬間には、故郷の村で過ごした記憶の数々が一気に押し寄せた。
「サズ、私たちの愛しい子」
好き嫌いはあまりしない子供だった。
「僕、将来は父さんよりも強い戦士になる!」
一人っ子で、集落の他の子供たちとよく遊んだ。
「母さんとの出会いはだな……」
河原できれいな石を探すのが好きだった。
「きみ、どこのうちの子?初めましてだよね!」
故郷以外では見たことのない亜人の子供がいた。
「異教徒どもを滅ぼせ!我らが帝国に栄光あれ!!」
故郷以外では見たことのない何かを信仰していた。
「父さんたちで時間を稼ぐ。逃げなさい、サズ」
僕は走った。
「離れてても、ずっと一緒よ」
故郷を振り返ることなく、ひたすら走った。
「一人残らず殺し尽くせ!!」
声を殺して走った。
『やめろ、やめてくれ……』
いま僕は、きっと泣いている。
ものすごい勢いで泣いているはずだ。
でなけりゃこんな仕打ち、正気を保っていられない。
どうして、どうしてこんなことを。
やめてくれ、もうやめてくれ……。
「父さん、母さん、みんな……」
……命からがら、遠くの小さな町にたどり着いた。
「待てやこのガキ!!」
生き残るために盗みを働いた。
「ぐうっ」
何か固いもので、頭を殴られた。
「おいどうすんだよ、流石に殺しちゃまずいんじゃ……」
乱暴に持ち上げられる感覚。
「気にするこたねぇ、孤児院の前にでも捨てておけ」
そこで視界は、ふたたび暗闇に包まれた。
『復讐してやる……たとえ刺し違えたとしても、必ず仇を討ってやる』
◆
ふいに、視界が明るくなった。
『……終わった、のか?』
忘れていた過去を、忘れていたほうがよかったかもしれない過去を思い出した。
もしかするとあの怒りが、記憶を失う前のあの憤怒が、オーガに殴られた時に戻ってきたのかもしれない。
……もう、疲れ切ってしまった。
あまりにも感情が揺さぶられすぎて、今はただ休みたい。
いや、早く家に帰ってラノベが読みたい……。
『今なんて?』
まるで言葉を発したことが切掛になったかのように、再び視界が開けた。
だが今度の視界の明るさは、それまでのものとは異質だった。
赤い、ひたすらに赤い炎の渦。
自分は今、記憶の海に揺蕩う海月のはずなのに、体を焦がすような熱と息苦しさを感じる。
『……海って、海月ってなんだっけ?』
息苦しさの原因は、炎だけではなかった。
そこかしこにある本棚が倒れて崩れ、書籍の山が身体にのしかかって身動きが取れないのだ。
「あー……死んだか?これ」
自分ではない自分が、言葉を発した。
「この部室棟古いもんなぁ。空気も乾燥してたし、どっかがショートでもしたか?」
あたり一面を炎に捲かれて、今にも死のうという効き的状況にも関わらず、彼はとても冷静だった。
いや、違う。
この状況を切り抜けることなど不可能であると、すでに生きることを諦めている。
「哀川流、大学のレポート課題提出のため部室棟にて寝泊まりし、ここに死す、か……全然締まらんな」
そうだ、私は日本の大学生だった。
文芸サークルに所属していて、締め切り間近の課題と原稿の追い込みのために部室棟に泊まり込んだんだ。
そして仮眠の最中に火災に巻き込まれ、気が付けばこんなことに。
なぜ死ぬ直前に本名ではなく、ペンネームを名乗っているのかは謎だが……。
「あ、なんかいい感じに異世界転生とかできないかなこれ。古今東西、宗教の儀式って燃え盛る炎とセットみたいなところあるし」
『なにをアホなことを言ってるんだ?』
お前の脳みそは、まともに思考できるだけの酸素も貰えていないのか。
……この有様じゃ、本当にそうかもしれないな。
「来世ではせめて、幸せな死に方ができますように……」
過去の私は、そう言い残すとゆっくりと瞼を閉じたようだ。
揺蕩う私の視界も暗転する。
『そうだな。少なくとも、これよりは幸せな死に方がしたいな。おやすみ、私……』
◇
意識の海から、三つの記憶が一つになって浮上した。
ポエット!